(6)


 もう寝ようとベッドに転がったものの、なかなか寝付けずにいると、立て続けにスマホがラインメッセージの受信音を奏でた。普段ならこんな時間に鳴ることが無いのに。訝しみながら手を伸ばしたスマホのロック画面に表示されているメッセージに驚いて、ベッドの上に跳ね起きた。


『北川、今度飯食いに行こう。前の事、別に俺は怒ってないし』


 送ってきたユーザー名は『YU-TA』登録もしていないし、初めてメッセージを受信した相手ではあるが、知らない人ではない。菊池君、だ。同期のグループラインから私に直接メッセージを送ってきたのだとすぐに察しがついたけれど……


 菊池君とご飯とか、ありえない。菊池君に限らず男の人と二人でご飯を食べるなんて私には到底無理な話だ。


 どうしよう。なんて返事をしよう。


 いや、そこは何も悩む必要もなく、『二人で会うつもりはない』それがただ一つの答えなのは判っている。問題は、どんな言葉でそれを伝えるか。どんな言葉で伝えたら、菊池君の機嫌を損ねずに済むのか、それが判らなかった。


『無理なら無理ってさっさと言えって何度も言ったろ』


 そんなの判ってる。判ってるよ、先生。


 記憶の彼方から、今でもクリアに聞こえてくる先生の呆れ声に、唇を噛んで俯いた。判っているのと、実行できるかどうかは違うのだ。


 私、全然成長できていない。そんなことを今更のように実感していた。



◆◆◆


 返って来た化学のテストを眺めながら翠は満足げに笑みを浮かべた。文系で進学クラスでもないこのクラス、女子クラスで化学を好きと言う子はあまり多くない。翠もその例に漏れず、去年までの化学のテストはまぁ良くて60点そこそこだった。


 だけど、今回は違う。クラス最高点を取って、翠はご満悦だった。


 それもこれも、新島せんせにテスト前に教えてもらってた賜物だもんね。


 試験前の期間、翠は毎日6時までという制限つきではあったが物理実験準備室で勉強をしていて、時には新島に教えてもらっていた。はっきり言って放課後に新島に教えてもらった方が、化学の先生の授業を聞くより判りやすかった。数学だってそうだ。いつもは赤点をぎりぎり回避している程度だったのに、今回は平均点を超えた。


「すーい」


 うきうきと鞄を持って物理実験準備室に行こうとした翠を美咲が呼び止めた。

 

「何ー?」


 美咲は、女の子の翠から見ても綺麗な子だ。なんといっても去年の文化祭のミスコンクイーンなんだから。学校でも目立つ美人の美咲は、高校に入学してから一番に仲良くなった翠の親友の1人だった。その綺麗な顔にどこか含みがある笑みを浮かべて、美咲はにっこり笑う。


「ちょーっと付き合ってくれる?」


「いいけど…」


 美咲が翠を連れだって連れて来たのは、2年の教室の一番奥。2階に降りる階段だった。


 こんなところに何の用…?


 階段の踊り場に1人の男子生徒の姿を認めて、翠はいやな予感を感じて傍らの美咲を見たけれど、翠の視線に気付かずに美咲はその男子生徒に声をかける。


「渡辺ー、連れてきたよ」


「おう、さんきゅ」


 振り返ったその男子生徒は、日焼けした肌と屈託のない笑顔が印象的な人だった。


「んじゃ、私はこれで失礼しまーす」


 帰ろうとした美咲の腕を翠は慌てて掴んだ。


「ちょっと、美咲?!」


「だって、渡辺が翠と話したいって言うから」


 詫びれた様子も無く言う美咲に翠は口を尖らせた。


「そんな怒る事無いじゃない。だって翠今フリーでしょ?」


 フリーだとかそういう問題じゃない。そんな問題じゃないのだ。翠は美咲に道又とのことを一切話していなかったことを悔やんだけれど、恥ずかしげも無く人に話せるようなことでもないし、道又の事は翠の中でもまだ全くと言っていいほど消化出来ていなかった。


 答えられない翠の言葉を肯定と取ったのか美咲はにっこりと笑う。


「あ、もうちょい紹介していこうか。ウチの部活の渡辺大輔ね。いいやつだからちょっと友達になってみなって」


 ね?と気楽に美咲は翠の肩をたたいて、軽快にその場を後にした。


 …ちょ…っ美咲…!!!! しかもそれ、特に紹介にもなってないし。


 声にならない声は美咲に届くわけもなく、大輔と二人残されて、翠はため息をついた。



-----


 

 翠は人気の無い物理実験準備室の実験台の上に鞄を置いて、さらにその鞄の上に顎を置いて不機嫌にドアを見つめていた。


 せんせ早く帰ってこないかなぁ…


 最初のうちは新島がいないときは入らないようにしていたし、どうしても会いたい時は部屋の前で待っているようにしていたけれど、最近はいないときはこうして準備室の中で待っているようになった。特に文句も言われないからきっと大丈夫なのだろう。


 鞄の中からブーブーっと携帯のバイブの震える音がして翠は余計に憂鬱になった。携帯をみると、メールの差出人はやはり渡辺 大輔。


『部活終わったら一緒に帰ろう?』


 そんなメールにゾクッと寒気がした。昨日、駅まで一緒に帰ったけれど大輔は手を繋ごうともしなかったし、翠に触れようともしなかった。そんな事をされていたら、悲鳴をあげて突き飛ばしていたと思うから、そんな事がなかった事に安心もしていた。


 だからと言って、それを連日続けられるかと言うかと言うと、否。


 顎を鞄に乗せたまま見つめ続けていた曇りガラスのドアに人影が映って、翠はパッと顔を上げた。


 帰ってきた!


 そう思って見つめている中、ドアが開く。


「せんせ、おそいー」


「……なんだそのツラ」


 新島は翠を見るなりそう言って苦笑した。


「あんまぶーたれてるとそれで顔固まるぞ」


「だってぇ」


 翠はそれでも不満げに頬を膨らませて新島を睨んだ。まだ男の人と付き合おうとか、誰かと仲良くしようとかそんな気持ちはどこにも無い。それなのに、大輔と一緒に帰るのが翠にとっては拷問の様ですらあった。


 先生なら平気なのに。そう思うと尚更新島が教師なのが余計に腹立たしく感じられた。


 そんな翠の気持ちを他所に、新島がいつも使う机の上においてある四つ折りになっている紙を開いて、新島は口元に笑みを浮かべた。


「ま、俺が見てやったんだから当然だな」


 ぽんっと頭の上に帰って来たその紙を翠は広げた。


 ……ホントは昨日一番に見せに来たかったのに。


 クラスで最高点だった翠の化学のテスト。成り行きで大輔と帰ることになったせいでここに来られなかったのが一番の不満だった。


「ねぇ、せんせ。7組の渡辺君って知ってる?」


「渡辺?」


「サッカー部の、渡辺君」


「部活いわれてもわからん。んー、二年の渡辺……渡辺」


「サッカー部の渡辺 大輔君」


 翠は不満そうに口を尖らせながらフルネームを告げたが、新島は相変わらずはっきりと一致していないらしく、怪訝そうに眉をひそめたまま。


「ねーぇ、渡辺君ってどんな人?」


「……は?」


 どんな人ってどういう意味だ?と新島は怪訝そうに翠を見る。


「7組だから物理取ってるはずだもん」


「んー、これと言って特筆事項を記憶していない」


 新島はちらりと翠を見て続ける。


「まぁ、覚えて無いって事は特に優秀でも、お前みたいにアホでも無いって事だな」


 にやりと口元に笑みを浮かべて結ばれた新島の答えに、あぁと少し納得しかけて翠は軽く新島を睨んだ。


「なんか酷いこといわれた気がするぅ」


「で、そいつがどうしたんだ?」


「だって」


 翠は不満げに口を尖らせて新島を見る。


「なんか告られそうなんだもん」


 ベシッと机の上にあった薄っぺらい物理の問題集で頭を叩かれた。もちろん痛くはないけれど。


「いったーい」


「自意識過剰」


「だって、わざわざ友達からって言うんだよ!」


「なってやれよ、友達くらい」


 呆れた表情で言うけれど、それでも翠にあまりキツく言わないのは、新島が昨年2月の出来事を知っているからだ。


「だって…」


「告られたらそんとき考えろ。今から無視してちゃ不憫だろうが」


「むぅ~」


 翠はふくれて鞄の上に顎を置いて、またぶーたれた。そんな翠の顎の下の鞄の中でまたブーブーっと携帯がなった。


『部活終わったから、昇降口で待ってる』


 メールを見て翠はため息をついた。


「帰りまぁす…」


 翠は渋々重い腰を上げた。ため息をついて、鞄をずるずると机の上で引きずって準備室の出口に向かう。


「北川」


 新島に呼ばれて振り返った翠の顔は、相変わらず不機嫌を絵に描いたような顔だった。


「どうしても駄目だったら無理しないで戻って来い」


 その言葉に、翠はようやく小さく笑った。


「うん、せんせありがと」


 新島の眼鏡の奥の瞳が優しかった。それに後押しされて翠は少し安心してドアを閉じた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る