(3)


 ざわざわとした飲み屋の店内を見回していると、さやかの声が聞こえた気がして視線を奥へとむける。


「翠ー」


 こっちこっち、と奥のテーブル席から手を振ってくれているのは、やっぱりさやかだった。同期の女の子と飲む時は大抵さやかが常連のこのお店。


「先に飲んでた、ごめんね」


「さやかと里美も居たんだ」


 メールをくれたのは夏帆だったのと、何よりこの2人はてっきりバレンタイン直前の追い込みに入っているかと思っていた。まだどちらからも彼氏出来たよという報告を聞いていなかった。そして、私もまだ先生と付き合い始めたことを夏帆にしか言っていない。


「マナも来るよん。お昼にロッカーで捕まえたの」


 と里美。


「さー、今日はガンガン飲むよー! マナ来たら飲み放題にするからね。とりあえず、翠何に飲む?」


 そう言って突きつけられたのはドリンクメニュー。この時点で、さやかが既に自棄酒っぽい妙なテンションだとは感じ取っていた。そして案の定、仕事を終えた愛香が到着する頃には、さやかの愚痴が止まらなくなっていた。


「ほんと最低。彼女居るんだったら合コンくんなーっっ」


 どうやらいい感じになって来ていた人に彼女が居るのが昨日発覚したらしい。恐らくこの間の同期の飲み会の時に、嬉しそうに話していた人なのだろうと思うと可哀想で、かける言葉を探すけれど恋愛経験の乏しい私にはどんな言葉が良いのかわからずにただ聞き役に回っていた。


「……さやか、荒れてんね」


 既に目が据わっているさやかに、ソファに座りながら愛香は苦笑い。まだまだ飲むよと息巻くさやかを横目に他の4人でコソコソと相談をして、結局さやかを宥めすかしてウーロン茶を飲ませる事にして、漸く静かになった。


「だって、酷い。彼女居るとか言ってなかったのに」


 ブーツを脱いで、ソファの上でコンパクトに体育座りをしたさやかは、膝に顔をうずめてぐすっと鼻を啜った。


「だいじょぶだから。あんたがいい子なのみんな知ってっから」


 よしよしと愛香がさやかの頭をなでなでと撫でる。確かにさやかは、ちょっとテンションが高いけどいい子だ。だからこそさやかは友達が沢山居て、いつも飲み会に行っていて、私から見たら本当に羨ましい位の交友関係がある。


「さやかさ、普段のテンションで飲み会行けばいいじゃん。飲むと駄目ならお酒ちょっと控えてみるとか」


「だってぇ、やなんだもん。自分が幹事した飲み会でノリが悪くてつまんなかったって言われるの絶対ヤなんだもん。絶対楽しくしたいし、絶対可愛い子も連れて行きたいんだもん」


 拗ねてぶーたれたさやかに愛香が苦笑する。


「あんた、それで毎回自分が面白いキャラに落ち着いてたら駄目でしょうが」


 愛香の言葉に里美も夏帆も頷いていて、さやかはため息をつきながらテーブルに突っ伏する。


「いいじゃん、バレンタインくらい彼氏居なくたって。あと、今度はあたしも誘ってよ」


「……何に?」


「合コン」


 え?と思ったのは私だけじゃなかったらしく、里美はもちろんぶーたれていたさやかまでガバッと跳ね起きて言った。


「マナ、彼氏は?!」


「別れた」


 何でそんなに驚くの?とでも言いたげに愛香は返して、夏帆に視線を向ける。


「夏帆、言ってなかったの?」


「言ってないよ」


 けろっとしながらウーロン茶を飲んでいる夏帆は、どうやら以前から知っていたらしい。


「あ、そーなんだ。別れたの年末に」


「えええー?!」


「なんで?なんで?なんで?!」


 とたんに話は愛香が大学時代から4年付き合っていた彼氏と別れた経緯に持っていかれていった。


「まぁ、そんなわけで別れたから合コン誘って」


 そう言ってニッと笑った愛香に複雑そうな表情の里美とさやか。


「ねぇ、マナ。それ、後悔しない?」


 愛香が別れた事情は、そう訊いてしまうのも仕方ないものだった。


 愛香が大学時代から4年付き合っていた同い年の彼は、四月から都市銀行に勤めていた。そして、12月の中旬に大分への転勤が決まって、年末に引っ越しすることになり、遠距離になるから別れたという次第。


「後悔もなにも、向こうが遠距離する気無いって言ってんだからそこで終わってんじゃん。続ける気が無い人とは続くものも続かないよ」


 さばさばと言い放ってジンライムを飲む愛香は、いつもと同じようでもやっぱりどこかやけっぱちにも見えた。


「まぁ、そう言うなら……うん、誘うよ。ガンガン呼ぶよ」


 もっといい男見つけてやろう! と俄然やる気を出したさやかに 


「ところでさ。翠がなんか雰囲気変わったと思うんだけど」


「え?」


 不意に矛先を向けられて、思わず助けを求めて夏帆に視線を向けると、言うなら自分で言いなさいとでもいうように、にっこりと笑顔を返された。


「え、ええと……」


「菊池、まだライン攻撃してきてる?」


 少し気遣うような言葉に、小さく頷いた。菊池君には、二人で会う気がない事も、さやか達が一緒でも飲み会に行くつもりが無い事も、改めてきちんと伝えた。それでもまだ、ラインは届く。付き合っている人が居るとも言ったけれど「嘘つくならもっとうまい嘘つけ」と取り合ってもくれなかった。


「菊池ね、超強引だけど悪い奴じゃないよ。ちょっと暴走してるけどさ」


「さやか。翠は翠のペースでいいじゃん」


 ね? と夏帆が笑うのを見ながら、私は夏帆の口の堅さにただただ感心していた。結局、先生の事は一切話さないままさやかの愚痴に付き合ってお店を後にする頃には、変な疲れが蓄積してしまっていた。


 電車に乗ってスマホを見ると先生からメールが返ってきていた。先生のメールはいつも言葉が少なくて素っ気ないのに、それでもメールが届くだけで嬉しくて頬が緩む。メールを返すだけなのに、心がふわふわと浮くような気がした。私、幸せかも。そんなことを思いながら窓の外に視線を投げると、少し嬉しそうな表情の私が窓に映っているのが見えて、何となく恥ずかしくて下を向くと、丁度スマホがメールの到着を告げる。


『気をつけて帰れよ』


 たったそれだけの先生のメールなのに、好きな人とちゃんと繋がっていられることの幸せに、頬が緩んだ。


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