第四章(1)
朝ごはんを食べた後、ベッドの上にぺたんと座ってぽうっと呆けていた。
昨夜、何回キスしたんだろ。
あの後、車の中で何度も唇を重ねた。キスなんて最後にしたのは高校生の頃で、それも強引で怖いキスしか私の記憶には無かったのに、昨夜した先生とのキスは優しくて思い出しただけで頬が熱くなる。枕元においてあった携帯が鳴っているのに気が付いて、私は慌てて電話に出た。
「おはよう」
聞こえてきた声は先生の声。単なる朝の挨拶のはずなのに、あまりにも新鮮に響いて、そう言えば先生と朝に話をしたことが無かったことに気が付いた。私と先生は通常の学校生活での接点が本当に無かった。会うのは私が物理実験準備室に会いに行ったときだけで、いつも放課後で、朝行くことはなかったから。
「翠?」
「あ、お、おはよう、ございます」
ぎこちない挨拶を返した私を先生が電話の向こうでクスクス笑う。
「お前、寝てたのか? 今から迎え行くけどいい?」
「ちゃんと起きてたっ」
先生に、昨夜の事を思い出してぼーっとしてたなんて言えない。そう思いながらも指先で軽く唇に触れてみる。
電話を切ってから、改めて自分の姿を鏡に映してみる。デニムにオフホワイトのVネックのセーター。そんなに変な格好していないよね? と鏡に映した自分を見下ろして、シンプルすぎる首元にそっと手を添わせる。何かアクセサリーでもあれば良いのだろうけど、高校を卒業して以来がっつりと引きこもり生活をした私には、そんな洒落たものは無い。
スマホがメッセージの着信を告げたので画面を開くと、夏帆だった。
『昨夜、会えたの?』
『うん。会えた』
返事を返すと、すぐさま返事が返ってきた。
『で?どうなったの?ちゃんと聞いた?』
どうなった? と言う答えを考えただけで、恥ずかしいやら照れくさいやらで頬が緩んでしまう。それでも、ちゃんと夏帆には報告しないと、とメッセージを打つ。
『ちゃんと聞いた。それで、付き合うことになりました』
それを送るや否や、電話がかかってきた。
「もしもし」
「翠?! ホントに? マジで?」
夏帆らしからぬテンションに、夏帆の電話でさやかか里美が電話をかけてきたんじゃないかと錯覚してしまう。
「う、うん」
「きゃーっやだ、おめでとうっ!!」
「……えと、夏帆?」
「どしたの?」
返ってきた声は、紛れもなく夏帆の声。
「なんか、夏帆じゃないみたいだったから…」
「あ、そう? だって本気で心配だったし。だって翠に彼氏とかほんっとに意外だし、でもやっぱり嬉しいし。よかったね」
「うん……ありがとう」
「あ、ごめん。叫びすぎて竹原さんに怒られた」
電話先で夏帆が声を潜める。
「今、竹原さんの家?」
「うん。キャーキャーうるさいって」
仕方ないじゃんねーと言って笑う夏帆の声は本当に嬉しいと思ってくれてるのが伝わって来る。
「今日は? デートするの?」
「うん、もうすぐ迎えに来てくれる」
「じゃぁ電話切らないとね。デート、楽しんできてね」
「うん。夏帆、ありがとう」
切れた電話を見つめて息をついた。昔、道又先輩と付き合うことになったのを伝えた時、美咲と圭ちゃんもこんな風に喜んでくれたのを思い出していた。
美咲と圭ちゃんに、会いたい。ふっと浮かんできた二人の笑顔に、胸の奥がチクリと痛む。記憶の中では、ずっと一緒にいるのに、私は2人が今何をしているのかすら……知らない。その寂しさにため息をついた。
手にしていた携帯が鳴って、見ると先生の名前。電話を取りながら、窓の外を伺うと家の外に先生の車が停まっていた。
「すぐ行くっ」
そう答えて、階段を駆け下りた。
先生の車のドアを開けると「おはよう」と電話でも言われたその言葉がもう一度告げられる。さっきも電話でこうして目の前の先生に改めて言われると頬が火照る。昨夜、何度となく重ねた唇をどうしても意識してしまう。
「お前、ちゃんと起きてる?」
「お、起きてるっ」
ボーっとしてるけど? と怪訝な顔をされた。
「行きたいとこ有るなら行くけど、どっかある? 」
デートなんてしたことのない私は行きたいところも思い付かなくて首を横に振った。
「んじゃ、家帰るかな。外食続きだったしな」
家? と心臓が跳ねた。先生の家? 付き合った次の日にお家? 回らない頭のまま頷くと、音もなく車が走り出す。先生の運転は丁寧なのに、私は、ジェットコースターにでも乗ってるかのように心臓がバクバク鳴っていた。
先生の家は、駅から離れたところにある綺麗なマンションだった。
「お邪魔…します」
おずおずと部屋に上がる私を先生がクスクス笑う。
「大丈夫だよ、とって食ったりしないから」
その辺座ってなと言われてぺたんとラグの上に座る。先生の部屋は、漠然と想像していた男の人の部屋より綺麗だった。もちろん、男の人と付き合ったことなんてほとんどない私には比較対象なんてないけれど。部屋に入ったときに見た感じ、キッチンも広い。ベッドもクローゼットもこの部屋には無いから、寝室は隣の部屋。
ここが先生の家、なんだよね……? 連れて来られたものの、私は自分がいる場所にまだ現実味が無かった。場所だけじゃない、今の私と先生の関係すら、まだ夢なのかと思ってしまっていた。カタンと小さな音がしてローテーブルを見ると、先生がグラスを二つ置いたところだった。そして、私のすぐ後ろのソファに先生は座る。
「翠、おいで」
おいで。教師と生徒だった七年前には一度も言われたことがなかったその言葉に、先生を見つめたまま静止してしまう。さっさと帰れとか、もう来るなとかはたくさん言われたけど、おいでって今まで一度も言われたことない。
そこまで考えて、そうだよねと思い直した。昔は教師と生徒だったから、こっちにおいでとか先生が言うわけない。先生の言葉の変化は、私と先生の関係の変化に直結してるわけで、「おいで」と優しく言われるのは、間違いなく私が先生の『生徒』じゃなくなって、『彼女』になったから。考えなきゃいい事を考えてしまって、改めて気付かされた私と先生の今の関係に一気に頬が火照った。
先生だよ。今一緒に居るのは新島先生。高校時代には馬鹿とかアホとか散々言って、二言目には早く帰れって言っていた新島先生。熱くなる頬に軽く手を当てて自分に言い聞かせるけれど、一度意識してしまったら熱は引いてくれなくて、心臓もドキドキと鳴りやまなくなってしまう。
「どした?こっちおいで」
もう一度呼ばれて、手を引かれるとあっという間に先生の腕のなかに閉じ込められた。緊張していたはずなのに、先生の声や抱き締めてくれる胸の温かさや、腕の力強さに緊張がほどけていく。
「せんせ……」
先生の腕のなかから見上げると、頬を撫でられて唇を塞がれた。昨夜もだったけれど、先生はゆっくり私が怖がらないように優しくキスをしてくれる。6年も会わなかったんだから言いたいことも、聞きたいことも、山のようにあるはずなのに、私も先生も無言だった。だけど、なにも言わなくても、伝わってくる。
包み込む様に抱き締めてくれる腕と優しく触れる口付けが、先生がまだ一度も言葉にしてくれていない「好き」も「会いたかった」も何もかも全部伝えてくれている気がした。
お昼ご飯を忘れるほどに、キスに没頭した私達が、さすがにお腹すいたねと早めの夕飯の相談を始めたのは、四時過ぎ頃だった。「有り合わせでよければ」と先生に言われた私は、あまりにも意外できょとんとして聞き返した。
「え?先生料理するの?」
「一人暮らし長いからな。お前より上手いかもな?」
「……そ、そんな下手じゃないもん!やればできるもん!」
余裕の表情でさらっと馬鹿にされたから言い返したけれど、正直自信はなかった。だって、私はずっと実家暮らしで、特に料理を手伝ったりもしていない。そんな私の強がりを見透かした先生がニヤリと笑う。
「へぇ?じゃぁ何か作ってくれんの?」
こんな挑発に乗ったのが間違いだった。
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