(2)
◆◆◆
翠が実験台の上に放り出していた封筒を、傍らから伸びてきた手が拾う。翠が憂鬱な顔でいる理由がその封筒にあるのを、その手の主は気付いていたらしい。
「北川 翠 様」
表に書かれた、男子生徒の物と思しき文字を読み上げたのは、低い男の声。
「ラブレターか?古風だな」
笑みを含んだ声音で告げて、大きな手が翠の頭を撫でる。
「そんなにへこむなよ。かわいそーだろ?」
この手紙の送り主が、と言外に言うその人を、翠は膨れっ面で見上げた。
スーツ姿、黒髪に一見黒に見えるけど実は濃紺色のメタルフレームの眼鏡。眼鏡の奥の切れ長の瞳が鋭いその人は、面白がるような表情で実験台に突っ伏している翠を見下ろしていた。
「だって先生……」
ぷぅ、と翠は拗ねて傍らの男を見上げる。
「それ見てよ」
それ、と指すのはさっき持っていかれた封筒。中身は先ほど男に言われた通り、ラブレターの類に間違いなかった。
「俺が見ていいのか?」
翠が頷くのを確認してから、男は封筒から中の便箋を出して開く。ざっと目を通して小さく笑い声を漏らして、さも面白そうに翠を見る。
「6組の峰岸か……行ってこいよ」
言葉と共に肩越しに廊下と繋がる引き戸の方を振り返って、男は続けた。
「すぐそこだろ?」
『放課後、化学実験室の裏で待っています』と手紙の中で指定された場所は、すぐそこ。
ここは化学実験室と廊下を挟んで向かい合っている物理実験室-に付随している物理実験準備室。普段は鍵をかけていて開かないようにしてある廊下と繋がる引き戸を開ければ、そこは化学実験室の目の前なのだ。
そして、翠と話しているこの男は、この物理実験準備室で仕事をしていることの多い物理教師の新島だった。
「やだよぉ……無理ぃ」
完全に面白がっている様子の新島に、翠は恨めしい視線を投げる。
「俺に言わずに本人に言ってこいって。そこの非常口から出て、無理っつって帰ってくるだけだろ?
大丈夫、こいつ変なやつじゃねーから。つるんでるやつらもマトモ」
翠が全く知らない差出人を新島は知っているらしい。恐らく教科担任なのだろう。新島は簡単そうに言うけれど、翠には全く簡単じゃない。簡単じゃないから、ここで実験台に突っ伏しているのだ。
それにしても、と新島は手紙と翠を見比べる。
「体育祭ねぇ。
お前、体育祭の時目立つことでもしたのか?」
手紙の中には、『体育祭で見かけてから気になってました』という一文があった。
「えー……リレー出たって言ったじゃん!」
翠が拗ねてしまうのは、せっかくクラス対抗リレーに出て全校で2位だったのに、 新島が全く見てもいなかったからだ。
「そーいやそんなこと言ってたな」
「覚えててよぅ……先々週なのに」
「しらねーよ。俺、閉会式の準備してたし」
リレーなんて見てねーよ、と返してくる新島の声音は、心底どうでもいいと言いたげな空気をまとっている。新島は自分の興味の無いことにはとことん興味が無いらしい。
「それより、早く行けよ。待ってんだろ?
これ持ってっていいから」
これ、とキャビネットの下段から出されたそれはドアストッパーで。要はオートロックである非常口に挟んで、すぐに戻ってこれるようにしていいぞ、と言う事だとは翠にも判った。それでも尚煮えきらずに呻いている翠に、新島は呆れたように息をつく。
「5分したらコンビニ行ってやる」
校舎の裏側のフェンスはいつの頃からか大きな穴が開けられていて、道路を挟んで向かいにあるコンビニへの近道として、生徒に有効活用されていた。
新島は、物理実験準備室に外用のサンダルとオートロックの非常口が閉まらないようにするドアストッパーを常備していて、時々コンビニに行っている。きっちりスーツに眼鏡で真面目そうに見える割に、案外そうでもないのだ。
「ほんとぉ?」
「仕方ないから行ってやるよ」
もちろん声をかけてくれるわけではなく、ただ通りかかるだけだと判っていた。それでも、二人きりの空間を打破してくれるだけで翠には十分すぎるほどの救いだった。
「先生、絶対だよ?5分で来てね?」
念を押すと、「はいはい」と聞いてるんだか聞いていないんだかよくわからない空返事が返ってくる。
「絶対来てくれなきゃやだからねっ」
泣きたい気分でそう言い置いて、翠は物理実験準備室を後にした。物理実験室を出て、ほんの数歩で到着してしまった非常口の前。はぁ……と、ため息のような深呼吸を一度してから非常口を開けて、ドアストッパーを端っこに挟む。あまり大っぴらに開けておくと、廊下の向こうを歩く教師に見つかって閉められてしまうから、あくまでもロックが掛からないようにだけ。誰もいなければいいのに……。そう思いながら今度こそため息をつく。手紙を書いてくれた三年生の先輩は、名前も書いてくれていたはずなのに全く思い出せなかった。
「北川さん」
不意に呼ばれた声に、肩がビクッと震えた。
「来てくれて良かった」
そう言ってはにかんだように笑った先輩に、翠は足がすくんで動けなくなる。背は翠より10㎝ほど高い気がする。短めでこざっぱりとした黒髪に、人懐っこそうな眼差し。
大丈夫…そんな…怖がらなきゃいけないような人じゃなさそう。
そう思うのにバクバクと耳の奥で心臓が早鳴りしているのが響く。大丈夫、大丈夫…。無理って言うだけ……。5分したら先生が来てくれるから……。
目の前の人の唇が動いてるのは見えたけれど、酷く緊張しているからか声が全く耳に聞こえてこなかった。
「それで、良ければ付き合ってください」
ずっと声なんてまともに聞こえなかったくせに、こんなとこだけ聞こえるってどういうことなんだろう。そう思うのに、本当に金縛りにあったように声も出てこなかった。
しばらく沈黙がその場を支配する。
静かであればあるほどに耳の奥で響く自分の鼓動に、翠は唇を噛んだ。無理だと言うだけなのに。それだけなのに、どうしてこんなにも足がすくむんだろう。
どうして声すらでなくなってしまうんだろう。
「北川さん?ごめん、急でびっくりさせちゃったよね。
その、返事はいそがないし、友達からとかで良いから……
考えてみて欲しいんだけど……」
黙り込んでしまった翠に、慌てたように目の前の先輩が言葉を紡いだけれど、考えるもなにもない。答えは無理。絶対に無理。誰かと付き合うなんて全く考えられない。だけどそれを伝えることもまた、息が出来なくなりそうなほどに緊張する。言葉を探す翠の耳に、ドアの開く音が届いた。
それは翠にとっては救いの音。
電流が走ったように、翠は目の前の先輩にペコッと頭を下げた。
「あ、あの……ごめんなさいっっ」
なんとかその一言だけひねり出して、翠は逃げるように非常口に駆け出した。途中、非常口から丁度出てきた新島に肩をぶつけたけれど、それすら気にせず非常口のドアを押さえてくれた新島の腕の下を潜り抜けて校舎に駆け込んで、ダッシュ逃げ込んだ物理実験準備室の内鍵をかけた。
はぁはぁと肩で息をしながら、ドアの近くにへたり込む。自分でもどうしてこんなに駄目なのか不思議に思う。もう一人なのに。新島しかこない物理実験準備室に居るから大丈夫だと思うのに、それでもまだ立とうとすると足がガクガクと震えて、立ち上がる事すら出来なかった。
そのまま壁際にある実験台に寄りかかって膝を抱えていると、ドアノブを回す音が響いて翠はビクッと身体をすくませた。次いでチャリッと微かに聞こえた鍵の音が新島が戻ってきたのを教えてくれて、安心してまた抱えた膝に顔を埋めた。
鍵を開けて入ってきた新島は、翠の傍らに無造作にコンビニのレジ袋を置いてなにも言わずに通りすぎた。
新島がキャビネットを開けてサンダルを片付ける音だけが、物理実験準備室の中に響く。
「何が起こったのか判ってない顔してたぞ」
苦笑混じりの新島の言葉に翠は唇を噛んだ。新島に言われるまでもない。「ごめんなさい」とだけ言って逃げたのだから、先輩にしてみたら訳が判らなくて当たり前だ。
顔を上げられずに、視線だけ傍らに置かれたコンビニの袋に移す。中には生クリームの乗ったプリンが入っていた。
「これ、いいの?」
「ん、食って元気だしな」
「わーい」
プリン一つで浮上する心に翠は少し安心しながらフタを剥がす。ふわんとバニラの甘い香りがするそれをスプーンですくって、一口口に運ぶと、口の中でプリンとクリームが溶けていく。染み込むように広がってくる柔らかな甘さと一緒に、涙が出た。
「っく……」
どうして今頃になって涙が出てくるのか全く判らないのに、ポロポロと涙が溢れてくる。
「北川」
新島に呼ばれて顔を上げると、ポケットティッシュが飛んできた。
「それしかないからな」
大事に使えよ、と眼鏡の奥の黒い瞳が僅かに微笑んで、すぐに新島は手元のプリントに視線を落とす。どうしてなにも言わずにいてくれるんだろう。いつも理由を聞かずに、責めたりもしないで泣きやむまで居させてくれるこの部屋が、翠には学校の何処よりも安心する場所だった。
◆◆◆
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