(7)


「……で?何で毎日来るんだ?」


 そう言って翠を冷たく見下ろす新島を、不満たっぷりの気分で翠は見上げた。


「仲良く毎日一緒に帰ってんだろ?渡辺と」


 翠は実験台の上に広げていた教科書やノートの上に突っ伏したまま乗せて不機嫌に頬を膨らませた。


「だって、ここスキなんだもん」


 そう答えた翠は、何度目か判らないため息をついてから、渋々と顔を上げて教科書を広げる。勉強をしてたら、取りあえず下校時刻までは居させてくれるのはこの数ヶ月で判っている。


 翠は新島と過ごす放課後のこの時間が、好きだった。今まで部活をしていた時間で宿題を済ますと、家に帰ってからの時間が凄く平和でのんびり出来る。苦手な数学や化学のわからないところは新島に聞けば教えてくれるから、家で1人でやるより断然効率もいい。


 正直翠は、何故新島が物理教師なのか疑問だった。物理の先生のはずなのに化学だったちょっと教科書を読めば翠より理解できて、数学に至っては殆ど教科書を開くことなく解説してくれる。


 もしも、毎日一緒に帰るのが大輔じゃなく新島だったら、こんな悶々とした気持ちにならないのに。車で送ってくれるし、ちょっと遅くまで待っていないといけないけれど、それも特に辛いと感じない。


 そんなことを考えながら新島を横目で見ると、今日はレポートを見ているのか、机に積み上げられたレポート用紙の束を見ながら時々何か書き込んでいる。


 眼鏡の奥の伏目がちな瞳は、少し切れ長で鋭い。愛想が良いわけじゃない。黙ってるとちょっと怖そうに見えるけど、その目が時々優しく笑ってくれるのを翠は知ってる。


 会話は無いけれど居心地のいい時間を、翠の携帯が鞄の中で震える音が断ち切った。腕時計で時間を確認した新島は、翠を見ずに告げる。


「ほれ、さっさと帰れ」


 そんな意地悪言わないでよ。折角先生の良いとこ考えてたのに、と翠は頬を膨らませて新島を睨んだけれど、相変わらず新島は顔を上げなかった。



 その次の日も翠は大輔の部活が終わるまで、新島に文句を言われながらも物理実験準備室で過ごして時間を潰していた。


 翠は結局四月に部活をやめてしまっていたけれど、それを親にも、友達にも言っていない。親友だと思っている美咲にも、部活をやめたことを言い出せずにいた。だから、大輔は翠をバドミントン部だと思っていて、部活が終わったら一緒に帰ろうと声をかけてくれる。翠が、わざわざ時間を潰しているなんてことは、考えても居ないだろう。


 翠が部活をやめたことを話したのは、新島だけだった。


 二月、三月は部活に行ける気持ちになれなくて、休部にしてもらっていた。四月に久しぶりに部活をやっている中体育館に行ったら……足が震えて中に入る事すら出来なかった。具合が悪いと話して保健室に行ったものの、保健室には丁度ケガをした野球部の男子生徒が居て、とてもじゃないけれど気持ちが休まるどころではなかった。結局泣きながらたどり着いたのは、新島のいる物理実験準備室だったのだ。


 新島はぐずぐずと泣く翠の頭をくしゃくしゃと撫でて「やめっちまえよ」とあっさりと言った。


 部活をやめてから翠は、放課後は物理実験準備室に文字通り入り浸るようになった。授業で出された課題をこなしたり、ちょっとお昼寝したりしていると、帰る時間は部活をやっていたころと殆ど変わらない。多分親にも、他の友達にもばれていないと思っていた。


 一人で帰るときは、運動部が終わる時間帯よりも少し早めに学校を出ていたから大丈夫だったけれど、大輔と一緒に帰るとなると部活の友達と会う可能性も格段に高くなる。男子と二人なだけでも酷く不安に感じるのに加えて、部活の友達に会ってしまう事への不安で、大輔と帰る下校時間は翠にとってとても大きな不安と緊張の時間になっていた。


「翠……そのさ、焦るつもりは無いんだけどさ、その……」


 普段は快活に話す大輔が、珍しく言いよどむのを聞きながら翠は大輔を見上げた。


「もし、嫌じゃなかったら……ちゃんと付き合ってくれないかな」


いつかは言われるんじゃないかと思っていたけれど、その言葉はいざ言われると、想像よりも遥かに重く感じられた。



たとえるなら、空が落ちてくるような。



世界が全て終わってしまう、そんな気がした。

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