(7)

 夏休みがあけた2学期。すぐに文化祭の準備が始まって、打って変わって新島と会う時間は少なくなった。夏休みの最後の一週間は毎日会っていたから、少し物足りなく感じていた。だけど、文化祭が終わったら修学旅行と行事は続いて、3年生の担任をしている新島は受験の対策に追われているのかなかなか物理実験準備室に居ることが無かった。


 それでも翠は時間があれば宿題をやったりして、物理実験準備室で下校時刻ギリギリまで過ごしていた。会える時間は減ってたけれど、新島と過ごす短い時間は道又先輩の事で泣いたり大輔の事を愚痴ってた1学期とは違った。コーヒーとお茶を飲みながら他愛の無い話をして、時々勉強を教えてもらって。


 会えなくてもいいから待っていたい、少しでもいいから話したい。思っていた事は、それだけだった。


 翠ははっとして目を覚ました。周りは静かで、薄暗くて、だけど見慣れた物理実験準備室だとすぐに判った。ブラインド越しに見える外には、もう夜の帳が降りてきていた。部屋が薄暗いから当たり前だけど、新島の姿は無い。今日は会えないのかと、ほんの少し寂しさが胸をよぎる。


 眠っている間に身体はずいぶん冷えてしまっていて、自分の身体を抱き締めようと身体を起こしたとき、肩から何かが滑り落ちた。


 何……?


 身体をかがめてそれを拾い上げて、どきっとした。それは、スーツのジャケットだったから。この部屋に来て、翠が眠っていることを咎めない人なんて、新島しかいない。新島がここにきて、翠が寝てたから、掛けて行ってくれた以外はありえないから尚更一気に頬が熱くなって、どきどきと胸が鳴るのが判る。


 どうしよう。


 翠は熱く火照った頬を両手で包み込んだ。つい今しがたまで新島に会いたいと思っていたのに、今はどんな顔して会ったら良いのかわからない。広げていた数学の教科書とノートをあわただしく閉じて、帰り支度をして物理実験準備室を飛び出そうとした翠を、ガチャンと音を立てて物理実験準備室のドアが阻む。


「あれ?」


 勢いよく引いたのにドアが開かない。何度かドアノブをガチャガチャと回してから漸く鍵がかかっているのだと気が付いた。緊張して上手く手が動いてくれなくて手間どりながら鍵を開けて、逃げ出す様に物理実験室を駆け出した先の廊下でドンっと何かにぶつかった。


 それが物ではなく、人だとわかったのは相手の手が翠の肩をつかんで支えてくれたからで、新島だと顔を見なくても判ったのは、間近で何とか見えたその人はジャケットを着ていないワイシャツ姿だったから。


「北川?」


「せんせ……」


 ドキドキと鳴る心臓の音が、新島まで聞こえるんじゃないかという気がした。


「ごめん、準備室鍵掛けてた」


 翠は小さく頷いた。声を出したら、震えそうで声を出せなかった。


「声かけても起きなかったから」


 新島が部屋に鍵を掛けた理由は、翠にも判っていた。最近、受験が近いからか物理実験準備室には時々新島を探しに生徒が来る。新島のジャケットを肩にかけた翠が眠っているのを他の生徒が目にすることが無いように。今の翠と新島の関係が、誰にもばれないように。


 この廊下は、両側に教室があって蛍光灯をつけないと夜は真っ暗になる。今も何となくシルエットはわかるけど、お互いに表情は見えていなかった。


「先生、ありがと」


「帰るのか?」


「……うん」


「北川、あの部屋冬は寒いから、こんな時間まで居ないで帰るようにしろよ」


 新島の静かな声音は子供に諭すように響いて、答えずに俯いていると新島の手が翠の頭を撫でた。確かに寒かったけど、素直に頷けなかった。待っていないと新島と会う事が出来ない。だから翠は、黙って俯くことしかできなかった。


「気をつけて帰れよ」


「……うん」


 学校を出て駅に向かっている間も、心臓がドキドキなっていた。


 先生のせいだ。


 翠はきゅっと唇を噛んだ。普段の新島なら「寝てんなら最初から来るな」とか「さっさと帰れ」とか容赦なく言うのに。新島がいつもより優しかったからこんなに調子が狂うんだと、半ば八つ当たりの様な事を考えながら、翠は電車の中で火照った頬を両手で包み込んだ。



-----


 翠はいつものように物理実験準備室で勉強をしていた。勉強をしていれば新島は特に文句を言わずに居させてくれるから、ここに居る間に宿題を片付けるのが、この半年ですっかり習慣になっていた。今日は最近にしては珍しく新島もいて、時々教えてもらいながら数学の宿題をやっていた。もうずいぶん寒くなったと思うのにいつまでたっても学校の暖房は入らなくて、日の差さない日陰の物理実験準備室は翠には真冬のように感じられた。


「ねぇ、せんせー。寒いよー。この部屋いつになったら暖房入るの?」


「知らん。寒いならさっさと帰れよ」


 返ってきたいつもの釣れない声音に、ぷぅと翠は頬を膨らませた。自分だけジャケットの下にカーディガンとか着ててずるい。


 なんか貸してくれたって良いじゃん。そう不満に思うのは、この間肩にかけて言ってくれたジャケットの温もりを思い出してしまうから。


 ただ、よく考えてみたら知り合ってからずっと新島はこの調子だ。むしろこの間優しかった事の方がイレギュラー。いったいどういう風の吹き回しだったのだろう? と翠が思っていたとき、新島の携帯が鳴った。


 ヴーヴーヴーと音を響かせる携帯をジャケットの内ポケットから出した新島を翠は思わず凝視してしまっていた。新島は、この部屋に居る時でも携帯をいじっているところなんてほとんど見ない。鳴り止まない携帯に眉をひそめた新島は、しばらく見つめた後諦めたかのように、鳴り続けている電話を取った。


「いや、まだ職場。……行けないことも無いけど」


 何を話しているのかはもちろん判らない。だけど、漏れ聞こえてくる声が翠に教えてくれることが一つだけあった。


 それは……新島の電話の相手が、女の人だということだった。


「ちょっと早いけど帰るぞ。駅まで行くから乗ってくか?」


「え?……う、うん」


 電話を切った新島にそういわれて、翠は一瞬話しかけられたのが自分だと気づかなくて、少し戸惑いながら頷いた。そんな翠を他所に、新島が机の上を片付けだしたのを見て、慌てて翠も開いていた教科書やノートを片付けたけれど、ざわざわと嫌な感じに胸騒ぎがした。


 新島と一緒に帰るときは、もちろん一緒に駐車場に行ったりしない。物理実験準備室だって一緒に出ない。翠は昇降口を出て人が居ないのを確認してから、校舎裏の職員駐車場に向かった。


 違和感を感じていた。普段の新島ならこんな早い時間に車に乗っていくかなんて聞かない。時間だけじゃない。いつも泣いた後とか翠が電車に乗れないような非常事態っぽい時しか、乗せてくれない。新島は先に車に乗っていたので、翠は後部座席のドアを開けて車に乗った。


「寒かったら使って良いぞ」


 そんな言葉と共にぽんと放り投げられたのは、ブランケットだった。新島らしくない、可愛いキャラクターの描かれたブランケット。心臓が、ドクンと鳴るのが判った。


 車の中は少し寒かったけれど、ブランケットは使わなかった。いつもなら、絶え間なくどうでもいい話をしているのに、何も思い浮かばなくて、会話すらなかった。


 学校と反対側にあるロータリーで下ろしてもらって、翠は駅の階段を登った。まだ心臓が不安でドキドキしていた。駅のホームからロータリーを見ると、新島の車がまだあるのが見えた。新島は翠に『駅まで行くから乗っていくか?』と言った。だから、駅に用事があると言うことなのは、翠にもわかってる。

 

 先生、誰を待ってるの? ……電話の女の人?


 胸がドキドキした。


 この間、暗い廊下で新島と話したときとは違う、嫌なドキドキが、電話をする新島を見てから止まらなかった。向かいのホームに電車が入って、しばらくして新島の車に人が近づくのが見えた。


 車の助手席のドアを開けて乗ったその人は、スカートをはいていた。


 先生、彼女いるんだ。


 そう翠は確信した。


 その後は、何も考えられないまま家に帰った。ご飯は食べられそうに無かったので、要らないと言ってお風呂に逃げ込んだ。


「先生……彼女、居るんだ……」


 湯船に浸かって、翠は小さな声でぽつりとつぶやいて、小さく笑う。「そうだよね」と翠は自分に言い聞かせるように心の中でつぶやいた。


 新島は大人だ。彼氏だ彼女だなんて騒いでいる高校生じゃなくて、きちんと仕事をしていて、ちゃんと教師と生徒の線引きをしている大人だ。


 新島に彼女が居たって、翠にしてみたら何もおかしくない。新島はなんだかんだ言って優しい。むしろ、彼女が居ない方がおかしい。


 熱い雫が頬を伝って行って、泣いている事に気が付いた。 


 どうして泣いているんだろう。泣くことなんて無いのに、別に新島に彼女が居たからって翠には関係ない。 新島に彼女が居たからって、自分には何も関係ないはずだと思いたいのに、ヒリヒリと胸が痛む。


 ボロボロととめどなく、涙が零れ落ちて行った。


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