(11)

 お風呂を上がった時には、藍からもらった自分の好きな服を着たい気持ちも、先生に抱きしめてもらった安心感も、何もかも全部失ってしまって私の心は不安の塊になっていた。


「髪、乾かしてやるからこっち来な」


 あまり働かない頭のまま、先生の近くに行くと、先生の脚の間に座らされた。


「のぼせたか?」


 あまりにもぼんやりしていたからか、先生に顔をのぞき込まれて慌てて首を横に振った。先生の手がくしゃくしゃと私の頭を撫でて、そのままドライヤーの音が響き始める。先生の長い指が、心地良く髪を梳いていくのが心地よくて目を伏せると、お風呂で考えていた事の続きがぐるぐると頭の中で回り出す。 


「ねぇ、せんせ。大丈夫って……どういうことかな…」


 ぽつりと零れた微かな声は、ドライヤーの音にかき消されて先生までは届かない。


 先生の事が好き。先生の傍に居たい。だけど、先輩にされた行為を思い出すだけで、大丈夫と言う気持ちはあっさりと恐怖に押しつぶされてしまう。


 ドライヤーの音が止んで、視線を落とすと濡れていた髪は殆ど乾いていた。


「先生」


「ん?」


 聞き返してくれた先生に、さっき言った事をもう一度聞くことはできなくて、視線を逸らしてしまった。そのかわり、先生の胸に頭を預ける。


「髪、こんなもんでいいか?」


「うん、ありがと」


 背中から先生の腕が回ってきて、ぎゅっと抱きしめられる。


「どうした?」


「……」


「なんか、言いたそうだったけど」


 話したいことはあるのだけど、その話をどう切り出したらいいのかもわからないし、面と向かって話した後、どうなるのかわからなくて怖かった。


 肩を抱いてくれてた先生の手は、ゆっくり私の首元を撫でて、指先でツーッとルームウェアの襟元を伝う。たったそれだけなのに、ピクッと身体が震えた。


 先生の手がもっとあちこち触れるのを思うと、身体の芯がきゅうっとなる。先生は先輩とは違う。首筋をそっとなぞる指先に、心臓が不安とは違う音色で跳ねる。


 だけど、同時に身体とは全く別の事を思う心が一気にブレーキをかけてくる。大丈夫と言って出来なかったら、先生に嫌われちゃう? 先輩みたいに、もう要らないって…先生にも言われちゃう? 考えただけでも冷え切っていく心はそのまま心臓も凍らせていく。


 もっとくっついてたい。もっともっと触って欲しい。でも、怖い。怖くて怖くて堪らない。


 相反する気持ちが同居していて、バラバラになりそうな心をたった一つの気持ちが繋ぎとめていた。



 先生、お願い。私のこと嫌いにならないで。



 私の首元に頭を預けていた先生は、ため息にも近い吐息をついて、抱きしめていた私を引き離すようにして立ち上がった。


「寝るぞ」


 その声を聞いた私に襲い掛かるのは、背中に触れていた心地良い温もりを失った、寂しい気持ち。先生は隣に居るのに、一人ぼっちで置いてきぼりにされたような気がした。あまりの寂しさに涙があふれそうになる。


「翠?」


 先生に呼ばれたけど、顔を上げたら泣いてるのがばれると思うと顔を上げる事すら出来なかった。


「どうした?」


 膝をついて私を覗き込んできた先生の両手で頬を包み込まれた。


「何で泣いてんの?」


 そう言った先生の表情は辛そうで、尚更申し訳なくなる。先生は凄く私に気を使ってくれてる。わかってる。わかってるの。私がちゃんと考えられてないだけだって、わかってる。


「翠、お前さ、俺と居るの辛い?」


 先生の言葉に背筋が凍って、頑張って堪えようとしていた涙が溢れ出した。


「……んで?」


 辛くなんてない。先生に会いたくて会いたくて堪らなくて。やっと会えて、もっともっと抱きしめて欲しいのに。一緒に居るのが辛いなんて、考えたこともなかった。


「……泣かせてばっかだから。俺と居ると、忘れたい事も思い出させてんじゃないかって、お前が泣くたびに、不安になる」


 先生の言葉を聞いて、藍に言われた事を、思い出した。


『お姉はさー、昔っから要領悪いよねー。お母さんになんか頼むのもタイミング悪いって言うかさ。遠慮して言いそびれたりとかさ』


 お母さんにだけじゃない。きっと、先生にも…友達にも…話したらいいことを言えないでいた。私が何も言わないから…先生は余計に気を使ってくれるんだ。


「違うの……違うの」


「違う?」


「違うの…。そん……とな……の。もっと……たいの」


「ごめん、聞こえない」


 ごしごしと目を擦って、何度か深呼吸をして息を整える。


「あのね……ぎゅってしたいの。キスもしたいの。先生は大丈夫になったらでいいって言ってくれたけど…でも、私……大丈夫ってよくわかんなくて」


「うん」


 答えてくれる先生の顔を見られなかった。先生は凄く優しいのに。凄く私に気を使ってくれてるって、わかってるのに。それなのに私は、そんな先生に大丈夫ときちんと言うことすら出来ないのだから。


「絶対大丈夫って、言える自信全然なくて……。でも……先生となら大丈夫だといいなって……思うの。ちゃんと……できたらいいなって」


 言い終わる前に、私の身体は強く引っ張られた。


 後頭部を抑える、大きな手。背中に触れる腕の感触。頬をくすぐる先生の髪。大好きな先生の匂い。抱きしめられたあったかい胸。迷わないで先生の背中に腕を回してしがみついた。


 先生の吐息が耳をくすぐる。今度のそれは、安堵の吐息のように優しく感じられて、その後に囁くような先生の声。


「翠、最後の、もっかい言って」


 恥ずかしくてためらってると、耳元でもう一度囁かれる。


「聞き間違いだといやだから…もう一回言って」


「先生と……はぅ、はずかし……」


 あまりの恥ずかしさに先生の肩に顔を埋めてしまう。そんな私の耳元で先生はクスクス笑う。


「聞かせて」


 私の髪を撫でながら囁くようにいう声音は、嬉しそうな笑みを含んでいる。絶対、ちゃんと聞いてたくせに。


「先生、意地悪」


 小さく漏らすと、ふっと先生が笑う。


「言わなきゃ ちゅーしてやんない」


 12歳も年上で、いい歳した大人なのにそんな子供みたいな言い方にきっと鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしてしまったと思う。それでも……してもらえないのは、嫌だと思ってしまう。


 しばらく躊躇って先生の首筋に顔をうずめてから、漸く少し顔を上げて先生の耳元に唇を寄せる。


「先生と…ちゃんと…できたら嬉しい」


 あまりの恥ずかしさに、小声で耳元で囁いた後、先生の首筋に思い切りしがみついた。


「俺しか居ないのに小声で言う意味あんのか?」


 笑って言われたけれど、こんなことを改めて言わせる方が悪いと思う。


「翠、ご褒美あげるから顔上げな」


 ご褒美? と思うよりも早く頬に手を添えられて唇がふさがれる。離れるのが嫌で先生の首に腕を回してしがみついた私に、先生は何度もキスをくれた。


「この先は、そのうちな。無理しないで出来そうな時に」


 先生の言葉に頷いて、先生の胸に顔を埋めた。その言葉に凄く、安心した。今すぐしようって、押し倒される覚悟でいたけれど、無理しないで良いと言ってくれるのは凄く嬉しい。焦らなくても、ゆっくり進んでいけたらいい。


 そのはずだったのに。ベッドの中でとめどなく話をして、お互いに我慢してた分たくさん抱き合ってキスをしていたら、気づいたらそういう事になっていた。


 だって先生が息もつけないくらいにキスするから。優しく身体を触ってくれるから。自分でもびっくりするような甘い声が出た。


「翠、怖い?」


 先生の手が、頬を撫でて耳元を優しく擽る。


「怖くない……って言いたい」


 今の私に出来る精一杯の強がりな答えに、先生がクスッと笑った。


「正直だな」


「だって」


 本当は、不安でいっぱいだった。でも、このままできたらいいなっていう気持ちもやっぱり確かにあって。その気持ちを先生がくれたキスが後押ししてくれる。


「あ、先生」


 私の声に、先生は手を止めた。


「ん? やっぱやめるか?」


 先生の声は優しかった。無理しないよ、と言ってくれる。でも言いたいことはそれじゃなかった。


「え、ううん。大丈夫。えと、あのね……私、手首掴まれるのすごく苦手、かも」


 どうしてかはよく判らなかったけど、どうも苦手みたいだった。また途中で急に怖くなってしまうのは嫌だから、伝えておきたかった。


 先生は優しいけれどどこか物憂げに微笑して私の髪を撫でて短く答えてくれた。


「了解」


 暖かくて先生の匂いに包まれるベッドの中、包み込むように感じる先生の身体の重み。何度もキスを重ねながら、指を絡めるようにしっかりと手を繋いだ。

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