(8)
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翠は部屋のベッドに伏せていた。
「おねーちゃーん、ご飯だってよー」
妹の藍が階下から叫んでいるのが聞えたけれど、返事をする余裕は残っていなくて、ご飯なんてどうでもいいと耳を塞ぐ。
「おねえー、ごはんだってば~」
階段を登りながらしつこく言う藍に、叫ぶように「要らない!!」と言い返すと、藍がビックリしたようにばたばたと階段を降りていく音が響いた。
「お母さーん!!お姉ちゃんがご飯要らないって!!!」
階段を下りながら藍がそう叫ぶのを聞きながら、翠はため息をついた。
「翠?ご飯要らないってどうしたの?具合悪いの?」
「なんでもない。美咲と圭ちゃんと食べてきたから大丈夫」
今度は母親がやってきて、ドアをノックするけれど、翠は頭からタオルケットをかぶってそのまま部屋から出ずに答えた。ちょっと位ご飯食べないからってそんなに心配しないで欲しい。今は、とにかく外の世界をシャットアウトして居たかった。
――返事は急がないから。
大輔の告白を聞いて、頭が真っ白になってフリーズした翠に大輔は慌てたようにそう付け足した。
試験も終わって、夏休みまではあと2週間ほど。返事は急がないとは言っていたけれど、夏休み前には返事が欲しいと言われているように感じてしまう……そんなタイミングだ。
携帯のカレンダーで夏休みまでの日にちを指を折り数えて、その期間の短さに追い詰められた気持ちで、翠はタオルケットにくるまった。
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それがどうした、視線でそう言われた気がして翠は溜め息をついた。
「お前なぁ、俺にそれを言ってどうするんだよ」
「どうって…」
だって他に相談出来る相手が居ないんだもんと翠は口を尖らせた。
大輔と引き合わせた美咲はもちろん、他の友達に相談したところで気楽に付き合っちゃえば~?と言われるだけなのは目に見えている。翠が誰とも付き合いたくない理由をちゃんと知っているのがこの新島だけなんだから、翠には新島に愚痴る以外の選択肢は存在しないのだ。
「何度も言ってるだろ、たまたま前のヤツが最低だっただけだって」
翠は非難がましい眼差しで、呆れたように言う新島を見上げた。
「だいたいお前、男嫌とか言うくせに俺は平気じゃねぇか」
「それはぁ」
翠は不満げに視線を床に投げて小声で言った。
「そんなのあたしが知りたいもん」
どうして新島なら男の人でも平気なのか。そればかりは当の翠もよくわかっていない。大輔とは手を繋ぐのも嫌だし、父親とも二人きりになるのはあれ以来避けている。だけど、新島となら二人きりで居ても平気だし、頭をなでられても怖いとは思わない。
「悪いヤツじゃないんだろ? とりあえず、これやるからその時化た顔なんとかしろ」
俯いて答えない翠の頬に、ぴとっと紙パックのジュースが押し当てられた。
「冷たい! なんで?」
思わず顔を上げた翠を喉を鳴らして新島が笑う。なんだか上手く操られている気がしなくもないが、そんな事は別に構わない。
この部屋に普段置かれている飲み物はキャビネットに常温保存だ。だから買ってきたばかりじゃなければ、冷たくないはずなのに。今日は、新島は翠が来てから一度もこの部屋から出て行っていない。こんなに冷たい飲み物があるはずがない。
翠は実験台の上に四つんばいになって体を乗り出して新島の肩越しに壁際の実験台の下をみて、思わずテンションが上がってしまった。
「あー!! あれ!! 先生、なんで持ってるの?!」
「実家で埃かぶってたから連れてきた」
新島の斜め後ろに位置する実験台の下に、ごろんとした猫をかたどった見慣れないものが鎮座していた。翠の記憶が正しければ、あれは何年か前に紙パックジュースに貼ってあるポイントシールをためて応募するタイプの抽選で当たる景品だった猫型冷温庫だ。
もっちりしたフォルムに、ゆる~くにんまり笑う猫が可愛いかったけれど、当時小学生だった翠にはポイントをためることすら無理だった。
「初めて見た!! 超かわい~」
「……可愛いか?間抜け面だろ」
「可愛いよぉ。いいなぁ、欲しかった」
翠がそう言うと、少し新島が呆れたような表情を見せる。
「欲しかったって。あんなん家じゃ使わないだろ」
「えー、部屋に居たら可愛いじゃん。せんせ、ちょうだい?」
「なんでだよ。ここで使うから連れてきたっつーの。それより、北川、机に乗るな。見えてるぞ」
「!!!」
慌てて実験台から降りた翠を、新島がにやりと笑う。
「どうせ見せてくれんなら、もうちょい色気出せよ」
「せんせの馬鹿っ」
「生憎、お前よりは頭良いぞ」
笑って言われて翠は尚更口を尖らせたけれど、まぁいいのだ。別に、見られたところでショートパンツを履いてるから。
猫型冷温庫の前にしゃがみ込んで、なでなでと頭を撫でてみる。撫でたからと言って何かあるわけじゃないけれど、もっちりして柔らかそうな形をしているのに、つるっとしたプラスチックの感触なのがちょびっと残念だった。
不意に、実験台の足元に置いてあった翠の鞄の中で携帯が鳴った。
「今日は早いな」
チラリと時計を見て新島が言うのを聞きながら翠は携帯を開いた。案の定メールは大輔からだ。
『返事、いらないから一緒に帰ろう?』
翠は溜め息をついた。悪い人ではない。だけど、付き合うつもりが全くないのに一緒に帰るのはどうしても躊躇われた。翠がチラリと新島を見ると、新島は既に仕事モードにシフトしようとしているのか、パソコンに視線を落としていた。
「お呼びかかったんだろ?さっさと帰れ帰れ」
むぅ、と翠は新島を睨む。
「先生は、彼女が実は自分の事好きじゃなくてもへーき?」
「…俺は関係ないだろうが」
「男として、普通はどーなの?」
新島は小さくため息をついた。
「大人と高校生のガキを一緒にすんな、待たせてないで帰れ」
猫でも追い払うようにしっしと手を振られて拗ねて新島を睨んでも、こっちを見もしない新島に効果は
全くないけれど、素直になんて帰れない。むくれて新島を睨んでいたら、おもむろに立ち上がった新島にそれこそ猫の様に首根っこを掴まれて、今までになく強引にドアの外まで連れ出された。
「お前、そいつと付き合うならもう来んなよ」
「付き合うとか考えてないっ」
思わず返した翠の言葉は、パタンと閉まった物理実験準備室のドアに跳ね返された。
付き合うという選択肢は翠の中では無いのに。むしろ断りたいから、どう断ったらいいのかの方を相談に乗ってほしいのに。ぷぅっと膨れて拗ねながら、翠は昇降口に向かって渋々と歩き出した。
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