第3話 徳川家康

 家康の姿が見えなくなった後、宗龍はふーっとため息をついた。


「納得してくれたでしょうか?」


 宗龍の側にいた順五郎とふじの父親、大鳥順八が不安げに言った。


「口ではああ言っておったが、わしには納得したようには思えん。また年明けにでも来るであろうな」


 宗龍が顎鬚を触って言う。


 側に控えていたもう一人の家臣、谷内伊兵衛は家康が去って行った方向を困惑の表情で見つめていた。


「伊兵衛」

「はい」

「徳川殿に土産の一つでも持たせてやれ」

「わかりました……」


 伊兵衛は立ち上がり、主殿を出て行った。



 ふじは嫁に行くと言ったきり、何も言わなかった。

 礼次郎もまた、何を言っていいかわからず、黙りこくっていた。

 少し重くなったその空気を、ふじの言葉が破った。


「何も言わないの?」


 ぼそっと言った。


「いや……良かったじゃないか」

 礼次郎は絞り出すように言葉を出した。

「良かった?」

「さっきもふじが言ったように、まだ早いとは言えない年だし……女なら特に……」


「そう?」


 ふじが憂いの瞳を礼次郎に向けた。


「相手はどこの誰だ?」

「北条家のご家臣で松田様と言う方よ。殿と父上で決めたみたい」

「北条の? ならとてもいい話じゃないか」

 いいとは言ったが、礼次郎の目も口元も笑ってはいない。

「本当にそう思う?」

「ああ……」


 ふじがじっと礼次郎の目を見つめた。


 その目が少し潤んだように見えた。そして、


「何かを成し遂げるって……何なのよ……」


 ふじはそう言い残すと、ほうきを持って館の奥へ消えて行った。

 礼次郎は何も言えず、それを見送ることしかできなかった。


 重い空気を纏った一陣の風が吹いた。


 ふじが掃いていた庭の砂を巻き上げる。



 ふと、物音が聞こえた。

 その方向を振り返ると、武装した兵を引き連れた少し太った中年の男がいた。帰ろうとしていた徳川家康である。


「礼次郎様!」


 その家康に土産を渡していた谷内伊兵衛が礼次郎に気付いて声をかける。


「こちらが徳川様です」


「お……」


 礼次郎は駆け寄って行くと跪き、


「城戸宗龍が嫡子、城戸礼次郎頼龍でござる」


 と名乗った。

 そして顔を上げた。


「これはご丁寧に恐れ入る。某は徳川次郎三郎家康と申す」


 家康もまた丁寧な挨拶であった。


 ――これが徳川家康か


 礼次郎はまじまじとその顔を見た。

 肉付きの良いその顔にはどっしりとした荘重な風格がある。

 そして大きな目は人々に親しみやすさを感じさせるであろうが、その瞳の奥には何か不気味な底知れぬ物が見え隠れしているような気がした。


「某の顔が何か?」


 家康はふっと笑って言う。


 礼次郎は我に返った。それほど礼次郎は家康の顔を凝視していた。


「大変ご無礼つかまつりました、お許しください」


 慌てて詫びると、家康は、


「はっはっはっ、構いませぬ。ところで礼次郎殿は何故上半身裸なのか? いくら夏が終わったばかりとは言え少々寒いであろう」


 礼次郎ははっと気が付いた。

 そう言えばずっと着物を着ていないままであった。


「えーっと、その……」


 まさか徳川の陣を偵察に行ったとは家康本人の前では口が裂けても言えない。


「剣術の稽古をしておりました」


 咄嗟に出まかせが出た。

 しかしある意味間違ってはいないかも、と礼次郎は内心苦笑する。


「ほーっ、剣術の。良い心がけですな」

「はい」

「そう言えば上州にはあの名高い上泉伊勢守殿がおられましたな。新陰流でも学んでおられるかな?」

「いえ」

「特に流派は無いと?」

「いや、幼少の頃に真円流剣術を少々」


「真円流?」

 家康の大きな目が丸くなる。


「聞いたことないのう?知っておるか?」


 家康は伴の者に聞いたが、誰も知らなかった。


「あまり使う者は少ないゆえ……」

「そうか、やはりこの上州の地は面白いものがあるのう。ではいずれ機会があればお見せいただきたい」

「はっ」

「見れば細身ではあるが良い筋肉がついておるし、良き面構えをしておる、将来が楽しみな若者じゃ、宗龍殿も将来安心でござろう」

「ありがたきお言葉」

「邪魔をした。では参ろう」


 家康は門を抜け、出て行った。

 去り際、家康がちらっと意味ありげに谷内伊兵衛の顔を見た。


 家康が去った後、礼次郎は溜息をついて呟いた。


「なるほどな。確かに当代一流の大人物だ」

「ええ、素晴らしいお方だと思います」


 伊兵衛が声を弾ませた。


「何だ、随分徳川殿にほれ込んだようだな」


 礼次郎は笑って伊兵衛を揶揄する。


「え? ああ……ああいう天下に名の知れた方を初めて見ましたので」

「ははっ、そうか、流行ものが好きな伊兵衛らしいな。父上は?」

「まだ広間にいると思われますが」

「そうか」


 礼次郎は縁側に上がり大声で叫んだ。


「茂吉! いるか? オレの小袖と水を持って来てくれ!」


 茂吉は小袖と水を持ってすっ飛んで来た。


「すまない。それと茂吉、中岩川の橋直すよう手配してくれ」

「はい、殿にも言われております」

「頼むぞ、危うく捕まるところだったんだ」

「は?」

「いや、何でもない」


 礼次郎は小袖を着ると、茂吉が差し出した水をぐいっと一杯飲み干し、広間へ向かった。



「父上!」


 広間では宗龍が順八と何か話し込んでいた。


「何だ、騒々しい」


 宗龍が顔をしかめてたしなめて、


「礼次、朝からどこへ行っていた?」

「まあちょっと、野駆けですよ。ところで先程徳川家康殿に会いましたが」

「うむ、ついさっきまでここで話していたところだ」

「やはり天哮丸ですか?」

「そうだ、家康め、そんなに天哮丸が欲しいのか、十万石と言うとんでもない条件まで出して来たぞ」


 その言葉に礼次郎は驚いて目を丸くし、


「それは凄い……して、父上は?」

「まさか、そんなものに乗るわしではない。そんなことをすればご先祖様の罰が当たるわ」

「そうですか、良かった」

「そうだ礼次、ちょっとこっちへ来い」


 宗龍が手招いた。


「何でしょう?」


 礼次郎が宗龍の前に座ると、


「実はな、おふじの婚儀が決まった」


 神妙な顔で言う。

 宗龍の前隣にいる順八はにこやかな顔であった。


「そうですか」


 礼次郎は真顔になる。


「相手は北条家のご家臣で松田様と言う」

「はい」

「そこでだ。かねてから言っていたが、お前もそろそろどうだ?」


 礼次郎の眉がピクッと動いた。


「私の……縁談でございますか? 例の真田家の」


「そう、以前から言っていた上田の真田家のところの娘さんだ。真田家の人間ではないが、由緒正しき家柄の娘さんらしい」

「お断りしたはずですが」

「あの時はお前も今よりずっと子供だった。また考えてみてもいいのではないか? 相手の顔を見たこともないだろう? 大層美しい娘さんらしい。真田殿も乗り気だ」

「しかしやはりまだ早いかと思うのですが」

「そんなことはない、"凜乃りの"は十五で嫁いでおる」

「姉上は女、私は男です、わけが違います」

「大して変わらんだろう」

「ですが……」


 礼次郎は口を濁らせる。


「何だ? 誰ぞ好いた女子でもいるか?」

「いえ……」

「まあ良い、今すぐとは言わん。だがちょっと顔だけでも見て来たらどうだ?」

「どういうことでしょうか?」

「ちょうど、わしの名代として上田の真田殿に使いに行ってもらいたいと思っておった。ついでにその娘さんの顔でも見て来い。顔見たら気が変わるかもしれん」

「……」


 礼次郎は何か思案しているような顔になった。


「決まりだ、ここに真田安房守(昌幸)殿への手紙をしたためてある、これを届け、挨拶でもして来てもらいたい。家臣の者が行くより嫡男のお前が行く方が印象も良かろう。できれば急いでもらいたいのだが、今日にでも出発できるか?」


 礼次郎は姿勢を正した。


「わかりました、ではすぐにでも出発します」

「うむ、頼むぞ」


 宗龍の顔が綻んだ。


 小さな領地しか持たない城戸家は、周辺の諸勢力にまめに使者を出し、友好関係を保っていた。

 ふじの北条家家臣との縁談、そして今回再び持ち上がった礼次郎の真田家中の娘との縁談も、そんな城戸家の外交戦略の一つである。

 しかし、頭ではその大切さが理解できていても、礼次郎の心はざわついたままであった。


「順八」

「はっ」

「順五郎を連れて行っても良いか?」

「もちろんです、お供させましょう」

「すまない」


 礼次郎は立ち上がり、広間を出た。


 そして先程までふじといた庭に再び下りた。

 天を見上げた。

 先月よりも少し空が高くなっている。


 初秋の爽やかな風が礼次郎の髪を撫でた。


 礼次郎は歩き出し、井戸の方へ向かった。

 そして井戸の前でしばし佇んでいると、ふじが水を汲みにやって来た。


「礼次……どうしたの?」


 気付いて声をかけるふじの目が少し赤かった。


「ふじ」

「なぁに?」


 礼次郎は真っ直ぐにふじの目を見つめて言った。


「嫁には行くな」


「え?」

 ふじの胸の鼓動が速くなった。


「嫁に行くな」

「何言ってるの? もう決まってるのに」

「今から上田の真田家に使いに行く。帰って来たら父上に言うつもりだ」

「ええっ……?」

「帰って来たらふじに話したい事がある」


 そう言った礼次郎の頬には少し赤い色が差していた。だが、その双眸には迷いの色は無い。


「話したい事……? って?」


 ふじは胸の鼓動がおさまらない。


「上田から帰って来たら話す。」

「今じゃだめなの?」

「うん、帰って来てからじゃないと駄目だ」

「そう……わかった……けど……」

「じゃあな、今すぐ出発しないといけないから」


 気忙しく礼次郎が背を返して行こうとすると、


「あ、待って礼次」

「うん?」

「道中気をつけてね」


 ふじがいつもの笑顔でにこっと笑った。


「ありがとう」


 礼次郎も微笑んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る