(4)
今日の新島先生は、デニムに襟付きのカットソー。うんうん、この間よりは私服っぽい。
そんなどうでもいいような新島の服装を見るのを、地味に楽しみにしている翠だった。別にチェックしてどうというわけではないのだけど。他に特にこれと言った楽しみもないから、新島の服装チェックをしてしまうのだ。
夏休みの教師は翠が思っていたよりもやることがあるらしく、新島は物理実験準備室にずっといるわけでもなく、職員室に行ってしまって翠一人でいることも多かった。けれど一応気にはしてくれているらしく、お昼は一緒に食べてくれるし、持ってこれる仕事は持ってきてくれているようだった。
「暑いね~、せんせ」
「夏だからな」
判り切っている返事しか返してくれない新島に、翠はぷぅっと頬を膨らませた。
「ねぇ、先生。アイス食べたくない?」
「お前のおごりか?」
「えー、先生買ってよぉ」
暑くて溶けちゃう、と翠は実験台に顎を乗せて「あ、ちょっと冷たくて気持ちいい」と漏らしてぺたりと頬を実験台に押し付けた。
いくら北校舎の一階で一日中陽が当たらなくても、8月下旬である。だらだら汗をかく程では無いけれど水分をしっかり取るに越したことはないわけで、家から持ってきていたペットボトルは、昼食時にあっさりと飲み切ってしまっていた。何か飲み物は無いかと猫型冷温庫を開けたけれど、生憎コーヒーとカフェオレが1本ずつ入っているだけ。
喉が渇いた時にはやっぱり水が良い。部活をやめてから、翠はスポーツドリンクも嫌厭するようになっていた。去年の夏休みは、部活で道又を見つめていたのに。休憩時間にゴクゴクと喉を鳴らしてスポーツドリンクを飲む姿を見るのが好きだった。だけど今はもうスポーツドリンクのボトルすら見たくなかった。
新島からあまり出歩かないように言われていたのもあって、なるべく物理実験準備室の中に引きこもっているけれど、飲み物が無いのは仕方がない。
「せんせ、なんか買ってくるね」
「そのまま帰れよ。お前、来てもぐーたらしてるだけだろ」
「えー、やだぁ。ちゃんと宿題してるもん」
実際のところ、今日は暑さも手伝ってあまりはかどっていない。だけど、家に帰ったらはかどるかと言えばそうではないし。一人で家にいるといろいろと考えて滅入ってしまうけれど、ここにいるとそこまで悶々と考え込まなくて済む。それも大きかった。
財布を片手にのんびり自動販売機コーナーへ向かおうと物理実験室の前の廊下に出たその時。廊下の向こうを、遠目でも判る見知った人物が何人か歩いていくのが見えて翠は慌てて物理実験室に戻った。
ドクドクと嫌な響きで心臓の脈打つ音が耳の奥で響く。
部活のユニフォーム。屈託なく笑って歩いて行った部活の仲間と先輩。
部活そのものには何一つ非は無かったはずなのに、全てが道又の記憶へと収束されていく。立っていられなくなって床に座り込んだ翠の意識は、身体の上を這う手の感触と絶望にも似た虚しさに引き込まれていった。
「…おい、北川」
新島の声にゆっくりとうつろな視線を上げると、そこには少し心配そうな表情をした新島が居た。
「せんせ? どうしたの?」
「どうしたのじゃないだろ。一時間も帰ってこないで。ずっとここにいたのか?」
翠はきょとんとして、新島の肩越しに教室の黒板の隣に備え付けられている時計を見上げた。言われてみたら確かに時計の針は一時間くらい進んでるかもしれない。
そうか、この間も駅できっとこんな風になったんだ。それに気が付いたら今更のように押し寄せてきた不安に指先が冷える気がした。
「北川、大丈夫か?」
大丈夫だと答えたいのに言葉が出て来なくて、代わりに視界がぼやけていく。不意に目尻に感じた温かい感触、それが涙をぬぐってくれた新島の手だと気づくのに一瞬間があった。顔を上げるといつになく優しい眼差しの新島と目が合う。
「せんせ」
「ん?」
「先生の手、あったかい」
言葉にしたら、ボロボロと涙があふれてきた。意味が分からなかったのか新島は怪訝そうな顔をしたけれど、泣き出した翠に問い返してくることは無くて、泣き止むまでずっと傍に居てくれた。
誰かの体温を心地よく感じたのは久しぶりだった。
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