(4)
-----
それから一週間経った木曜日、私は盛大にヘコんでいた。こんな日に限って見計らったかのように雨まで降っているし。ロッカーに向かう途中に窓の外を見ると、小さな雨粒が道路に出来た水溜りに波紋を描いているのを街灯が照らし出していた。
バッグの中のスマホを手にしてはみるけれど、先生からはメールも電話も何も来ていない。でも、菊池君からのメッセージは届いていた。菊池君は、今でも時々当たり障りのないメッセージを送ってくる。マメだなぁ……とちょっとだけ感心している。
先生は用事が無い時は連絡をくれる人じゃないし、きっとまだ仕事中。何も来てないのは普通なのに。いつもは気にならない事なのに、今日は凄く……それが辛い。先生にも菊池君のようなマメさがあったら良いのに、なんて一瞬でも思ってしまったことに余計に凹んだ。
喧嘩をした、というわけじゃない。
ただちょっと、ちょっとだけ、すれ違っちゃったのかな……。化粧直しをするために鏡の中の自分を見て、唇に指を当てた。
嫌だった、わけじゃないの。先生、どう思ったのかな…… 怒ってる? 幻滅してる? 嫌いになっちゃった……? 目頭が熱くて、滲みかけた世界に目を伏せた。泣くな私。泣いたってどうしようもないんだから。
祝日だった昨日、私は先生の部屋に行った。といってもそれは特別だったわけじゃなくて、先生と過ごすのは大抵先生の部屋。休みの日でも、仕事の後に会うときでも。先生の部屋で過ごすのは、物理実験準備室で過ごしていた高校時代の延長みたいだった。いつも夜10時頃には家に送り返してくれる。それは次の日が休みのときも変わりなかった。
私はまだ、先生の部屋に泊まった事もないし、キスより先の関係になっていない。昨日、早めの夕飯を食べたあと、先生と他愛の話をしながら……キスをした。
啄ばむ様に何度も重ねた唇も、離れるのが惜しくて絡めた舌も、鼓膜をくすぐる優しくて低い声も、首筋に落ちて来た熱いキスも、身体にかかる先生の身体の重みも……なにもかも全てが心地よくて、このまま最後まで出来るんじゃないかって思う位だったのに。
それなのに。
先生の手が私の手首を掴んだその瞬間、私は 怖い と思ってしまった。そして、先生は、私のその一瞬を見逃さなかった。
私は、何も言えなかった。大丈夫とか、続けて欲しいとか、思っていなかったわけじゃないのに……声が出なかった。
先生は、その後すぐに私を家まで送ってくれて、そのまま何の連絡も無い。なんて送ったら良いのかわからなくて、私も何も連絡できていない。
どうしよう…… 胸がチクチク痛くて、涙があふれそう。
自分で自分の手首を掴んでみるけれど、べつにどうって事は無い。記憶をたどってみても、特にこれといって嫌な事は思い当たらない。なのに、どうしてあんなに怖かったんだろう。
こんな日に限って木曜日だなんて酷い。明日までこんな気持ち抱えてるのなんて無理。
チクチク痛む胸を抱えたまま家に帰るのが辛くて駅ビルに足を向けると、外はまだ寒いのにファッションフロアには春らしい色のふわふわした服があふれていた。その色合いに浮かれてちょっとウキウキして服を眺めだした。だけど、それもすぐに憂鬱な気分に沈められた。
似合わない、よね。私、髪真っ黒だし。化粧だって最低限のファンデーションだし。お店の鏡に映る私は、お店のポスターに載っている可愛い女の子とは違い過ぎた。
高校生の頃の方が間違いなく女子力あった。その自覚はあるけれど、でも今からあの頃みたいになんて簡単には戻れない。
少し落ち込みながら通りかかった駅と繋がった入り口の前。バレンタイン特設エリアが出現していて私は更にヘコんだ。私にとってのバレンタインは、高校3年間の思い出しかない。高校1年の時は…無かった事にしたい道又先輩だし。高校2年3年の時は……先生に名前も書かずに置いてきた。
先生はあまり甘いものを沢山は食べない、だから昔はちょっと高いチョコレートがちょびっとだけ入ったのを物理実験準備室の机の上に置いてきた。私が一方的に置いてきたあのチョコがどうなったのか聞いてない。
この間話した口ぶりからして、私だとはわかってたみたいだったけれど、食べたかどうかは聞いていない。先生は、誰から貰ったかわからないものは食べなさそうな気がして。あの時は、捨てられてもいいって思って何も連絡しなかったけれど、本当に捨てられてたら、ちょっとショック。悪いのは名前を書かなかった私なのに、そんなことを勝手に思う。
バレンタインは明後日なのに、ぼんやりと流し見しても先生にあげたいと思うものは見つけられなかった。なによりも、もしこのまま先生と別れちゃったりなんてしたらどうしよう、なんて気持ちに頭を埋め尽くされて、世界が滲んだ。
あぁ、だめ。今日は本当に無理。結局何も買わずに電車に乗って家に向かいながらため息をついた。せめて雨が止んでくれたことだけ、救いかな。会社を出たときにしとしと降っていた雨は、いつの間にか止んでいた。
だけど、改札を抜けてから、やっぱりこのまま帰りたくないと思い直してスマホを取り出した。このまま先生と話も何もしなかったら、絶対に怖い夢を見る。怖い夢と、先生と会えなくなることとどちらが怖いかななんてことを考えながらそっと先生の電話番号をタップする。
「翠?」
数コールで電話に出てくれた先生の声は、拍子抜けてしまいそうな程いつも通りだった。電話に出てもらえないかもなんて思って居た私の方が、上手く声が出てこない。
「おい、翠? 喋んないなら切るぞ」
「あ、わ、えっと、まって!! お願い切らないでっ」
今電話切られたら私、泣いちゃう、と慌てて叫んだ。
「どーした?」
返ってきた先生の声は少し呆れているような響き。どうした?と聞かれると、胸がぎゅっと痛い。先生に、嫌われてないか怖くてたまらなくて、電話したのに。
「翠?」
「……先生、仕事終わった?」
「大体ね」
大体ってことは、まだ終わってなくて。でも電話に出るって事は、今は…準備室かな? 会いたいって言ったら…怒られるかな…
「お前は?」
「あ、うん、今帰り」
「遅かったな」
「うん、駅で寄り道しちゃった」
先生はどっちかというと無口な方だから、電話だとどうにも間が持たない。もともと、絶え間なく会話をするわけじゃなかった。昔は私が一方的にしゃべってて、先生は時々返事をくれるだけだったし。私は宿題をしてて、先生は仕事をしてたから、会話のない時間があるのは当たり前だった。家で会うときも、会話が無い時間はあるけど、先生となら苦痛じゃない。でも電話だと沈黙はちょっと苦手だった。しかも、昨日あんなことがあったからなお更。
「先生、会いたい、な」
先生の返事はすぐには返ってこなくて、その沈黙がとても長く感じられて、言わなきゃよかったかな……と後悔がよぎっていった。
「今どこ?」
「もうすぐ家に着くとこ」
電話の先で先生が少し呆れたように笑う。
「会いたいなら学校の近くで降りろよ」
「……ごめんなさい」
だって、ここまできたけどやっぱり会いたいって思ったんだもん、と伝わらないのは判っていても口を尖らせてしまう。何より、先生の仕事終わっているかもわからなくて、電話に、出てもらえないかもとすら思っていたのだ。学校の所まで行って、会えないって言われたら……なんて考えるととてもじゃないけど行けなかった。
「今から帰るから寄ってやるよ」
「ほんと?」
思わず声が一段高くなった私を、電話の向こうで先生がクスクス笑っていた。一旦家に帰ると出にくくなる気がして、先生が来るまで近くのコンビニで時間を潰すことにした。そろそろ来るかな?と時間を見計らって家への道を歩き出して公園の近くを通った頃、先生の車が私を追い抜いて、少し前でウインカーを上げて止まった。
「家に帰ったと思ってた」
車から降りてそういった先生に駆け寄って、どちらともなく公園に足を向ける。いままでも何度か、夜に別れがたくて公園で喋ってた事があった。
「そういや、雨降ってたんだったな。車、戻るか」
ベンチもまだ濡れていて、水溜りだらけの公園を見てそういった先生は、入り口の方に視線を向けると何か面白いものでも見つけたかのように小さく笑った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます