第2話 幼馴染の想い

 上野国城戸のさと


 ここは城戸礼次郎の城戸家が治める小さな地域である。


 礼次郎は城戸家現当主城戸宗龍の嫡男で、次期当主であった。


 城戸家は源頼朝の異母弟、源義円を祖とする正統な河内源氏の名門家系で、源頼朝よりある責務を任されて以来ここ城戸の地に所領を構え、代々、鎌倉室町の両政権から大切にされて来た一族である。


 その為、応仁の乱以後の戦乱の最中にあっても関東管領上杉家を始めとする周辺の大小諸勢力からは敬われ、また城戸家も小さな領土のみでそれ以上の拡大の野心を持たずに来たことからずっと自立を保っていた。


 強いて言えばここ数年は関東を基盤とする北条氏との友好関係を深めていたのだが、それも織田信長が本能寺に倒れ、後に天正壬午の乱と呼ばれる信州上州の空白地域を巡っての争いが勃発するや怪しいものとなっていた。



 礼次郎と順五郎は辛くも城戸領に帰り着いた。

 だが上半身裸と言う姿は城戸の人々を驚かせた。


「若殿と順五郎殿じゃ、何で裸なんじゃ」


 若い女などは恥ずかしがって目を背けたりした。


「汗かいとる」

「一体何があったんだ?」


 人々は好奇の目を向けてくるが、礼次郎は笑って気にせず館まで帰った。



 城戸には城と言える城が無い。


 しかし城戸の町の中心である城戸家が居住する館には周囲を囲む深い水堀、狭間を備えた高い塁壁と堅牢な門、沢山の付櫓などの防衛施設が揃っている。

 礼次郎は門を抜けて中に入った。


「礼次! 兄上!? 二人とも何で上着てないの?」


 礼次郎の幼馴染にして順五郎の妹であるふじが驚いて口に手を当てた。

 ふじはほうきを持っている、どうやら庭の掃除をしていたようだ。


「散々だったぜ、若が徳川の陣を見に行くって言ったせいでよ」

「ええっ?そんなことしてたの?」


 ふじが更に呆れたように驚くと、礼次郎は笑いながら馬から飛び降りて、


「そうしたら護衛に見つかってしまい、追われて逃げたんだけど橋が壊れててさ。着物を脱いで川に飛び込んだように見せかけて近くに隠れたんだ。だけど奴らは着物を持って行っちまったんだ」

「まあ、すごいことになってたのねぇ。でも捕まらなくて良かったわね」


 ふじが安堵して柔らかい笑顔を見せた。


 彼女は兄の順五郎と違い、穏やかで優しい性格の美しい娘であった。

 幼い頃から共に遊び、学び、成長して来た礼次郎だったが、最近はふじのこの笑顔を見ると何だか照れくささを感じるようになって来ていた。

 礼次郎は思わず目線を逸らした。


「兄上、吉之助が探していましたよ」

「おう、そうか、槍の稽古をつけてやる約束だったな」


 順五郎が吉之助を探しに行った。


「汗ふく?」


 ふじが手ぬぐいを差しだして来た。


「ああ、ありがとう」


 礼次郎は受け取り、身体の汗を拭った。

 季節は初秋である、乾きは早い。


「うん?」

 礼次郎の勘は鋭い。


 ふと、館に緊張感のようなものが満ちているのを感じ取った。


「昨日に続いて今日も徳川の使いが来ているようだが、何か違う感じがするな」

「そうよ、なんと徳川家康殿本人だとか」

「何っ?」


 礼次郎は驚愕に目を見張った。


「徳川家康本人が? 今回は家康本人も来ていたのか」


 ――道理であんなに物々しい兵達を連れて来てるわけだ。


「いつ頃来た?」

「そんなに経ってないわ、ついさっき」

「そうか」


 礼次郎は館の主殿がある方向を見つめた。


 そんな礼次郎に、ふじが言葉を続けた。


「ねえ、礼次……」

「うん?」


 礼次郎が振り返る。


「あのね……その……」

「何?」

「礼次はお嫁さんをもらわないの?」


 ふじは少し顔を赤らめていた。


「は? 何だよ、突然?」


 礼次郎の心が少し乱れた。


「別に……もう妻を娶ってもいい年齢じゃない?」


 ふじが目線を落とし、ほうきを走らせながら言う。


「オレまだ十七だよ」

「そんなに早くはないと思うけど。」


 ふじの横顔を陽の光が照らし、白いを肌をより白く見せた。


 礼次郎は無言で縁側に座り込んだ。

 じっとふじの横顔を見つめた。

 最近時々思うことがある。


 ――いつまでもこの横顔を見ていたい……。


 だが、礼次郎の口から自然と言葉が零れ落ちた。


「オレはまだ何も成し遂げていない」


 ふじが振り返り、怪訝そうに礼次郎を見た。


「どういうこと?」

「何も成し遂げていない男が嫁などもらえるか」

「何って……何? 何を成し遂げたらいいの?」


 礼次郎は虚空の一点を見つめ考え込んだ。


「わからん……だけど、何か成し遂げたいんだ。今のオレはただの城戸家次期当主ってだけだ。剣術の稽古はしているし、兵法も学んだ、だけどそんなものは皆やっている。そうじゃないんだ。一人の男として何か成し遂げたらその時は……その時は嫁を娶る」


 ふじは不思議そうに礼次郎の顔を見つめた。


「変なの」


 礼次郎は苦笑した。


「だろうね。オレ自身でもこの考えはよくまとまってないんだ」

「そう……」


 ふじは少し寂しげに微笑んだ。


 そしてまたほうきを動かすと、


「私はお嫁に行くことになったよ」


「え……?」


 まるで時が止まったかのように感じた。



 城戸の館の板張りの大広間、二人の男が向きあって座っていた。


「して城戸殿、返答は如何か?」


 最近少し恰幅が良くなって来たような体型には大物の風格が出始めていた。


 徳川家康である。


 もう秋の声が聞こえ始めていると言うのに暑く感じるのか、家康は扇子で扇いでいる。

 家康の背後には伴の者が二人控えていた。


「一昨日、昨日と倉本殿に来ていただき、今日に至っては徳川殿ご本人に出向いていただいたにも関わらず大変恐縮ですが……」


 上座に坐る礼次郎の父、城戸宗龍がよく通る声で言う。


「変わらぬと?」

「さよう」


 それを聞き、家康は扇いでいた扇子をパチリと閉じた。


「それほどまでに家系図と天哮丸は大事でござるか? この乱世、家柄など重要ではありますまい」


「徳川殿」


 宗龍は静かに言う。


「確かに今の世に家柄、家系など何の役にも立ちませぬ、しかしだからと言ってそれを金、領土の為に売って力に変えることは正しいのでしょうか? 家系図を売ると言うのはこれまで先祖より自分に脈々と受け継がれて来た血を売ると言うことになります、先祖を売るのです、果たしてそれが人として正しいと言えるでござろうか?」


 諭すような言い方であった。


 広い主殿にさーっと風が抜けた。


「むぅ」


 家康は再び扇子を開き、扇ぎ始めた。


「では、この城戸の地に代々伝わると言う天哮丸はどうじゃ?」


 宗龍はじっと家康の目を見据え、


「天哮丸は尚の事お渡しするわけには参りませぬ、あれは我が家の家宝と言うよりも我が一族がその守護を託された河内源氏の宝剣、いくら銭を積まれようとそれを渡すなど言語道断」


 はっきりと言い切った。


「そうか、銭では譲らぬと……では十万石でどうじゃ? 信濃の地に十万石の領地を与えよう」


 この言葉に、家康の背後に控えていた伴の者はぎょっとした。

 宗龍の側に控えていた二人の家臣も目を丸くした。

 十万石と言えばかなりの大名格である。


「お戯れを」

「戯れなどではない、本気で言っておる」


 家康の眼差しは真剣そのものだ。


「家康殿、先ほどと同じでござる。金や領土の問題ではござらんのです。天哮丸も先祖代々受け継がれ、この宗龍に至るまで守り続けて来たもの、これを売るわけには参りませぬ」


「しかし、守り続けるだけで何の役に立つであろうか? 今この乱れに乱れきった世を見られい。今必要なのは乱世を鎮め、この日の本を一つにする大きな力。天下を統べる力を得られると言う源氏の宝剣、今こそ天下万民の平和の為にその力を使うべきではなかろうか?」


「門外不出の秘剣天哮丸、それどころか我らが一族の存在すら天下にはほとんど知られていないと言うのに、かなりお詳しい様子でござるな」


「我が配下の忍びの者は天下一だと思っておる」


 家康は得意気に言った。


「なるほど、噂通りですな。だが、確かに天哮丸はそれを握れば天下を統べることのできる力を得ると言い伝えられております。しかしまた同時に、天哮丸はそのあまりに強い力の為に、相応しくない者が使う、あるいは間違った使い方をすればその者自身をも滅ぼしてしまう上に天下に大乱を招くとも伝えられております」


 宗龍は静かに、そして力強く言葉を続ける。


「それ故、治承・寿永年間の戦乱(いわゆる源平合戦)が終結し、源義経公が処刑された後、その力の恐ろしさが身にしみてわかった源頼朝公は、ご兄弟である我らが先祖に天哮丸を託し、門外不出の秘剣として代々密かに守らせて来たのです」


「ううむ……使い方を間違えたが故であろう。わしならば必ず正しく使ってみせる」


「どうでしょう、徳川殿は天下に野心があるご様子、天下に向けて天哮丸の力を使えばその力は必ず自身に返ってきますぞ」


「……」


「私が思いますに、織田信長公亡き後、羽柴殿と徳川殿こそが天下を治め得る器を持った英傑だと考えております。天哮丸を握らずとも天下を握ることはできるでしょう」


「うむ……」


 宗龍が言ったのは戦乱の世を生きる武将にとっては最高の誉め言葉と受け取ることもできる。

 家康の顔には少々まんざらでもなさそうな色が浮かんでいた。


「しかし、わしは少々急いでおるのだ」


 家康が難しい表情を浮かべた。


 近年、徳川家康と、畿内を押さえる羽柴秀吉との対立は落ち着いている。しかし友好関係があるわけではなく、戦略的にも立場的にも徐々に羽柴秀吉に押されて来ていた。(ちなみにこれより数日後、秀吉は朝廷より豊臣姓を賜る)

 その焦りが家康を天哮丸に向かわせたのだった。


 宗龍は軽く頭を下げ、


「申し訳ございませぬ、他の事ならご相談には乗りますが、家系図と天哮丸だけはご勘弁くだされ」

「これほど頼んでも駄目か」

「はい、お引き取り願いたい」


 家康は宗龍の双眸をじっと見つめた。


 正統な河内源氏の血を引く者としての誇り、天哮丸を守り続けて来た者の自負がそこにはあった。


 家康は扇子を閉じ、すっと立ち上がった。


「あいわかった、これ以上は無理であろうな」


 家康は微笑んだ。しかしその瞳の奥は笑っていないように見えた。


「ありがとうございまする」

「すまぬ、邪魔をいたした。ではこれにて失礼いたす」


 家康は伴の者と庭先に控えていた護衛に合図をして引き上げて行った。

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