(9)


「あーぁ」


「くつろいでんじゃねぇ」


 伸びをした翠の頭に、ベシッと降ってきたのは物理の問題集。その薄っぺらい問題集は授業で使っているものではなく、業者からもらったサンプルで、座ったままでは届かない翠の頭を叩く為だけに机の上に置いてあるらしい。授業で使っている問題集はコレの5倍の厚さがあるのを見て、翠は新島が提出された問題集の山をチェックしているのを一目見ただけで嫌になった。


「だってぇ、ここ日影だから教室より涼しいしぃ。猫ちゃん来てからジュースも冷たいしぃ」


 超快適~と翠は伸びをした。猫型冷温庫は、翠の中ですっかり猫ちゃんという呼び名で定着していた。


「お前、ここを何だと思ってる」


「なにって、新島せんせの部屋」


 他になんだと言うのだろう。その位、ここは新島の私物感が強かったし、新島自身も自覚はあるらしく返答につまる。


「お前、まだ部活辞めたこと言ってないのか?」


「……うん」


 翠は頷いた。部活を辞めたことを、まだ親にも友達にも言っていない。もともとバドミントン部で日焼けすることは無かったから、今のところそこまで怪しまれてはいないはずだ。


「付き合ってるなら言ってやれよ。

いや、それ以前にここに来てんじゃねぇよ」


「…………」


 答えない翠を見て新島は眉をしかめた。


「……お前、まだ保留してんのか?」


 翠はプイッと顔を背けた。


「かわいそーに」


「だって返事しなくていいって言われたもんっ 急がなくて良いって言ったもん」


「あのなぁ、そうは言っても本音はすぐにでも聞きたいモンだぞ」


 翠は机に突っ伏して新島を上目使いで見る。


「無しじゃないなら付き合ってみたらどうだ?

そんな気もないなら、さっさと無理って言ってやれよ」


「だってぇ」


 翠はウダウダと口を尖らせていた。


「告られたダケならそれで良いけどぉ」


 今回は美咲からの紹介だから……


 簡単に断ったらなんだか美咲の顔を潰してしまう気もして嫌だったのだ。


「だったら付きあっちまえ。で、無理だったらさっさと別れてこい」


「……そんなのズルくない?」


 さらっと言われて翠は思わず眉をしかめた。


「別にズルかないだろ。無理じゃなかったらそのまま付き合ってりゃいい」


「……それが大人ぁ?」


「一番良いのは無理なら無理ってさっさと言ってやることだろ」


 何言ってんだお前、とでも言うように新島が言い放った言葉が心にぐっさりと刺さる。翠は溜め息をついて、しゃがみこんで猫の冷蔵庫を撫でた。


「いいなー、猫ちゃんは。ここにずっと居るだけで良くて」


「そいつ、四年間物置に放置されてたやつだぞ。正直、電源入って感動したわ」


「……」


 むぅ、と翠は唸り声を漏らした。


「保留してんのに学校帰んのは一緒とか、中途半端に期待させてる方がよっぽどズルいだろ」


 そんなの判ってる…、そう思いながら翠は抱き締めた膝に顔を埋めた。


「ま、夏休みまでにははっきりしてやりな」


 伸びてきた大きな手がくしゃくしゃと頭を撫でてくれた。



 夏休みまでは、あと3日しかない。だからこそ、すべてを放棄したいのだ。



 大輔と会う前に新島と話していた事をずっと考えながら歩いていて、翠は上の空だった。明日……明日にはちゃんと返事するから…… 何度も自分に言い聞かせながら歩く。今日、今すぐに言葉にする勇気がなかった。


 心は決まっていたけれど、それを伝える言葉が全く出てこない。だけど、何も考えたくなくて、返事を急がないという言葉に甘えて、翠はずっと考えるのから逃げていた。


 だけど、もう明日か明後日には返事を伝えないといけない。


 なんていったら良いんだろう、どんな言葉で伝えたら大輔を怒らせたりしないで伝えられるんだろう。どんな言葉で伝えても、大輔を怒らせる気がして。そして怒らせたらどうなるのかが、ただただ怖かった。


「翠」


 不意に腕を掴んで引き寄せられて翠はビクッと肩を竦めた。大輔は驚いた様子でそんな翠を見る。


「ごめん……信号……」


 言われて初めて翠は信号が赤なのに気が付いた。大輔が腕を掴んでくれなかったら、そのまま信号に気付かずに歩いていただろう。


 「あ、あ……ごめん、あたしぼーっとしてて」


「大丈夫?体育館閉切ってて暑いから具合わるかったりしない?」


 腕を掴む腕から逃れたい気持ちが先だって、少し大輔から離れようとしたけれど、日焼けしたその手はしっかりと翠の腕を掴んでいた。体育館、そう言われて大輔が翠をまだバドミントン部だと思っていることを思い出した。


 そう、この時期の体育館はそれこそ拷問の様に暑いのだ。だけど、今の翠にはそんな事よりも『男』に腕を掴まれている事が一番の拷問だった。


「だ、大丈夫。大丈夫だから……」


 腕を離して、と翠は手でやんわりと大輔を拒絶した。そんな翠に気付いたのか漸く大輔の手が離れていく。


 それから駅までの道のりは、言葉がなくて息苦しかった。


 駅の改札を通った先でいつものように別れようとすると、大輔が口を開いた。


「翠……、あのさ。返事、急がないって言ったけど…」


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