第5話 城戸の館の危機
――嫁に行くな
礼次郎の声が再びふじの耳の奥で響く。
あの時の礼次郎の顔が瞼に焼き付いて離れない。
ふじはふふっと微笑んだ。
そして鼻歌交じりに櫛で髪をとかし始めた。
「ご機嫌ね、ふじ」
ふじの母、
「そう見えるかしら?」
「ええ、見えますよ」
妙は、ふじの手から櫛を取り、ふじの後ろに座ると娘の髪をとかし始めた。
「婚儀が決まって嬉しいのね」
妙が穏やかな口調で言うと、ふじは意味ありげにふふふと笑った。
「そうじゃないわ」
「え?」
「うーん、少し違うかな。そうと言えばそう、でもそうじゃないと言えばそうじゃない」
「どういうこと?」
妙が怪訝な顔をする。
と、そこへばたばたと慌ただしい足音が聞こえて来たかと思うと、
「奥様! お藤様!」
下女が血相を変えて飛び込んで来た。
「どうしたの?」
妙が櫛を動かす手を止めた。
「大変です! 外に!」
「?」
「ちょっと見てみてください!」
下女は激しく狼狽している。
尋常じゃないその様子に、妙とふじは急いで部屋を出、外が見られる廊下に行った。
そして窓からそっと外を覗き見る。
「えっ……!?」
妙とふじは驚愕に息を飲んだ。
そこには夥しい数の軍兵が列をなして進んでいた。
「徳川の?」
ふじが口に手をやった。
誰も声を発することなく静かに不気味に進む兵達は、それぞれ刀や槍、弓矢などを携えている。
間違いない。
戦に向かう出で立ちであった。
「殿っ!」
茂吉が慌てて宗龍の部屋の前まで飛んで来た。
「どうした? 先程から何やら外が騒がしいようだが」
宗龍は、夕餉を前に自室で貞観政要を読んでいた。
「大変でございます! 徳川の兵が!」
茂吉は震える声で言いながら入って来た。
「徳川? 何かあったか?」
「徳川殿の兵が館の前に集まっております」
「何っ、どういうことだ?」
宗龍は顔色を変えて書物を閉じた。
「わかりませぬ、しかし皆、甲冑に身を固めております」
「その数は?」
「ざっと見える限り五百は超えている模様」
「そんなにか?」
宗龍は背筋を寒くした。
「徳川殿は殿が出て来るのを要求しております」
「そうか。順八、伊兵衛はまだおるか? 急ぎ呼べっ。それと寛介らに知らせて兵の準備だ」
「はいっ」
茂吉は小走りで手配に向かった。
俄かに館中が騒然となった。
城戸の館がこういう状態になったのは恐らく初めてである。
宗龍は別室に行き、小者に手伝わせて甲冑を身につけ始めた。
やがて同様に戦姿となった順八が慌ただしく駆けつけて来た。
宗龍は順八に向かって、
「伊兵衛はどうした?」
「もうすでに帰ったようでおりませぬ。ですがこの異変に気づくやすぐに参るでしょう」
「そうか、わかった。では行くぞ」
宗龍は言葉短めに部屋を出る。
そして館の中の、高い塀より更に高い物見櫓に登った。
館の周りを流れる堀の向こう側、町の中心の通りを武装した兵が埋め尽くしていた。
「かなりの数じゃな」
宗龍が口を真一文字に結んだ。
「はい、これだけの兵を連れて来ているとは知りませんでした」
順八の顔が青ざめている。
「家康自身が来ているのだ、おかしくはあるまい」
やがて侍大将である寛介と、茂吉も物見櫓を登って来た。
「殿、大体の者は集めました」
と言う寛介も、堀の向こうの徳川軍を見て顔色を変える。
「これは尋常ではありませんな」
「うむ、まだわからんが、家康は世の誹りも恐れず力づくで天哮丸を奪いに来るつもりだろう。だがここは館とは言え城郭並みの防衛設備がある、五百であれば防ぐことは不可能ではない。寛介は館の兵たちをそれぞれ持ち場につかせよ」
「はっ」
「茂吉、裏の北門は奴らは知らぬはずじゃ。何人かを連れて北門から出て町に向かい、町の男たちに戦準備をしておくよう伝えて回れ」
「はっ」
「順八はしばしここにいよ」
「ははっ」
宗龍は矢継ぎ早に指示を出した。
寛介、茂吉が櫓を降りて駆け出して行った。
すると堀の向こう、兵の集団の中から一人の大将が進み出て来た。
倉本虎之進であった。その後ろには徳川家康がいる。
虎之進は宗龍の姿を遠目に見つけるや大声で叫んだ。
「城戸宗龍殿と見うける」
宗龍は倉本虎之進とその背後にいる徳川家康の姿を確認すると、
「徳川殿! これは一体どういうことでござるか!? 何故このように軍兵で我が館を囲まれる!?」
すると倉本が答える。
「今日の昼頃、我が陣に潜入し、我らが殿のお命を狙った者がおる‼誠に不届き千万、その者を引き渡してもらいたい」
「何っ……」
宗龍は驚いた。あまりに無茶苦茶な言いがかりである。
「我が家中の者がそのようなことをするはずがない! 言いがかりも大概にせよ!」
すると倉本虎之進はにやりと笑い、
「いる……その方の嫡男、城戸礼次郎だ」
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