(10)
軽くて柔らかい羽毛布団を抱き締める。温もりだけじゃなくて、心地よくて安心する先生の匂いにも包み込まれる気がして、フフッと笑みがこぼれた。好きな人の匂いがこんなにも幸せだなんて、先生に抱きしめてもらうまで知らなかった。
あったかくて気持ちいい。だけど私、布団で寝た……かな? 布団に入った記憶が無い。やっと思考が追いついて、私はゆっくり身体を起こす。ぼんやりしながら見回したその部屋は、先生の家の寝室だったけれど部屋の中に先生の姿は無かった。
先生を探して寝室を出た先のリビングにも人の気配は無くて、時計を見ると23時過ぎだった。私はゆっくりと今日の記憶をたどる。今日は、藍と買い物に行って、先生に来てもらって、ご飯を食べて、それから、先生と一緒にここに帰ってきて…… そこで記憶が途絶えていた。つまり、私は先生の家に帰ってきてすぐに寝たという事なのだろう。一応バレンタインなのに、何をしているんだろう。そんな自分にがっかりしたものの、とりあえず日付が変わる前に起きただけ良いとしようかと思い改める。
時間的にお風呂かとあたりをつけて脱衣所の扉を開けると、バスルームの明かりがついていた。
「先生?」
呼びかけると少し水音が聞こえて、その後先生の声がした。
「起きたか」
バスルームで少しエコーがかかったような声音は、いつもと少し違う響き。
「ごめんなさい。寝ちゃった」
朝まで寝るのかと思ったと先生がくすくすと笑うから、恥ずかしくて頬が熱くなる。
「楽しかったんだろ?」
「……うん」
誰かと出掛けたのも、好きな服を買うのも、何年振りだったろう。ずっと、見てるだけで、自分には似合わないと思っていたし、似合う様に何かするわけでもなかった。
「買い物も、たまには付き合ってやるよ」
「ほんと?」
先生は絶対一緒に買い物とか苦手なタイプだと思っていたら、案の定「たまには、な」と付け足された。言外にいつもは無理だ、と読み取れて思わず笑ってしまう。買い物なんて付き合ってくれなくても、先生と一緒に出掛けられるそれだけで私は十分すぎるほど幸せなのに。
「ところで翠。俺、そろそろ上がろうと思ってたんだけど。別に俺は、お前がそこにいてもいいけど?」
先生の言葉が一瞬理解できなくて思考が止まる。ここ、脱衣所…… そこに居ても良いって、それって……
「え、やだ。ちょっとまって!!」
湯船から立ち上がったと思われる水音に、私はばたばたと慌ただしく脱衣所から廊下に逃げ出した。一昨日泊まった時なんてまともに先生の顔すら見られなかったのに、いきなり裸なんてハードルが高いなんてものじゃない。
だけど、緊張する反面凄くドキドキしていた。小さくため息をついてドアに寄りかかったまま座り込む。先生の事を、意識はしてしまう。先生と一緒に居ると凄く安心する。抱き締めてもらうのも、キスをするのも凄く好きで…… もうお互いに大人で恋人同士なのだから、そう遠くないうちにその先も考えないといけないのだと判っている。
だけど、肝心のその先が不安だらけで堪らない。
先生は、大丈夫になるまで待つって言ってくれたけど、大丈夫ってどういうことだろう? 私は、そういう事ちゃんとできる……?
そんな事をぐるぐる考えていた私の背中に、ドアを動かそうとする力のかかった気配。
「翠? そこにいんのか?」
「わぁ、ごめんなさいっっ」
先生の声がするのと、慌てて立ち上がるのと殆ど一緒だった。
「こんなとこ居たら冷えるだろ」
お風呂上りだからいつもよりも温かい先生の手が、私の頬を軽く撫でる。見上げた先生の髪はまだ濡れていて、もう一方の手にはドライヤー。
濡れた髪がなんだか色っぽいとか思ってしまう今日の私は……なんか変? 一昨日の比でなく先生を意識してしまう。無造作に髪をタオルで拭く、男っぽい手とか。ロングTシャツの襟元から見える鎖骨とか。お風呂上りで眼鏡をしてない、涼やかな目元とか。一昨日、自分の気持ちにいっぱいいっぱいで先生の事をちゃんと見れなかった分、今日は凄く先生にドキドキする。
「髪、向こうで乾かすから。風呂、さっさと入れ」
「うんー……」
歯切れの悪い返事をした私の頭を先生はくしゃくしゃと撫でて、部屋に戻っていった。
先生の部屋に、お泊まり。
脱衣所で服を脱ぎながら、改めて今の状況を実感する。この間みたいに、何もしない? それとも……?
目が行ってしまうのは、今日藍と一緒に買った―というか藍に半ば強引に買わされた新しい下着。高校生の頃の可愛い下着とは違う、最近の私が使っていた、飾りっ気も無いシームレスの下着とも違う、レースの綺麗な下着。確かにこれならガッカリはされない、とは思う。
先生と私は付き合っていて、私は先生の部屋に泊まりに来ている。この状況で何も無いほうがきっと不自然なのだろう。
だけど、私が男の人とそういう事をしたのは、先輩だけ。先輩との事は、今でも考えたくない。思い出しただけでも酷い不安と恐怖と、自己嫌悪に駆られてしまうから、出来れば思い出したくもない。
先生と先輩は全然違うはずなのに、先生に手首を掴まれたその一瞬で、私の身体は恐怖に支配されてしまった。それまではただ先生に抱きしめてもらえる事が嬉しくて、先生ともっとキスをしたくて……それだけだったはずなのに。
もし今日そういう空気になって、また出来なかったら今度こそ呆れられて終わりになってしまう気がして、それを思うとやっぱり怖くて堪らなくて…… 結局私の思考はぐるぐると同じことばかりを繰り返してしまっていた。
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