第209話 野栗原の戦い

 千蔵が城戸軍に戻って三日目、城戸からゆりがやって来た。


 弾薬の補充と馬上筒の点検の為である。城戸家の中で、鉄砲や弾薬に関する知識は、元々自分でも火薬を弄ったり鉄砲を作ったりしていたゆりが最も詳しい。

現在、城戸家の火器の製造と管理には、彼女も加わっている。しかも、伊達政宗から贈られた馬上筒は、最新兵器である為に、鉄砲に精通している彼女にしか詳しいところがわからない。

そこで、想定される徳川風魔連合軍との戦を前に、彼女自身が物資運搬と陣中見舞も兼ねてやって来たのである。


 ゆりは、男装であった。甲冑まで身に着けている。

 諸山城に入ると、従者らにてきぱきと指示を与え、軍需物資や兵糧を運び込ませた。

 それが一通り済み、城中の皆と言葉を交わしたりして落ち着くと、ゆりは甲冑を解いて淡紅色の着流し姿となり、喜多と共に礼次郎が居間として使っている座敷の部屋に現れた。


「すまなかったな。わざわざ来てもらって」


 礼次郎は、ゆりの足労をねぎらい、運ばせて来た茶と果物をすすめた。

 ゆりは、湯気を上らせている茶碗を手に取って、近頃めっきり大人びて来た微笑を見せた。


「構いませんよ。ただ物資を運んで来ただけです」

「だけど、この後には鉄砲も見てもらわないと」

「それは私にしかできないことですから。それに、鉄砲や火薬を弄るのは好きですから、何の苦にもなりません。私は元々爆薬を作って蔵を破壊した女ですよ」


 ゆりは、悪戯っぽい笑みをした。


「そうだな。じゃあ、何の気も遣わないぞ。ちょっと休んだら早速頼む。いつ戦が始まってもおかしくないからな」


 礼次郎は笑いながら言った。


「はい」


 と、ゆりは答えると、


「でも……その前に……」


 と言って、ちょっと気恥ずかしそうな表情をした後、わざとらしく小さな咳払いをした。

 すると、すぐに後ろに控えていた喜多が、苦笑を浮かべながら立ち上がった。


「私は仕事がございますので」


 喜多は言うと、そそくさと部屋を出て行った。

 その足音が廊下の奥へと遠ざかって行くと、ゆりは嬉しそうに目を輝かせて礼次郎を見た。

 そして、膝でにじり寄って礼次郎の隣に移動すると、礼次郎に抱きついた。


「おい」


 突然のことに、礼次郎は思わず少しのけぞった。

 それを引き戻すように、ゆりは両手で礼次郎の身体を抱きしめた。


「昼間だぞ」


 礼次郎は小声で言った。


「もう何日離れてたの? 十日以上よ? 私は昼も夜もなく寂しかったんだから」


 ゆりは、途端に以前のような口調と表情に戻った。甘えた声を礼次郎の耳元に囁いた。


「戦の前だ」


 と言った礼次郎の口を、ゆりは自身の口で塞いだ。


「何もしないよ。くっついていたいだけだから」


 ゆりはそのまま、身体を礼次郎に絡ませた。



 そして、それから二日後、ついに野栗原一帯にいた徳川軍と風魔軍が動いた。


 連合した両軍は、詳細を打ち合わせた後、連携して城戸領最前線の北山砦に攻め入る気配を見せたのである。


 対して礼次郎は、諸山城とその周辺拠点にいる全軍に陣触れを出し、野栗原への出陣を命じた。

 最前線の北山砦は、籠って大軍を迎え撃つには向かず、容易に落とされてしまうであろう。かと言って、北山砦を放棄して諸山城に籠城するのもまた危うい。諸山城もまた大軍を邀撃するには向かず、また、現城戸領南方の重要拠点であり、ここを落とされれば城戸家全体が危うくなるからである。

 それに、礼次郎と龍之丞は、野栗原で徳川風魔連合軍を迎え撃つことを想定して、毎日謀議を重ね、必勝の作戦を練り上げていた。


 この時、城戸軍は、総兵力約三千三百人に膨れ上がっていた。

 その全軍で野栗原に進出し、北西にある高台に陣を構えた。


 それを見た徳川家康はにやりと笑った。


「ほう、籠城はせず、野戦に出るつもりか。この兵力差で健気なことよ」


 そして家康は、風魔玄介がいる小倉山の砦に使者を走らせ、出陣することを伝えた。


 その風魔玄介もまた、小倉山の砦の物見櫓から、城戸軍が進出して来て陣を張ったのを直接見ていた。


「ふむ、これだけの差がありながら、この野栗原で決戦に及ぼうとはな」


 玄介は笑わなかった。油断のない険しい表情で城戸軍の陣を見つめた。


「あえて出て来ると言う事は何らかの策があるだろう。警戒せねばならんな」


 そこへ使番が走って来て、徳川の陣から使者が来たことを報告した。


「出陣か。よし、奴らが何かを企んでいるにしても、まあ、まず負けることはないだろう。我らは程々に戦い、徳川の連中に身体を張ってもらうこととしようか」


 玄介は、青白い顔にいつもの薄笑いを浮かべた。


 今は、城戸家と言う共通の邪魔者の為に、一時的に徳川軍と手を結んでいるが、城戸軍を討ち滅ぼしたら、その後は徳川軍とは手切れになって再び激しく争う間柄になる。

 玄介はその時の事を考慮し、できるだけ自軍の兵力を温存しておこうと考えていた。そこで、城戸軍の奇襲を警戒するとの名目で五百の兵を七天山へ戻し、また二百の兵を小倉山砦に予備兵として置いておき、残りの約二千三百人で下山し、野栗原に進出した。


 そして徳川軍も本陣から出撃し、一時的に手を結んだ両軍は、野栗原の南方に連携して陣形を展開した。



「殿、徳川と風魔が動き始めましたぞ。我らも急ぎ動きましょう」


 龍之丞が、陣幕を払って城戸軍の本陣に入って来た。


「来たか」


 礼次郎は頷き、更に訊いた。


「奴らの布陣は?」

「後ほど見てもらえばわかりますが、ほぼ私の予想通りかと」


 龍之丞はにやりとした。


「よし」


 礼次郎は、表情を引き締めて左右を見回した。

 大鳥順五郎、軍司壮之介、美濃島咲、笹川千蔵、早見喜多、そして真田家から援軍として遣わされて来ている真田信繁らが、それぞれ甲冑に身を固めて床几に座っている。その列に、宇佐美龍之丞が加わって座ったのを見ると、礼次郎は大きく深呼吸を一つし、静かに、力強く言った。


「我らは三千三百、敵は徳川と風魔の合計約七千だ。だが、恐れることはない。奴らは手を組んだとは言え、昨日までは敵同士で激しく争っていた間だ。手は組んでも、心はばらばらだ。こう言う軍は、わずかな綻びができれば、あっと言う間に脆く崩れる。そして、奴らは我らの二倍以上と言う兵力に安心しきっているだろう。そこに、必ず隙が生じる。我らは、その隙をつく」


 おう、と、全員が応えて礼次郎を見た。

 龍之丞が、毘と龍の軍配を叩いて言った。


「殿の申される通りでござる。一つも恐れるところはござらん。私はむしろ、我らに大きな勝機があると見ております。すでに皆様方に伝えた作戦の通りに戦えば、必ず勝てまする」


 礼次郎が、再び皆の顔を見回した。


「いいか、もう一度言う。正義は我らにあり、不義非道は奴らにある。天、いや、天哮丸も見ているだろう。勝つのは我ら城戸家だ!」


 炎のように熱く言い放った。

 それに応え、一同が吼えるように気焔を上げた。


 皆が、作戦通りに布陣するべく、本陣を出て行った。

 礼次郎は、一番最後に出た。


 本陣は高台にある。本陣を出ると、眼下の一面濃い緑野の向こうに、雲霞の如き夥しい軍兵の群れが、軍旗をはためかせながらしきりに動いているのが見えた。

 礼次郎はそれをじっと見ると、天を見上げた。今日は風が強かった。晴れているが、雲が足早に流れている。


 礼次郎の脳裏に、父の宗龍、幼馴染のふじ、その父で家老であった順八、その他、あの日散って行った沢山の城戸の人間たちの顔が、次々と浮かんで行った。

 顔を下ろした時、礼次郎の表情が一変していた。引き締めた表情には、程よい緊張感を湛えた覇気が満ちていた。

 腰には、普段野戦の時に使っている太刀と、武想郷で如月斎から貰った覇天の剣の二本を提げている。桜霞長光は、先日の風魔小太郎との斬り合いで損傷を多く受けてしまったので、刀鍛冶に預けていた。礼次郎は、覇天の剣の赤い柄を左手で握り締めながら、力強く足元の雑草を踏み始めた。




 徳川風魔連合軍は、中央と右翼に徳川軍がついた。右翼は一千七百人で縦二段にし、中央の二千八百人は更に厚くして三段に備え、旗本らで固める徳川家康の本隊はその最奥の第三陣である。そして左翼は風魔幻狼衆の軍約二千三百人で、やはり同じく縦二段に備えた。


 対して城戸軍は、右翼に壮之介と千蔵の部隊各五百ずつの合計一千人、左翼に順五郎と真田信繁の部隊各五百ずつの合計一千人がつき、中央には龍之丞と礼次郎の歩兵と騎兵の混成部隊一千人を配した。美濃島咲は美濃島騎馬隊約三百人を率いて後方の雑木林の中に潜んだ。


 季節はすでに六月である。時折吹きつけて来る上州特有の強い風には夏の匂いが混じり、気温は高めで、甲冑を着込んでいるとじんわりと汗ばむ。だが、それが両軍の熱と殺気の為か、空気はひりつくように乾いていた。

 足元の雑草が風に揺れ、天は雲が消え去り、無窮の蒼さを広げていた。


 そして――


「進軍!」


 どちらからともなく大声が響き、開戦を告げる合図の貝が吹き鳴らされた。

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