(10)



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 そろそろ返事ほしい…かぁ。


 ブクブクとお風呂に顔の半分まで浸かって翠は息を吐いた。


 当たり前……だよねぇ…… 学校で会うのは明日と明後日だけ。そのときに返事をしなければ夏休みに突入して…… お返事しないまんまフェードアウト~なんてワケにはいかないよね……


 不誠実極まりない自覚はあれど、そんなことを考えながら翠は大輔につかまれた腕を見た。


 日焼けした、大きな手。その手の温度を感じなかった。温度を感じるより先に、その手でいつかされるであろう事に頭が一気に拒絶を示していた。


 女の子の手と違う、どこか骨っぽい男の人の手。大きな手。


 腕を捕まれるのが嫌だった。


「やっぱりまだ無理…」


 だからそう言おうと思って居たのだ。


 それなのに……


 翌日、翠はHRが終わるなり物理実験準備室に駆け込んでいた。珍しくHR直後に居た新島はノックもなくバタンッとものすごい勢いで開いたドアに眉をしかめたが、今の所、珍獣でも見るかのように翠を眺めている。


「言えなかったぁ!!!」


 昼休みに突然教室に大輔がやってきた。教室を連れ出されはしたものの、美咲をはじめ友達達は、廊下で話している翠と大輔を興味津々で見ているのを、背後からひしひしと感じる。


 そんな状況で、翠は大輔に無理だと伝える事ができなかった。大輔が男の人だと思うだけで、萎縮して言葉が出なくなってしまう。


『無理なら無理って言ってくれていいんだ』


 そう言われたにも関わらず、翠は無理だと言えなかった。言えなかったという事は、付き合う……ことになるのだろう。


 翠にも判っていた。だからどうしたらいいのかわからなくて、ここに逃げてきてしまった。


 暴れる翠を一頻り眺めて、大体状況に察しがついたのか、新島は普通に提出物らしき問題集の山に視線を落とす。完全無視を決め込まれるのもまた居心地が悪くて、じとっと新島に視線を送ると、チラリと目線を寄越した新島が呆れたように息をついた。


「北川、付き合ってるなら来るなっつっただろ」


「なんで」


 眼鏡の奥の鋭い瞳で不満げな翠を見て、新島は小さくため息をついた。


「好きな女が毎日他の男と2人っきりで居るのを喜ぶ男は居ない」


 不満に口を尖らせた翠にも新島の言葉が筋が通っているのがわかる。


「だって付き合いたいわけじゃないもん…。

言えなかっただけだもん…」


「だったら今すぐやっぱり付き合えませんって言ってきな」


 それも無理、と翠は不満たっぷりの眼差しで新島を見た。仕事の手を休めない新島を見ながら翠は猫型冷温庫を開けたけれど、中にはコーヒーが数本入っているだけで、翠好みの甘いカフェオレもミルクティーも入っていなかったからすぐに閉じた。


「なんか買ってくる」


「俺にも」


 翠は小銭入れを渡されてきょとんとして新島を見た。


「コーヒーは入ってたよ?」


「温かいの」


『ブラック微糖』


 二人の声がハモって、ニッと新島は口元に笑みを浮かべた。


「よろしく」


「はぁい」


 翠はペットボトルのお茶と温かい缶コーヒーを買って、物理実験準備室にぷらぷらと戻る。本来であれば部活に行っているはずの時間に制服で自販機で飲み物を買っている、その様子を大輔に見られたのを翠は全く気付いていなかった。


 部活が終わる時間に大輔からメールをもらって、翠は不満タラタラで帰り支度を始めた。


「もうくんなよ。明日は入れてやらないからな」


「せんせの意地悪」


 翠は口を尖らせて新島を睨んだ。


 でも新島はきっと口ではそういっても明日も来たら入れてくれる。そう思うのは眼鏡の奥の新島の目が少し優しいから。


「せんせ」


「ん?」


「あたし、せんせのこと好きだよ」


「俺ロリコン趣味無いわ」


 全く動じた様子もなくあっさりと言い返されて翠は口を尖らせた。


「そういう意味じゃなくてぇー!」


「ほら、仕事の邪魔だからさっさと帰れ」


 問題集を見てばかりで全然翠の方を見ずに言う新島に翠は頬を膨らませた。いつもは邪魔とか言わないくせに。大輔と一緒に帰るようになってからの新島は、とても冷たい。前はこんなに帰れとか邪魔とか言わなかったのに。


「もうっ 明日も来るからね!!」


 翠は不機嫌にそういって物理実験準備室のドアを開けた。出て行く前にちらりと振り返ると、新島は翠のほうを見ずに手だけ振ってくれていた。


 一度教室の方に階段を上って、翠はぐるっと一度北校舎から南校舎に廻って改めて昇降口に向かった。物理実験室があるのは北校舎。バドミントン部が部活をしている小体育館があるのは南校舎。


 大輔と帰るようになってから部活帰りだと思わせるために、わざわざ南校舎側から昇降口に向かうのが習慣になっていた。


「翠」


 昇降口前で手を振ってくれた大輔の元に歩み寄ると、「帰ろうか」とはにかむように笑って手を握られてゾワッと肌が粟立った。


 ヤバい。ホントに……ホントに無理!!!!


 ゴツゴツとした男らしい指が尚更翠の恐怖心を掻き立てた。だけど、そんなの口に出せない。言った後の大輔の反応が怖い。怖くて怖くて溜まらない。


 翠はその恐怖心が顔に出ないように必死に顔に笑顔を作ったがその笑顔はどこか引きつっていた。


 「そんな、緊張しなくても」


 翠の引きつった笑顔を緊張と取ったのか、大輔は翠を見て表情を崩す。


「なんかさ、翠どっか余所余所しいっていうか……

そんな感じがしてたから、無理って言われるかなーって、俺勝手に思ってて」


 ぎゅっと繋いでいた手に力が篭るのを感じて、翠は背中を駆け抜けた悪寒に身体を震わせた。


「だから、翠にOKもらえてマジで嬉しい」


「……」


 翠は何も答えられなくて、大輔から目をそらした。


「ご、ごめん。こんなん言われても困るよね」


 あはは、と笑って大輔は翠の手の存在を確かめるように翠の手を握ってから、翠の様子を伺うように切り出した。


「翠、今日部活休みだった?」


「な……なんで?」


 もしかして、部活辞めたことバレたのかと翠はドキドキしながら問い返した。


「あ、いや。部活中に翠に似た子見たから。遠目だったし制服着てたから、人違いかもなんだけど」


「そ……そっか。人違い……じゃないかな」


 あたし、今日部活行ったし……と余所余所しく目をそらしながら小さな声で答えるのが、今の翠に出来る精一杯だった。

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