(4)


 朝の通勤ラッシュほどじゃないけど、夜の電車も結構込んでいる。仕事が終わった人や、飲み会帰りっぽい人、学生みたいな雰囲気の人。友達と一緒の人、恋人同士の人も、もちろんいる。


 こんなにたくさん居る人の中で、私と先生はどう見えるんだろう? 年が離れているから…恋人には見えないかな? 普通に考えて、上司と部下…かな? ……もう、教師と生徒じゃないんだなと、今更のように思った。


「結構混んでるな」


「うん、朝はもっと凄いよ」


「満員電車平気か?」


「平気じゃないけど、嫌とか言ってられないし……」


 本当は息が詰まりそうなほどに嫌だ。痴漢とか絶対に遭いたくなくて、スカートは普段履かない。だけど今日は、先生の前では、ちゃんと女の子で居たいと思った。


 不意に電車が揺れて、人の波に押された私を先生の腕が抱きとめてくれた。


「ごめんなさ…」


 離れようとした私を、軽く力の篭った先生の手が引き止める。抱きしめるという訳じゃないけど、私が居るのは…先生の腕の中。間近にある、先生の肩。微かに香る、先生の匂い。


 ちらりと見上げた先生の表情は、いつもと変わらない涼しい顔。頭に置かれた先生の手が、髪を撫でてくれてる。意識してるのは、私だけ? 先生は、こういうの普通? このまま駅に着かなくたっていい、そう思うのは……私だけ?


「降りるの、次か?」


 すぐ間近で囁かれる先生の低い声は、電車の雑踏の中で骨を伝わるように直接響いてくる気がした。


「うん」


 頷いたときにまた電車が揺れたけど。今度はずっと、先生の腕の中だった。


 -----


「お前の家、あっち?」


 先生が足を止めたのは、私の家の近く。いつも車で下してもらっていた公園の前。あっち、と示された角を曲がって少し歩けば、私の家。


「うん」


 電車を降りてからはぽつりぽつりと話すだけで、そんなに話をしていた訳ではない。それでも、先生と一緒なら沈黙も嫌な感じがしない。隣に並んで歩くだけなのに、別れるのが寂しかった。


 高校生の頃の私はどこにいっちゃったんだろう。あの頃の私なら、きっと先生に何気無い事のように彼女の有無を聞いたり、もっと一緒にいたいとか言えたのに。今ではそんなこと、とてもじゃないけど口に出せない。


「家の前まで、な」


 ぽんっと頭を先生の大きな手が撫でる。先生の声音は静かで、感情を読み取れなかった。もうすぐついてしまうのが判っていても、何を話したらいいのか判らなくて、何も話せないまま家の前に着いてしまった。


「それじゃ--」


「先生っ」


 先生の言葉を遮った私を、先生の眼鏡の奥の瞳が見つめてくる。


「どうした?」


「先生。また、会える……?」


 怖かった。ちゃんとした約束が無いと、またずっとずっと会えなくなる気がして、怖かった。先生の事を見ていることもできなくて俯いてしまって見えなかったけれど、先生がふっと笑った気配がした。


「会えるよ」


 俯いた私の頭を大きな手が優しく撫でた。不安で堪らなかったのに、先生の声も頭を撫でてくれる手も優しくて、不安がゆっくりと溶けていく。


「会いたい?」


 聞かれた言葉の意味に、少しだけ先生を見上げると、悪戯っぽい瞳で私を見ていたから、一気に頬が火照った。返事は決まってるのに、あまりの恥ずかしさに言葉がでないでいると、先生がクスリと笑って私の頬を撫でる。


「入試と期末の前後はちょっと忙しいかな。他は、大したことない」


 先生が少し目を細めて私の髪を撫でるから、胸がきゅんとする。昔は、こんなに優しい目で見つめてなんてくれなかったのに。こんな風に触れられたりしなかったのに。頭は撫でてくれてたけど、ぽんぽんとかくしゃくしゃ撫でる感じで、今みたいに髪に指を絡めてすいていくように、しっかりと触れたことは一度も無かった。


「金曜は? 飲むなら週末のがいいから」


 金曜日? 記憶をたどって気がついた。今週の金曜日は、菊池君に飲みにつれて行かれる。さやかと里美にも声をかけてあるみたいだったし、あの二人にまでタッグを組まれたら、きっと行かないといけないんだろうと半ば諦めていた。


「先約があるって顔したな。じゃ、来週かな」


 告げられた言葉に素直に頷けない自分がいた。今日は火曜日、木曜日は先生が会議で遅いって言っていたし…金曜日が無理なら明日しかない。来週と言われるのは、至極当たり前なのに。それでも、来週まで会えないのが嫌だと思ってしまう自分が居た。


「北川。お前さ、そんな来週まで会えないの嫌っつー顔するなよ」


 私の思考を見透かしたような先生の言葉に、思わず口を尖らせてしまう。なんでさっきから全部ばれてるんだろう。私ほとんどしゃべってないのに。


「そんなことないもん……」


「そう? んじゃ、来週な」


 あっと思って見上げた先生の眼はさっきも見せた悪戯っぽい瞳で、私の反応を見てクスリと笑う。


「それじゃ」


 悠然と口元に笑みを浮かべた先生に、くしゃりと頭を撫でられた。


「明日、仕事おわったら連絡寄越しな」


 え? あれ? 明日?? 告げられた言葉にきょとんとしていると、そのまま背中を軽く押される。


「いつまで家の前に居るつもりだよ」


 さっさと帰れと促されて、きちんと確認もさよならも言えないまま家の玄関に続く階段を上る。


「先生」


 振り返った私に、ひらひらと先生が手を降ってくれた。



-----



 スマホを片手にお風呂のなかで、私は今日の出来事を反芻していた。6年振りに先生と会って、ご飯を食べて……。電車の中を思い出しただけで、頬が熱くなる。耳元で響いてくる先生の声は電話と同じなはずなのに、全然違った。高校生の頃よりずいぶん長くなった髪を指を絡めて梳いていく先生の手。頬を撫でてくれた先生の手の暖かさも、あの時の瞳も思い出しただけで胸がきゅうっとなるのに。


 肝心な事は、何一つ判らないままだった。


 先生がもう結婚しているのかも。彼女が居るのかも。怖くて聞く事すら出来ていない。


 そんな情けない自分にため息をついて、スマホは死守してブクブクと鼻までお湯に沈む。溢れ出てくる気持ちの意味は、嫌と言うほど判ってる。


 やっぱり好き。6年も会わなかったのに前と変わらずに、ううん、前よりずっと……大好き。


 握り締めていたスマホが震えて、飛び付くようにメールを開いた。


『家着いた。風呂入って寝る』


 開いたメールの素っ気なさに手が止まる。


 そうでした。先生は、メールが超絶そっけない人でした。前から知ってたけど、知ってはいても久しぶり過ぎて油断してた分、ダメージを受けてしまう。そう言えば昔もすっごく期待してメールを待っていて、そのたびに返信の素っ気なさやメールスルーで打ちのめされたのを思い出してため息をついた。


 何て送ったらいいか散々悩んだのに。明日も会うのか聞いていいのか判らなくて余計に悩んだのに。それなのに、風呂入って寝るってだけって……。打ちひしがれながらも返信しなきゃ、とスマホの画面に指を滑らせる。


『遅くまでありがとうございました。

明日仕事終わったら連絡します。

おやすみなさい』


 こんなもん、だよね? 明日の事もちゃんと確認できている……と思う。短いメールを何度か読み返して送信ボタンタップする。話すときは普通に話せるのに、メールだと何故か緊張して敬語になってしまう。絵文字も、先生のメールにはほとんど入ってこないから使うのを躊躇ってしまっていた。


 今度はすぐにメールが返ってきて、思わずそのメールを二度見してしまった。


『また明日。おやすみ』


 また明日ってことは、やっぱり明日も会えるんだよね……? 私が、来週まで会えないの嫌って顔してたから、明日も会ってくれるんだよね……? 高校生の頃あれだけ毎日会ってたのに、先生は一度もまた明日とは言ってくれたことが無かった。もう来るなとか、早く帰れとかそんなのばかり言われていたのに。そんな先生からの初めての『また明日』にとくんと胸が鳴る。


 たった二言の簡素なそのメールは、何度も何度も……先生の声で再生された。

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