(6)
夕暮れの学校の廊下を駆け抜ける。
逃げなきゃ。脳裏に浮かぶのは、伸びてくる大きな手。すぐ背後まで迫っているような恐怖感に襲われて、必死に走るのに足が空を切ってどこにも進めない。逃げる私を、嘲笑う声が耳元で聞こえる気がした。
はっと目を覚ました私の耳に、パタパタと雨粒が屋根に当たる音が響く。電気が付いたままの部屋がうたた寝をしたのだと教えてくれていて、スマホの時計を見ると多分本当に10分かその位しか寝ていないのだと判る。それなのに、じっとりとかいた汗が嫌な夢の余韻を余計に強くしていた。
雨の日は、いつも同じ夢を見る。
『何か』から逃げる夢。必死に逃げて逃げて…目を覚ます。
机の上に開きっぱなしになっていた高校の卒業アルバムの中で、高校3年生の私が笑っていた。この頃は逃げきれない事が多かったから、そういう意味では生々しさも何もかも、薄れたのかもしれない。薄れた所で……嫌な夢には変わりないのだけど。
◆◆◆
「ね、翠、圭ちゃん。後夜祭一緒にバックレよ?」
美咲に言われたのは、文化祭の1日目の帰りだった。
「うちらはいいけど…美咲いいの?」
圭の言わんとすることは翠にも判った。後夜祭の後半、放送委員会が企画する生徒参加のステージイベントがある。その中で毎年好きな女子に告白する男子が絶対にいるのだ。そして、去年、美咲も告白を受けていた。
「いいって言うか、公開告白とかもうヤダ。絶対やだ」
断固として首を振る美咲には、大学生の彼氏がいる。写真しか見たことがなかったが、クラスの子の彼氏の紹介で知り合ったのだと聞いていた。
「翠、去年上手く雲隠れしてたよね。片付けさえしたら平気だろうし、閉祭式から居なくなろうよ」
上手く雲隠れした、その言葉は翠にはちょっと胸が痛かった。そういうつもりじゃ、無かったんだけど。
去年の後夜祭、翠は新島と一緒に物理実験準備室に居た。家庭科の授業で作った浴衣を着て和風メイドに扮しての和風喫茶は、男子生徒に大繁盛して、本当に大変だった。疲れ果てて、とてもじゃないけど後夜祭なんて気分じゃなくて、片付けが終わってから物理実験準備室に行ったのだ。閉祭式の間少し寝て、そしてそのまま仕事をしている新島と後夜祭の音だけ聞いて、帰りも送ってもらった。
あの日、翠が疲れてぐったりしていたからか、新島は優しかった。ただ傍に居てくれるだけで安心して、くしゃくしゃとと頭を撫でてもらうだけで幸せだったのに、あれからもう一年経ってしまったのだ。
「翠?聞いてた?」
「え?」
「だからさ、片付け終わってみんなが閉祭式行くの待ってから、抜け出そうって」
「ほら、生物室とかの奥の非常口出てすぐにコンビニ抜けれる穴あるじゃん?」
美咲と圭の話を聞きながら、翠はまた上の空になっていた。
どうして今日に限ってこんなにも新島を思い出させる事ばかり言うのだろう。あの廊下を見るだけで、居なくたって新島の姿が見える気がするのに。
新島には会いたい。会いたいけれど、会いたいのと同じくらい不安に感じる。新島に対する不安感は、他の男の人に対するの物とは少し違うことに翠も気付いていた。
新島を怖いと思うかもしれないことが怖い。会いに行って、新島を目の前にして自分が何を思うかが怖い。何度となく見る怖い夢を思い出してパニックになりそうな自分が怖かった。
実際、2年の終わり頃は授業のために化学実験室に向かう時でさえ、誰かと一緒じゃないと足が震えた。
そして、新島が翠をどう思っているのかが、怖い。会わなくなってからもう1年近く経つ。メールも電話も、一度もしていない。新島にとって翠はどんな存在だったのだろう。
今日も廊下を新島が通っていったのを見かけていた。おもわず手を止めて、目で追ってしまったのに……視線が交わることは無かった。新島は以前から物理実験準備室の外では完全に他人行儀で、言葉すら交わしたことがなかったけれど、翠が会いにいなくなってからもそれは変わらないのだ。
元々私が勝手に行ってただけ、だもんね…… 先生は私の事なんてどうでもいいよね……そんなことを思っている翠を嘲笑うように、頭の奥で道又が嗤い声が響く気がした。
「すーいー?大丈夫?」
圭に覗き込まれて翠はまた現実に引き戻された。
「ごめん……疲れちゃったみたい」
「立ちっぱなしだったもんねー」
今年、翠のクラスはドーナツ屋さんだった。仕入れたドーナツと飲み物を出すだけ。メイド服のようなものは却下で、お揃いのエプロンだけにした。おかげで去年のように写真撮影希望者で溢れることもなく、平和だった。
平和なのに……とても、寂しかった。
新島と会わなくなってからの学校生活は、色を失ったように味気なくて、寂しかった。
◆◆◆
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