(5)


『何度も言ってるだろ、たまたま前のヤツが最低だっただけだって』


 飲み会を一次会で切り上げて、駅構内のコーヒーショップの前を足早に通り過ぎる。しとしと降る雨と漂うコーヒーの香りに思い出すのは、先生に昔何度となく言われた言葉。


「先生の……嘘つき」


 ぽつりと唇から零れ落ちた言葉は、駅の雑踏に呑まれて消えていく。私にとって男の人は、7年前から恐怖の対象になってしまった。それはいまだに変わらない。先輩と他の男の人が違うなんてことも、思えていなかった。


 元々わいわいして賑やかなのが好きで、中学も高校も比較的男子とも仲が良いグループに居た。先輩の事があってからは、あんな経験をみんなに知られるのが嫌で空元気でやり過ごした。高校の頃は既に1年間一緒に過ごしていた仲間だったから何とかやり過ごせたけれど、知らない人だらけの大学は、私にとって凄く怖いところだった。


 女子大に行かなかったことを本気で後悔した。


 新入生歓迎と謳った上級生が開催する飲み会は、隙あらば隣に見知らぬ男の人が座ってくるし、遠慮も何もなく触れてこようとする。怖くてたまらなくて、飲み会には極力行かないようにした。


 社会人は、大学生の飲み会ほど無法地帯じゃない。2人きりでなければそれなりにやり過ごせるようになったから、随分マシになったと自分では思っている。


 それでもやっぱり、踏み込まれるとダメなのだ。


 しとしとと止まない雨の中を歩いているうちに、酔いは完全に冷めていた。その分、雨の音に呼び起される記憶に容赦なく引き込まれてしまう。家の近くのコンビニの前の信号待ちをしながら、溜息をついて目を伏せると、じわりと涙が目に沁みた。雨で濡れた世界は、悲しくなるほどにキラキラと光を反射する。


 コンビニの向かいの公園の近くの街灯の下に、いつも黒い車を探してしまう。同じ車種を見かけると、反射的にナンバーを見てしまう。


 先生に送ってもらう時は、いつもこの公園の前までだった。



 ◆◆◆


 物理実験室のドアが開いて、翠は顔を上げた。逆光でよく見えなかったけれど、シルエットは男のもの。男の人だとわかったとたんに、なんともいえない不安のようなものが胸に湧き上がってきて、足から力が抜けそうになるのを、ぐっと堪える。翠が居ることが予想外だったのか、ドアを開けたその場で足を止めたその人は、翠を見て小さく漏らした。


「あぁ、……昨日の」


 聞こえてきた声は昨日聞いた低い声で、その声だけで翠の胸には安堵が広がっていく。


「昨日は、ありがとうございました」


 昨日、この人は翠が泣き止むまで何も言わずにいてくれた。その後、3年生の教室に荷物を取りに行く間も、家の近くまで車で送ってくれる間も、一度も翠を問い詰めたりもしなければ、責めるようなこともしなかった。


「いや。昨日は言わなかったけど、もし訴えたいならちゃんと警察に行った方がいい。

だけど、事情かなり詳しく聞かれるだろうからその辺はよく考えて、な」


 そう言いながら翠の背後の物理実験準備室のドアを開けて、準備室に入る。


「けい……さつ?」


 翠の全く理解できていない表情を横目でとらえて、男は呆れたようにため息をつく。翠は警察と言う言葉を反芻していた。警察なんて考えたことも無かった。そんな翠を横目に、男は慣れた様子でキャビネットから缶コーヒーを出してプルタブを起こすと、コーヒーを一口飲んだ。


「で?どうした?なんか忘れ物でもしたのか?」


 あぁ、昨日のコーヒーあの棚から出てきたんだ、と明後日なことを考えていた翠は、男に言われてここに来た理由を思い出した。


「違います。あの、昨日お礼、言えなかったから……」


 あのまま誰も来なかったらきっと朝まで動けずにここに居たと思った。温かいコーヒーは、不安だった心を温めてくれた。家まで電車に乗る事無く送り届けてもらえたのは、昨日の翠にとっては凄く安心することだったのだ。


「俺に礼を言うよりも、やることあんだろ」


 ほかにやること?そんな事は翠にはやはり何も思い浮かばなくて男を見た。


「昨日の相手、ひっぱたくなり、なんなりして来いよ」


 その言葉を聞いているうちに、目頭はどんどん熱を持つ。散々泣いたのに、やっぱり涙は何処からとも無く湧き出てくるのだ。今朝だって昨夜ずっと冷やしていたのに酷い顔で、お昼頃にやっとマシな顔になったばかりだったのに。


「いい男じゃなさそうだから、仲直りはあんまお勧めしないな」


 少し呆れたように言って、ぽんっと頭に手を置かれたら、頑張って堪えようとしてた涙が決壊した。ボロボロと止め処なく涙が出てくる。


「もぅ……彼氏じゃないです。終わったし……」


 終わった、自分で口にした言葉なのに、翠は酷く絶望的な気持ちになって立っていられないような気がした。丁度ドアの所に立っていた翠の背中を軽く押して、その人は翠を部屋の中に入れてくれた。


「嫌な事、ちゃんと嫌だって言わなきゃだめだろ」


 そんな言葉を聞きながら、翠は閉まったばかりのドアを背に、ずるずるとしゃがみこんだ。もう立っているのが限界だった。


 言った……もん……。唇から零れそうになった声は、言葉にならずに嗚咽に変わっていく。


 高圧的な所があるのを知ったのは、付き合ってからだった。ただの部活の後輩として接してた頃は、そんな雰囲気は全く無かった。変化は付き合ってから些細な事から始まって、メールをすぐに返さないと機嫌が悪くなったり、呼び出されたら必ず応えないといけないという空気が漂ってきたり、少し束縛が強いのかと思ったのだ。


 だけど、一度身体の関係が出来たら……その後は拒んでも無駄だった。好きな人だったから、求められたら応えたいと思った。だけど、淡い憧れと好奇心ではだめだったのだ。想像以上の痛みに、怖くて、怯えて、何度もやめてと言ったのに……止めてはもらえなかった。


 でも、もう終わった。もう、道又との関係は全て終わったのだ。入学してからずっと、隣のコートにいる道又に憧れていたのに。折角その先輩の彼女になれたのに、幸せな時間なんてなかった。あんなに痛みに耐えて、あんなに苦しみに耐えて過ごしていたのに。それなのに、たった一行のメールで何もかもが終わったのだ。


 虚しさだけを残して。


 どの位ここで膝を抱えていたのか、不意に耳に届いた引き戸の音に翠が反射的に顔を上げると、部屋の廊下側にもう一つあるドアから男が入ってきたところだった。


「落ち着いたか?」


 その低い静かな声音に、どう答えたらいいのか判らずにぎゅっと膝を抱き締めて俯いてしまう。気持ちが落ち着いたかどうかといえば、落ち着いたのかもしれない。だけど、何かをする気力も何もかも尽きてしまった気がした。 


「やるよ」


 頭の上に何か固いものを置かれて、滑り落ちてきたのを慌てて受け止めると温かいミルクティーだった。


「ありがとう……ございます。あの……先生、ですか?」


「……じゃなかったら何でここに居るんだよ」


 馬鹿か? と言うように憮然と言い返されて翠は唇を尖らせた。


「だって、見たことなかったから」


「1年は物理無いだろう。それに理系クラスじゃないと物理取らないし」


 言われてみればここは物理実験室だ、ここをこの人が使っているなら物理の先生というのが一番しっくり来る。


「ずっと床に座ってたから冷えただろ。冷めないうちに飲めよ」


 言われて翠は手の中にあるミルクティーの缶を開けようとしたけれど、冷え切った手では力が入らなくて、上手くプルタブを起こせない。何度か失敗するのを見かねたのか、すっと伸びてきた手が、器用に片手でプルタブを起こしてくれた。


「帰り、平気か?」


「?」


「電車乗れそうか?」


 言われて、翠は唇を噛んで俯いた。朝の電車では、男の人が近くに居るのが怖かった。帰りも……と思うと憂鬱に思っていた。


「あんまり……平気じゃない……です」


 翠の答えに、目の前のその人は眼鏡の奥の瞳を少し寂しげに微笑ませた。


「今日も送ってやるから待ってな」


 翠は小さく頷いた。


「せんせ、なんて名前?」


「新島、お前は?」


「翠、ヒスイの翠って書いて、すい」


 名前を答えたら、こつんと頭を小突かれた。


「名前じゃなく苗字」


「……北川です」


 わずかな微笑みと素っ気無いのに優しい言葉が、心に広がる憂鬱を拭ってくれる。定位置らしい昨日も使っていた奥の実験台でパソコンを開けた新島を眺めながら、温かいミルクティーを飲む。コーヒーとは違う、甘くて優しい味わいに不安な気持ちはゆっくりと溶けていく気がした。


 これ、わざわざ買ってきてくれたのかな……? それを聞いてもきっと素っ気ない言葉しか返ってこないのだろうと想像がついたけれど、気にかけて貰えていたのかもしれないと思うと、一人じゃないのだという安心感が胸に広がっていく。


 誰かに側に居て欲しかったんだと、やっと気がついた。


 ◆◆◆


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