(3)
先生との待ち合わせは7時半だったけれど、定時にダッシュで職場を出たからずいぶんと時間があった。駅ビルを少し眺めたけれど、そわそわして落ち着かなくて結局、コーヒーショップで時間を潰そうと買ったのはカフェラテ。
私は今でもコーヒーはミルクをたっぷりいれないと飲めない。コーヒーを飲むたびに、いつもコーヒーを飲んでた先生を思い出すから、あまり飲まないようにしていたからかもしれない。こういうコーヒーショップでも、お店側にしてみたら微妙なんだろうと思いながらもいつも紅茶やココアを選んでいた。カフェラテを一口飲んで、ふと不安に駆られる。
……夢じゃないよね?
私、先生と会いたいあまりに先生と会う約束をした夢を見たわけじゃないよね? そう思うと急に膨らんでいく不安に、スマホの着信履歴を開いて息をついた。
着信履歴の一番上に『新島せんせ』と確かに表示されている。朝起きた時にも、朝の電車の中でも、お昼休みにも何度も何度も確認した。指先でそっとなぞってその名前が確かにそこにあることを確かめる。大丈夫、夢じゃない。
今から先生と、会えるんだ。嬉しさと不安が入り混じった、何とも形容しがたい気持ち。会いたくて、会うのが不安で……だけど、高校生の頃の様に会わずに逃げようとは、思わなかった。不安でもいい、怖くてもいい。ちゃんと先生に会いたい。
深呼吸して時計に視線を投げると7時10分を少し過ぎたくらい。待ち合わせにはまだ少し早いけど、そこまで早すぎるというわけじゃない。6年ぶりの再会に緊張した私は居ても経ってもいられなくて、改札に足を向けた。
歩きながらぼんやりと考える。先生、私のこと判るかな? ……わかるよね。見た目はそこまで変わってない、と自分では思っている。別に髪を染めたりしたわけでもないし、特に太ったりしたわけでも----そんなことを考えたとき、思い至った。
……先生がこの5年で激太りとかしてたらどうしよう?
私の知ってる先生はちょっとくたびれたスニーカーを履いていて、すらっとしてて、たまに無精ひげが生えてるときがあったりして。普段は言うこと容赦ないけど、ここぞと言う時はちゃんと優しい。そのイメージのまま、激太り……思わず、ぷっと噴き出した。ないよね、ないない! 自分の想像を振り払うように頭を振って、一人で小さく笑みをこぼす。だって、昨日の電話の声は昔と変わらなかった。私が大好きだった先生の声、そのままだったから。
そう、そのままだった。
待ち合わせに現れた先生の姿も、あの頃のままで…… 時間にはちょっと早かったのに改札口前に居た私は、人ごみの中でも一目で先生だってわかった。改札を抜けて目線を上げた先生とばっちり目が合うと、先生の眼鏡の奥の瞳が呆れたように笑う。
「北川、早かったな」
そう言って、先生は私の頭にぽんっと手を置いた。ずっと人と触れ合うのを避けていたから、誰かに頭を触れられるのは……高校生の頃、先生に撫でてもらって以来。息が出来なくなりそうなほどに緊張していたのに、それだけで私の不安と緊張が溶けていく。
「仕事、早く終わったから」
残業を頼まれる前に脱兎のごとくフロアから出ては来たけれど、とは言わずに先生を見上げる。先生ときちんと向き合うのは、高校二年生以来だから、6年ぶり。6年経っても先生はそこまで変わったような気はしなかった。
「先生、変わってないね」
声も、表情も何もかも、変わってなかった。物理実験準備室で私の頭をぽんぽんと撫でてくれていた、あの頃のままだった。
「お前も、あんま変わってないな」
言葉を交わすのだって6年ぶりなのに、そんな気がしないほど、先生は変わらない様子で話す。会わなかった6年を、無かった事に出来たらいいのに。そんな気持ちを、ぎゅっと手を握りしめて押し殺す。会いに行かなかったのは、私なんだから。
「腹減ったし飯食うぞ」
そう言って歩き出した先生の隣に並ぶ。こんな風に一緒に歩くのは、初めてと言ってもいい。初めて会ったあの日、三年生の教室に荷物をとりに行く時は一緒に来てくれたけれど、あの時は……それこそ本当の非常事態だったから。学校の廊下も、たまに車に乗せてもらう時の駐車場への道も、先生と一緒に歩いたことは一度もなかった。
少し視線を落とすと先生の左手が見えた。先生の左手に、指輪はない。それが全てではないけれど、その事実に少しだけ安心した。
「先生、何食べたい?」
「お前が食いたいもんでいいよ」
お店眺めながら少し歩いて、結局創作和食のお店にした。何となく先生って和食の方が好きそうだったから。それにここは夏帆が彼と来て美味しかっと言っていたお店だと記憶の片隅に残っていた。
平日だからかそこまで混んではいなくて、通された席は簾や植物を上手く使って個室感を出してある。向かい合って座るテーブル席じゃなく、カウンターのように隣に座る席だった。向かい合うのはなんか落ち着かないから隣でちょっと安心した。
先生はビール、私は梅酒のソーダ割り。のんびりと飲みながら話すことは、今の事。顔すらあわすことのなかった期間なんてなかったのように、私も先生も昔の事を話さなかった。仕事のこととか、同僚の事とか、他愛のないこと。前はあまり話してくれなかった、先生の事も。先生は前より話し方が少しやわらかくなった気がする。時々絡む視線も、前よりもずっと柔らかい。
昔は確かな一線があったのに。どんなに近くで話してても、先生は私にきっちり線を引いてた。自分のプライベートの事を全くといっていいほど話さなかった。物理実験準備室の外ではすれ違うことがあっても一切言葉は交わさなかった。車はいつも後部座席だった。
だけど今は、その一線を感じない。
先生……もうあの一線は要らないの? 私、もっと近くに行っていいの?
お手洗いで観た鏡の中の私は、笑っていた。自分ですら久しぶりな気がするその表情に、そっと頬に手を当てる。火照った頬がお酒のせいなのか、それとも先生といるからなのか判らなかった。
戻るとお会計まであっさり済まされていて、お財布を出そうとしたら、少し呆れたように笑って言われた。
「じゃぁ、今度な」
今度……? 思わず先生を見上げた私の頭を先生がぽんぽんと撫でた。
「お前、酒のめるなら金曜日とかさ。俺、基本的に平日は飲まないし」
それ2人で……だよね? 先生と私は、いつも2人だったし。そんな事言われると、期待……しちゃうんだけど。また会えるのかもしれないとか、また昔みたいに一緒に居られるのかなって。
先生、何で卒業して5年も経ってから連絡くれたの? 私は、先生にとってどんな存在? 先生、私は……
私は先生の事好きだよ。
7年前から、ずっとずっと、先生の事だけ好きだよ。
「北川?酔ってる?」
伸びてきた先生の手が、私の耳元にかかってた髪を軽く梳いていく。
「耳、赤いぞ」
そういって見せた笑顔は、優しいけど何処かいたずらっぽい。その表情と、耳朶に触れる先生の指の冷たさに、頬の熱さを再確認させられて更に頬が火照った気がした。
「今も実家か?」
私が頷くと、先生は私の頭をなでて小さく笑って言った。
「送ってく」
……他の人なら、絶対嫌なのに。二人でご飯もお酒を飲むのも。頭をなでられて、髪を触られるのも。送ってもらうなんて、絶対に嫌なのに。それなのに、先生に言われるとまだ一緒に居れるんだって…嬉しくなる。
今に始まったことじゃなくて、昔からなんだけど。どうしてかな。なんで先生は平気なんだろう。前に先生にも言われたことがあるけど、私、どうして先生のこと平気なんだろう。
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