第208話 血と絆

 小太郎は無言で千蔵を見下ろしていたのだが、にやりと牙のような歯を剥き出して不気味に笑った。

 それを見ると、千蔵は一瞬、悲しそうな色を浮かべた後、


「ご主君」


 と、礼次郎の方を向いた。そして、両手をついて地に額を擦りつけた。


「も、申し訳……ござりませぬ。ここで……お別れでござります」

「千蔵、馬鹿なことはやめろ。何を考えているんだ」


 礼次郎は狼狽し、声がわずかに震えていた。

 千蔵は顔を伏せたまま、言葉を続けた。


「と、殿をお救いする為には……こうするしか……。ご主君、それがしは幸せでございました……源三郎様……も素晴らしい主君でありましたが……礼次郎様に出会えたことは……生を受けて以来……最も幸せなことでした」


 先程は、声を出すのがやっとと言った具合であったが、声を出し続けて喋りが幾分か滑らかになったようであった。


「おい……」

「たかが一人の草の者であるそれがしに……無口で偏屈と言われたこのような男の為に……と、殿は何の分け隔てもなく……殿は共に鍋を囲み……寝る部屋まで共にしてくださいました……家臣と言うより仲間と思うてくださり……常に気遣ってくださりました……そして……今また……殿はそれがしを救うべく、自ら決死の覚悟で来てくださいました……このような主君、他にどこにおりましょうや……そ、それがしは……まだ物心もつかぬうちに……両親を実の伯父、ふ、風魔玄介に殺され……その玄介は殿の敵で……先程までは……実の祖父に殺されようとしておりました……か、家族と言う物など無いどころか……それは呪いのようでありました……それがしは、人の愛や情などと言うものとは無縁の人生と思うておりました……しかし……城戸家の皆と……と、殿は……それがしにとって家族以上の存在だったのです……。これほどの幸せは……ございませぬ」


 そこまで言うと、千蔵は言葉に詰まり、肩を震わせた。

 嗚咽のようなものが漏れた。その後、千蔵は無残に痩せこけた顔を上げた。


「城戸家にいられたこと……殿にお仕えできたことは……それがしの宝でございます」

「千蔵……よせ……」


 礼次郎は呆然としていた。


「ありがとうございました」


 千蔵は、再び地に額を擦りつけた。


 その様子を、小太郎はいつの間にか薄笑いを浮かべながら見下ろしていた。

 その小太郎へ向かって、喜多が言った。


「風魔小太郎どの。子や孫は己の所有物ではない。そして自分と同じだと思わぬことだ。それぞれの心があるのだ。そして、貴殿が我が殿の十分の一ほどの心でも持っておれば、子息玄介どのは貴殿に逆らい、天哮丸を持って自立しようなどとは思わなかったであろうな」


 小太郎は、じろりと喜多を見た。そして、再び千蔵を見下ろし、また視線を移して礼次郎を睨むと、酷薄な薄笑いを浮かべて、雷のような声を轟かせた。


「たわけ共が! 風魔小太郎が何故風魔小太郎であるかわかっておらぬか。千蔵よ、城戸礼次郎よ、勘違いするでないぞ。今の戯言で、ますます許すわけには行かなくなったわ。千蔵、貴様がここで我が風魔党に入ったとしても、そこまで礼次郎に惚れこんだ貴様はいずれ必ず我らや北条家を裏切るであろう。貴様の母の鶴や、玄介と同じようにな」

「……!」


 千蔵の土気色の顔が、愕然とした。

 その後、何か小さく呻くと、気を失って倒れ込んだ。


「千蔵、貴様も城戸礼次郎も、その配下どもも、ここで皆殺しにしてくれる。風魔小太郎を愚弄した罪を思い知るがよいわ」


 小太郎はそう言って底冷えのするような冷たい笑いを夜空に響かせると、剛刀を握ったまま礼次郎に向かって歩いて行った。


「まずは貴様を先に殺してくれよう。貴様をまず殺せば城戸家は存在理由がなくなり、自然と崩壊するであろう」


 礼次郎は唇を引き結び、桜霞長光を正眼から八相の構えに移した。

 その手が小刻みに震えていた。しかし、それは風魔小太郎への恐怖からではなかった。怒りからである。先程抱いていた小太郎の圧倒的な力への恐れは、今や小太郎への怒りに消えていた。全身が滾るような怒りに燃え始めていた。


 その時、遠くから喚声が聞こえ始めて来た。かと思うと、あっと言う間に大きくなり、その場に一団が雪崩れ込んで来た。


「殿を御守りせよ!」


 太い槍を握りながら先頭を駆けて来たのは壮之介であった。壮之介らは、外での戦闘でついに風魔衆を駆逐し、こちらに駆けつけて来たのであった。

 小太郎が額に青筋を立てた。


「小賢しい雑魚どもが! まとめてやってくれようぞ!」


 空気が震えるような怒声が響いた。

 だがそこに一瞬の隙が出来たのを、一流の草の者である喜多は見逃さなかった。喜多は飛鳥の如く千蔵の前に飛び、千蔵を抱えるやまた跳躍し、近くの材木小屋の屋根に飛び上がった。そしてまた屋根から屋根を飛び、あっと言う間に壮之介の一団の中に紛れた。

 それを見た礼次郎、咄嗟に壮之介に向かって叫んだ。


「壮之介、ここはもういい! しんがりを頼む! 皆、退け、退却だ!」


 壮之介は、薄闇の中に礼次郎や喜多の姿を見て、また魔神の如く立つ風魔小太郎の禍々しい姿を見て、今どういう状況にあるのかをすぐに悟った。

 全軍に退却を命じ、自身は槍を構えてしんがりに立った。


「殿も先へ! 皆を連れて行ってくだされ。ここはそれがしが引き受けまする」


 壮之介が叫んだ。「頼むぞ、気をつけろよ」と、礼次郎はそれに従い、小太郎に注意しながら走って兵士らに混じると、その先頭に立って門を目指して走り始めた。喜多も千蔵を抱えてその中に混じった。


「雑魚どもが、一人足りとも逃がさんぞ!」


 小太郎は赤い眦を吊り上げて叫ぶや、黒い風となって駆けた。だが、その前に壮之介が立ちはだかり、行く手を遮るように槍を振った。


「貴様が風魔小太郎か。我は軍司壮之介、いざ勝負!」

「面白い。生臭坊主、なぶり殺しにしてくれん!」


 小太郎が牙を剥き出しにし、剛刀を上段から叩きつけた。

 壮之介は猛獣のような気合いを放ちながら豪槍を振り上げると、小太郎の斬撃が大きく跳ね上がった。小太郎はさっと飛び下がった。その顔に驚愕の色が浮いた。


「我の剣を跳ね返した者などこれまでいない……ほう、少しはやるようだな」


 小太郎は壮之介を見て笑った。

 壮之介は不敵に笑うと、


「まだまだこんなものではない」

「ふむ。城戸礼次郎のようなひょろひょろよりは遥かに上のようだな。これは侮れんか」


 小太郎は嘲るように笑った。


「何を戯言を。我が殿はそれがしよりもお強いお方ぞ」

「何?」

「確かに腕力や身のこなしで言えばそれがしの方が上であろう。しかし、我が殿にはそれだけでは測れぬ強さがあるのだ」

「面白くもつまらないことを言う。ではその強さとやらを教えてもらいたいものだ」

「元々強く生まれた貴殿にはわかるまい」


 壮之介は言うや、土を蹴って鋭く槍を突いた。

 小太郎と壮之介、世に冠絶するであろう剛力を誇る猛者二人の激しい戦いが繰り広げられた。

 重い金属を叩きつける凄まじい刃音が渦を巻き、銀光が煌めく度に火花が弾けた。そして何合もそれを繰り返した後、二人は左右にぱっと分かれた。


 壮之介と小太郎、両者は武器を構えたまま睨み合った。


 常人であれば睨まれるだけで押し潰されてしまいそうな殺気が、薄闇の中にぶつかり合う。

 小太郎は、視線を左右に動かし、あちこちに転がっている風魔忍びの死骸を見た後、再び壮之介を睨んで言った。


「奴ら、逃げおったか」

「…………」

「やるではないか。我ら風魔党の者を相手にして。城戸軍は侮れんな」

「ふん」


 壮之介は鼻で笑うと、小太郎から視線を離さぬまま、じりじりと間合いを詰めて行く。

 だが、小太郎は牽制するように大刀を真横に一振りしてから、


「いずれ、戦場で決着をつけよう」


 と、薄笑いを浮かべた。


「何?」


 突然の言葉に壮之介が驚く間に、小太郎はさっと飛び上がって館の屋根の上に降り立ち、また飛んで闇の中へ消え去った。



 白縄山を下りた城戸軍は、休むことなく走って多胡郡を抜け、諸山城に通じる街道に出ると、そこで一旦休息を取った。

 空を覆っていた雲は少なくなり、夜空は晴れて来たが、風があり肌寒かった。


 礼次郎は兵士らに焚火を起こさせ、近くの集落へ人をやって水をもらって来させ、それで湯を沸かして食を取らせた。

 礼次郎たちももちろんだが、兵士らも疲労が激しかった。火に当たって暖を取り、沸かした湯で干し飯を食べ、味噌煮にした干し葱を戻して味噌汁を飲むと、血と泥に塗れて疲れ切った身体に笑顔が戻り始めた。


「千蔵の様子はどうだ?」


 礼次郎は、味噌を塗って焼いた握り飯を、立ったままいち早く食べ終えると、すぐに千蔵の様子を見に行った。

 千蔵は、喜多たち忍び組のところにあり、焚火の側に敷いた布の上に寝かされている。


「まだ目を覚ましません。我らが呼び掛けても全く答えぬのです」


 喜多は、千蔵の顔を見て言った。千蔵は目を閉じたままである。


「息はあるのであろうか?」


 壮之介もやって来て、巨体を縮めるようにして覗き込んだ。


「今は息はございますが、危ない状態かも知れませぬ。元々食を与えられておらず、衰弱しきっていたのですから」


 喜多は心配そうに答えた。

 礼次郎は千蔵の側に膝をつき、千蔵に呼びかけた。


「千蔵」


 だが、千蔵は目を開けなかった。昏々と眠っていた。


「ずっとこの通りなのです。ゆり様がいれば、何か良き手当てができたのでしょうが……」

「そうか」


 礼次郎は、沈痛な顔でそこに座り込んだ。

 喜多は配下の者に、床几を持って来るように命じたが、礼次郎はそれを止めさせた。


「皆疲れている。こんなことで兵を歩かせなくてもいい。それに、千蔵は食事も与えられずに、暗く冷たい地下牢で寝ていたんだ。それに比べれば大したことはない」


 礼次郎は、千蔵の顔を見つめた。

 髭は伸びきっているが、その下の頬は痛々しいほどに肉が落ちている。


「実の祖父にこんな仕打ちをされるなんてな」


 礼次郎は手を伸ばし、千蔵の頬を触った。焚火の熱が当たっているはずなのだが、かさかさに乾いており、冷たかった。


 集まって来ていた者、皆、言葉無く千蔵の顔を見つめた。


「千蔵、聞こえるか。俺だ、礼次郎だ」


 礼次郎は膝を進め、千蔵の顔を両手で触って呼びかけた。


「起きろ千蔵」


 礼次郎は、千蔵の身体を小さく揺すった。


「主君の命令は絶対なんじゃなかったのか? 目を覚ませ、千蔵」


 礼次郎の右目尻から、涙がすっと流れて千蔵の頬に落ちた。

 すると、千蔵がうっすらと両目を開けた。


「お……目を覚ましたか?」


 壮之介が声を上げた。

 礼次郎、喜多、その他の者達の顔が明るくなった。


「千蔵、気が付いたか? わかるか?」


 礼次郎が再び呼びかけると、千蔵は目をしっかりと見開いた。


「と、殿……」


 そして、起き上がろうとした。礼次郎はそれを助けて抱き起してやった。


「気付いたか!」

「殿……皆……」


 千蔵は、自分を覗き込んでいる周囲の顔を見回した。


「おお、目が覚めた!」

「千蔵様が目を覚ましたぞ!」


 壮之介や喜多たちだけでなく、忍びの者や兵士たちの間にも歓喜が広がった。

 千蔵は、礼次郎の顔を見て訊いた。


「殿……お、お怪我などは……?」


 礼次郎はそれを聞くと、泣きそうな顔で笑った。


「馬鹿野郎、自分がそんな状態なのにまず俺の心配か? お前って奴は……」

「ぶ、無事ですか……良かった……」


 千蔵は力のない微笑を見せた。

 喜多が、すぐに配下の者に白湯と粥を持って来させた。千蔵はゆっくりとそれを食べ終えると、ここまでの経緯と、今の状況を訊いた。礼次郎らがそれを説明すると、聞き終えた千蔵は、両手をついて頭を下げた。


「殿……ご心配をおかけいたしました」

「何言ってるんだ。無事で良かった」

「喜多どの、壮之介どの、それに皆、俺の為にすまなかった」


 千蔵は、壮之介、喜多、そして周囲に集まって来ていた忍びの者たちや兵士らの顔を見回して言った。


「何を言うか。水臭い。我らは仲間ではないか」


 壮之介は、つるりとした坊主頭を撫でながら豪快に笑った。

 千蔵は唇を震わせながら微笑すると、礼次郎に向かって言った。


「しかも……殿自ら来て下さるとは……たかが一人の草の者であるそれがしの為に……」

「皆止めたんだけどな。でも俺は関東一のせっかち者だからな。我慢できなかったんだ」


 礼次郎は冗談めかして笑った。

 千蔵は俯いて目を閉じた。


「何とありがたき幸せであることか……それがし、いつ死んでも悔いはございませぬ。いや、それがし、殿に危機のある時には、いつでもこの命を投げ出しますぞ」


 すると、礼次郎は恐い顔をして千蔵を睨んだ。


「おい、助かったばかりで死を口にするな」

「はっ、も、申し訳ござりませぬ」

「主君の為に死ぬ。それは武士として美しい言葉かも知れない。だが、主君の為に死ぬと言うなら、その前にまず主君の為に生きろ。主君の為にどこまで生きて何を成せるかを考えろ」

「はっ……」


 千蔵は再び首を垂れた。

 礼次郎のその言葉に、喜びに沸き立っていた周囲も静まった。その言葉の意味を、皆それぞれ考えているようであった。


「まあ、だが俺は、そんなことの前に、とにかくお前に生きていて欲しいと思った。だからこうして自ら来たんだ」


 礼次郎はふっと笑った。

 千蔵はやつれた顔を上げ、礼次郎を見た。


「よく生きていてくれたな、千蔵」


 礼次郎は言うと、少し前に出て、片膝立ちで千蔵の頭を両腕に抱いた。


「よく……生きていてくれた」


 礼次郎の両目から涙が溢れた。

 千蔵は、頬に礼次郎の熱い涙を受けながら、目を閉じた。


「あ、ありがたき……」


 そこから先は、言葉にならなかった。


 ――俺は一人ではない……。俺は……家族肉親の情に恵まれなくとも、家族以上の仲間がいる。


 千蔵も泣いた。周囲の人間を憚らずに泣いた。人生で初めて、人前で声を上げて泣き、人の愛に泣いた夜だった。

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