(2)


 --5分後


 私は先生に絆創膏を貼って貰っていた。


「お前、開始1分は酷すぎるだろ」


 そんなの私だってそう思ってるもん。喉をならして笑う先生は、ちょっと拗ねてる私の人差し指に消毒液を垂らす。


「おー、スッパリやったな。血止まりにくそう」


 それ以前に凄い痛くて本気で泣きたい、と心の中で泣き言を漏らす。先生の家の包丁は、今まで使ったどれよりも切れ味が良かった。


「あんなに切れる包丁初めて」


「あぁ、そっか。俺慣れてるから忘れてた。言っとけば良かったな」


 言われてても切ったと思う、とこれまた心の中で言い返した。


「あと大人しくしてな。様子見て貼り替えろよ」


 先生はクスッと笑って私の頭を撫でてキッチンに消えていった。ズキズキと鼓動に合わせて痛む人差し指は、先生が言った通りなかなか血が止まらずに、見る間に絆創膏を赤く染めていく。


 私、ちょっと情け無さすぎない? 少しでも手伝おうと赤く染まった絆創膏を貼り替えてキッチンを覗くと、先生は慣れた様子で野菜を切っていた。


 私よりは上手いって言うか…普通に料理上手いんじゃ…? あまりにも手際がいいのでそんなことを思っていると、先生が肩越しに視線を寄越す。


「どうした?」


「先生、呆れてる?」


 私の問いに先生はふっと笑って答えた。


「いや。お前の料理とか端っから期待してねーし」


 期待されていないという期待に応えてあっさり手を切ってしまった私は、なにも言い返せずに口を尖らせた。


「なんかお手伝い、する」


「いいよ。絆創膏替えて大人しくしてな」


 言われてまだ痛む左手に視線を落とすと、ついさっき貼り替えたはずの絆創膏のガーゼは、既に真っ赤に染まっていた。


「心臓より下げとくと血止まりにくいから手ぇ上にあげとけよ」


 そう言って私の頭をくしゃりと撫でる先生の手。さっき私の手を包み込んでくれた大きな手。今、すごく器用に料理をしていた手。高校生の頃、私の頭をなでなでしてくれてた…先生の手。


「何?」


 じっと先生の手を見つめていると、その手で頬をつままれた。私の頬をふにふにと触った先生は、私の額にキスをして、ニヤリと口許に笑みを浮かべる。


「お前の手料理食えんのいつだろうな?」


 ぷぅっと拗ねてそっぽを向いた私の頭を、高校生の頃にしてくれてたのと変わらない調子で先生がくしゃくしゃと撫でた。


 


「美味しい。すっごく」


 先生が私には到底出来ない手際のよさで作ってくれたお味噌汁と生姜焼きは、とっても美味しかった。色々と肩身の狭い思いで居たのに、美味しいご飯を食べてなお更肩身が狭くなったような気分で絆創膏の巻かれた左手の人差し指を見る。


「年季が違うから気にすんな。それに、料理なんて本の通りつくりゃそんな変な事にならないから大丈夫だ」


「……はい」


 こんな美味しいご飯作って超ハードルあげた後に「作って」と言われるは、ものすごい…プレッシャーだと思う。先生が今まで付き合った人は、先生の出る幕が無いくらい手際よくご飯を作ってくれてた? 先生…、彼女、居なかったわけないよね…?居たよね? ふと思い至ってしまった事に少し、胸が痛んだ。


 食事を終えた後、テーブルの上を片付ける先生を手伝ってキッチンヘ向かう。


「お茶、飲むか?」


 先生が手にしていたのは緑茶の茶筒。


「お茶なら淹れれるっ!」


 ここぞとばかりに元気に返事をした私に先生は苦笑したけれど、私が淹れたお茶を飲んで、先生が小さく笑う。


「お茶は美味いじゃん」


「会社で毎日淹れてるもん」


 会社の研修で緑茶の淹れ方も紅茶の淹れ方も習っていた。お茶汲みの仕事は、あんまり好きじゃないけど。


 私の前のローテーブルにお茶の入ったマグカップを置いて、先生が私の後ろのソファに座る。


「お前が部屋に居るとか、考えもしなかったな」


 言葉と共に伸びてきた先生の手が、おもむろにシュシュで束ねてあった私の髪を解く。視界の隅ではらりと髪が揺れるのが見えた。


「髪、伸ばしたんだな」


「うん」


 先生の手が私の髪を手櫛で梳いていくのが気持ちよくて目を伏せた。髪を伸ばしてるのには特に意味は無かった。美容院にマメに通う様な気持ちにはなれなくて、ただ惰性で伸ばしていただけの髪は、今はもう腰に届きそうな長さになっていた。


「染めないのか?」


「……うん」


 カラーリングしたことは一度もなかった。大学では、地味にしていれば男の人の目に止まらなかったから。なるべく地味に、大人しく。かわいい格好なんてしないように。世間の女の子と、真逆の努力をした。


「翠、無理してると色々しんどいぞ」


 無理をしているつもりは私としては無かった。最近は少しずつ慣れてきたけれど、大学の頃は、とにかく人との接点を絶っていないと怖かったのだ。その結果、地味になってしまっただけだった。こういうのも無理って言うのかな。


「お前、髪も服ももうちょい違う方好きだろ?」


 なんで、バレてるのかな。6年ぶりに会ったのに。何が好きとか話してもいないのに。一緒に買い物に行ったりもしてないのに。それなのに先生は怖い位に全部見透かしてくる。


「拗ねるなよ」


「拗ねてないもん」


 こんな返事をすること自体が拗ねてるようなものなのに。でも、どうしても昔の私と比べられてる気がしてしまう。


「先生は、昔の私のほうが好き?」


 私の言葉に、髪を梳いていた先生の手が止まる。


「馬鹿か、お前」


「ちょっと、馬鹿ってなに馬鹿って!!」


 思わず振り返ると、呆れた顔の先生と眼が合った。


「馬鹿な事聞くから馬鹿っつっただけだ。なんで馬鹿っていわれたか本気で判ってないなら大馬鹿だ」


「だって、絶対……昔の方が可愛かったもん」


「……大馬鹿だな、お前」


 呆れた表情の先生を見ていられなくて俯いた。だけど、昔の私のほうが今の私よりずっとずっと可愛かったのは間違いない。


 寝癖が治らなくて遅刻しそうになったり、スカートが短いって朝から生活指導の先生に捕まったり、フルーツの良い香りのするリップを使って、髪だって今よりちゃんとブローしたり、アクセサリーをつけていた。あの頃の私は、なんだかんだでちゃんと女の子だった。


 でも、今の私は、女の子とはいえない気がする。これだけ髪が長くなると、起きたら適当に後ろで髪を縛るだけ。寝癖が気になったら、まとめ髪にしてしまえばなにも関係ない。社会人として最低限だと思うファンデーションをさっと塗るだけ。似たようなシャツとパンツを前の日と同じにならない程度にローテーションするだけ。


 先生が好きなのは、きっと高校生の頃私だ。今の私なんて、しばらく一緒にいたらきっとつまらなくて……


 つまらなくて…すぐにフラれちゃう…? そう思うだけで、涙が滲んだ。


「昔の方が可愛かったなんて思うのは、無理してる証拠だろ。会社は学校みたいにうるさかないんだから、髪も服も好きにしろよ」


 はぁ、と先生が小さくため息をつくのが聞こえた。


「泣かせようと、思ってるわけじゃないんだけどな」


 先生の手が私の頭を抱き寄せて先生が呆れた様子でクスリと笑う。


「お前、泣きすぎ」


 そう言われても、どうしても涙が溢れてしまっていた。先生に抱き寄せられるままに先生の胸に顔を埋めると、耳元で優しい声が響く。


「翠、ゆっくりでいいから。いきなり全部やろうとしなくていい。ちゃんと好きな事をしなさい。大事なものを、ちゃんと大事にしなさい」


「はい……」


 先生の言葉は、今の私には痛い位だった。最近毎晩のように泣いていたから、当たり前だけど涙が目に沁みて、目を擦る。そんな私の手首を先生の手が掴んだ瞬間。


 ゾクリと悪寒がして思わず先生の手を振り払ってしまって、驚いた表情の先生と眼が合って、我に返った。


「せんせ……、ごめ……なさい」


 バクバクと心臓の音が耳の奥で聞こえる。自分でもどうしてか判らないけれど、凄く怖かった。先生、なのに。手を振り払ってしまったのは私のはずなのに、どうして自分がそんなことをしてしまったのかも、あんなに怖いと思ったのかも全く理解できなかった。先生はそんな私から手を離して言った。


「大丈夫、何もしない。翠、お前が大丈夫になるまで、何もしないよ」


 優しい言葉のはずなのに、先生の声が凄く遠くに聞こえた。つい今しがたまで抱きしめてもらっていて、耳元で優しく響いていたのに。先生がどこかに行ってしまいそうで怖くて、先生の腕に縋り付いた。


「せんせ、やだ……」


 どこにも行かないで、と先生の袖を握り締める。そんな私の頭を、先生がそっと撫でてくれる。


「翠、お前……」


 先生は言いにくそうに言葉を切ってため息をついて、腕を掴んで離さない私を軽く抱き寄せた。


「平気か?」


 頷くと、もっと強くぎゅうっと苦しいほどに強く抱きしめられた。何となく、さっき先生が言いかけた事が何なのか判った気がした。


 先生は私に何があったか知ってる。どこまで何をされたかは、話していないけど、きっと……知ってる。私と同じくらい、先生だってあの事を気にしてる。ため息のような先生の吐息と共に、抱きしめてくれている腕の力が少し緩む。


「忘れさせてやれるもんなら忘れさせてやりたい。全部俺の記憶で…塗りつぶしてやりたい。翠、ちゃんと好きだから」


 先生が、6年前とあまりに違いすぎて、頭がパンクしそう。この人はほんとに私が知ってる先生?? 実は中身別の人だったりしない?? そんなことあるワケないんだけど、そんなことを思ってしまう。


 昔からここぞというときは優しかったけど、基本的にはドライな感じと言うか、恋愛とかそこまで興味ないみたいな感じだったのに。だから、今みたいなことを言われるなんて、考えもしてなかった。当たり前のように私のこと名前で呼ぶし、抱きしめてくれるし、キスだって…… 好きってこんなに、ストレートに言ってくれるような人だったの?そんな気配、全然なかったのに。


 なによりも、私が知っている“彼氏”という存在と、先生は…全く違った。


 道又先輩は、もっと高圧的だった。逆らっちゃいけない、そんな雰囲気があった。好きだった先輩だったから、私はその支配すら先輩のモノになったように錯覚したけど…。


 今なら、ちゃんとわかる。あれは、私の意思も自由も何もかも、奪うものだった。


 先輩は、私のことを好きでもなんでもなかったんだ。


 7年も経った今になってそんなことを思った。


『お前にもう用無いから』


 私と先輩の終わりはこの一言のメールだった。こんなメールを見たら、そこには愛情なんて一欠もないのは一目瞭然だったのに、それでも私は、付き合っている間は先輩には好かれていた……と思いたかった。そう信じていたかった。


 そうじゃないと、かわいそう過ぎたから。あんなになった私が、かわいそうだったから。


 でも、やっとわかった。本当に、全然……全く……先輩と私の間に、一欠けらも、愛はなかったんだ。


 瞼が熱くて、目を閉じたら熱い涙が頬に落ちた。


「また泣いてる」


 泣いていることを気づかれないようにしているつもりだったのに、なんでばれるんだろう。


「……泣いて……ないもん」


 出てきた声があまりにも涙声で、自分でもあまりにも酷い嘘だと思う。それなのに、先生はくすっと笑っただけで、強がって顔を上げない私の頬に落ちた涙を拭って、それ以上は何も言わずに、ぎゅうっと強く抱きしめてくれた。


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