第195話 花の消えた跡
午後、礼次郎は、師匠の葛西清雲斎と屋外の稽古場にいた。
修行もいよいよ大詰めである。
ここ数日間、清雲斎は、ついに真円流の奥義とも言える絶技の伝授を開始していた。
その絶技の習得は並大抵の事ではなかった。
それは実に苛烈で過酷を極める修練を必要とし、稽古が終わった時には、礼次郎は疲労のあまりに立てなくなるほどであった。
この時も、師弟は激しい稽古をしていた。
清雲斎は袋竹刀、礼次郎は木剣を持って相対し、真剣ではないのに剣花が飛び散るかのような実戦さながらの激しい打ち合いをしていた。
ゆりの鍼灸治療により、左肩の機能を八割方回復させた清雲斎の動きと太刀筋は、以前の比ではなかった。幻影の如く消えたかと思うと、背後より烈風の如く飛び掛かり、稲妻の如き斬撃を放って来る。天下無双と言う言葉でも言い足りぬような、圧倒的な強さを見せていた。
だが、礼次郎はよくやっていた。そんな、恐らく日ノ本最強の男を相手に、よく躱し、防ぎ、打ち払い、一度も打ち込ませていなかった。
しかし突然、清雲斎は額に青筋を立て、眦を吊り上げたかと思うと、
「貴様、何だそれは!」
と怒鳴り、凄まじい蹴りを繰り出して礼次郎を蹴飛ばした。
礼次郎は砂埃を上げて地に転がったが、腹に響く痛みを堪えながら、慌てて起き上がった。
「お、お師匠様、何を……」
その顔へ、清雲斎が竹刀を投げつけた。
竹刀が礼次郎の額にぶつかり、そこからすーっと血が流れた。
わけがわからない礼次郎に、清雲斎は更に目を吊り上げて怒鳴った。
「集中が足りん。全ての動きが雑だ! 何だそれは? やる気があるのか?」
「雑? いえ、そんなことは……」
「俺は今、半分の力でやっていると言うのに何だそれは?」
「は、半分? 今ので……」
礼次郎は愕然とした。自分の腕に慢心しているわけではないが、清雲斎の攻撃を全て防いでいたことに、密かに満足もしていたのである。だが、それは半分の力だと言う。礼次郎は、頂きの見えぬ高山を前にした気持ちになった。
「てめえ、そんな程度では到底この技は習得できねえぞ。それどころか、今のてめえが風魔玄介と斬り合っても一合目で一刀両断にされるだろうよ」
「そんな……そんなことは……」
「ある」
清雲斎はきっぱりと言い切ると、礼次郎を睨んだ。
「てめえ自身で気付いてないな? てめえ、今日は格段に動きが悪いぞ?」
「動きが?」
「ああ。明らかに昨日より鈍い。そして太刀筋もな。元々弱かっちかったのが、最近じゃかなりマシになったと思っていたが、今日のお前はまるでガキの頃のお前だ」
「そんな……何で……」
「てめえ、まさか……」
清雲斎は、猛虎の如き眼光を向けた。
迸るその凄まじい殺気に、礼次郎は思わず戦慄した。背筋に冷たいものが滲む。
「礼次、女がいなくなって腑抜けちまったんじゃねえだろうな?」
「ゆりのことですか? い、いえ、そんなことはございません」
礼次郎は強く首を振って否定した。
「もしくは……覚悟が無くなったか?」
「覚悟?」
「例え地獄に落ちようとも敵を殺す。その覚悟だ」
「いえ、決してそのようなことは……」
「てめえ……ゆりちゃんを京に行かせたのは、この先、城戸がどうなるかわからないから、ここにいるとどんな危険があるかわからないから、だそうだな?」
「は、はい」
「お前な……そう考えた時点ですでに風魔玄介に負けてるんだよ」
清雲斎は、眼力を一層鋭くした。
「え?」
「お前は、風魔玄介に負けた場合のことを考えてゆりちゃんを京に行かせた。そう思った時点で、もう負けてるんだ。違うか? 負けるかも知れない。そう思い、負けを防ぐ為の策を講じるのは構わねえ。だが、負けた後の対処を考えたら、その時点で逃げ場を作ったことになる。そして、戦いにおいて逃げ場があると、何としてでも勝たねばならぬと言う必勝の気構えが崩れる。退路は無い、目の前の敵を何としてでも斬らねば生き延びられない、何としでも目の前の敵を斬る。勝負に勝つには、何よりもこの気構えが必要なんだ」
「…………」
「今日のお前の太刀筋が鈍いのは、ゆりちゃんを京に行かせたことによって、その気構えが崩れたからじゃねえのか?」
「そんな……」
「まあ、とにかくだ。今日はもうやめだ」
清雲斎が吐き捨てるように言うと、礼次郎は慌てて平伏した。
「申し訳ございません。もう一度、お願いいたします」
「駄目だ。今のてめえじゃ、この俺がいくら稽古をつけてやっても何も吸収できねえ。時間の無駄だ」
清雲斎はそう言い捨てると、さっさと稽古場から立ち去ってしまった。
礼次郎はその背を追いかけることができず、呆然とただ見送った。
その後、俯いて溜息を一つついた。
しばらくそのまま下を向いていたが、やがて立ち上がると、着物についた土や埃を手で払い、とぼとぼと歩き出した。
礼次郎は館内に入ると、とりあえずは汗を流そうと水屋へ向かった。
その途中、廊下で女中のお幸とすれ違った。
お幸は礼次郎を見ると頭を下げた後、
「殿、どちらへ?」
「水屋で汗を流そうと思う。ちょうどいい。後で湯手を持って来てくれないか?」
「承知いたしました」
お幸は笑顔で答えた。
だが、礼次郎はその笑顔が何となく気になった。どこか、暗いのである。
「どうした? 何か元気がないように見えるが」
「そうでしょうか? 何も変わりませんが」
お幸は笑って見せた。だが礼次郎は、やはりそこに暗い色を感じ取った。
「本当か? 何かあったんじゃないのか?」
「いえいえ、何もございませんよ」
「ならいいんだけどな」
礼次郎は釈然としない気持ちであったが、お幸がそう言う以上、これ以上訊くのもおかしいと思い、そのまま水屋へ向かった。
水屋で汗を流した後、礼次郎は自室に入った。そしておみつを呼んだ。
「悪いが、茶と、何か菓子か果物でも持って来てくれないか? 腹が減った」
「はい、お待ちくださいませ」
おみつは笑顔で答えた。
だが、そこで礼次郎はまたしても気になった。今度はおみつのその笑顔に暗い物を感じたのである。
「おい、どうしたおみつ。何か暗いな」
礼次郎が訊くと、おみつは慌てて表情を取り繕った。
「え? そうですか?」
「ああ。何かあったのか?」
「いえ、特に何もございませんよ」
「ならいいんだけどさ……変だなあ。さっき、お幸もそんな感じでどこか浮かない様子でな。でも訊いても何も無いって言うんだ」
礼次郎が小首を傾げると、おみつはふっと小さな溜息をついて、ぼそっと言った。
「そっか、お幸さんもか……」
「も?」
礼次郎は眉をしかめる。
「多分、私たち女衆はみんな同じだと思いますよ。寂しいんですよね」
「寂しい?」
「ええ。ゆり様がいなくなってしまって、寂しいんです」
「…………」
礼次郎は、しかめていた眉をぴくりと動かした。
「可愛らしくて、優しくて、明るくて……武田家の御姫様で、若殿の奥方様になられるお方なのに、全然偉ぶったところもすましたところもなくて……歳も同じぐらいと言うのもあって、いつも私たちに友人のように接してくださいました。いえ、多分ゆり様は本当に友人だと思ってくれていました。だから私たちもどんどんゆり様を好きになって行ったんです。私も、最初は突然若殿の許嫁として来たからヤキモチ妬いて好きじゃなかったけど……あっ」
おみつは突然、顔を赤らめて視線を逸らした。
礼次郎は苦笑いでとぼけた。
「何? 何か言ったか? 聞こえなかったよ」
おみつは赤くした頬を搔いた。
「えっと……その……でも、ゆり様は私にも本当に優しくしてくれて、色々な相談にも乗ってくださって……私もゆり様が大好きになったんです。でも、折角仲良くなったばかりなのに、こうやってもうお別れしてしまったから、寂しくてたまらないんですよ」
「おいおい、別れたわけじゃないだろ。半年後、遅くとも一年後にはまた戻って来るぞ」
「わかっています。でもやっぱり寂しいですよ。半年や一年後って言ったって、実際にはどうなるかわかりませんし……」
「…………」
「ゆり様も今頃、寂しいかなあ? いえ、きっと私たち以上に寂しいでしょうね。殿と離れてしまうのですから。ゆり様、昨日は泣いておられましたよ」
「何? 泣いてた?」
「はい。私たちと一緒におしゃべりをしていた時です。こう、突然ぽろぽろと涙をこぼされまして……殿のことをお願い、って。私たちの手を取って、『礼次のことをお願いね。私はもう側で支えてあげることができないから、私の代わりに、お願いね』って、何度も何度も頭を下げて……」
「…………」
「あ、申し訳ございません、つい、余計なお話しを」
おみつが慌てて立ち上がった。
「いや、いいんだ」
「お茶と……あ、そう言えば殿のお好きな蕎麦掻きがありますよ。すぐにお持ちしますね」
おみつは笑顔を作って言うと、部屋を出て、襖を閉めた。
一人になった礼次郎は、目を伏せて、小さな溜息をついた。畳の一点を見つめた。
やがて立ち上がると、部屋の隅に行き、そこに置いてある行李を開けた。中には、読みかけの書物、餌掛け、笛、絵筆、など、様々な雑貨小物を収納してある。
その中に、現在読みかけの書物がある。 越後の直江兼続から貰った「武経総要」の写しである。 礼次郎はその続きを読もうとして、書物を取り上げた。
だがその時、行李の隅に転がっていた、ある物に気付いた。
礼次郎は書物を傍らに置くと、それをそっと手に取った。
それは螺鈿で装飾された朱塗りの櫛。ふじの形見の櫛であった。
部屋は、障子を閉めている為、外からの光が射し込んでいるとは言え、それほど明るくはない。
礼次郎は櫛を持ったまま障子の前まで移動し、障子を開け放った。眩いばかりの春の陽光が、一気に部屋の中に満ちた。
その明るいひかりの中で、礼次郎はふじの櫛をじっと見つめた。
ところどころ、塗りの色味が微妙に違うところがある。
礼次郎の脳裏に、越後で喜多が言った言葉が響いた。
――未だ城戸様が想う人の櫛だと知りながら、どうにかして元通りにしようと、ゆり様が夜を徹して修繕したのです。
礼次郎の唇が顫えた。
彼は、右手で口元を押さえた。
再び、別の言葉が響いた。
――おふじさんを愛していた礼次郎を私は好きになったんだから……。この櫛は礼次郎にとって大切な物だから、これがぼろぼろになっているのを見てがっかりさせたくない。
その時、礼次郎の前にひらひらと舞い落ちて来たものがある。
桜の花びらであった。
外を見た。
塀の向こうに、桜の大木が花を咲かせ始めていた。艶やかな桜の花々が微風に揺れている。
それにしても、咲き始めである。一片とは言え、散って花弁が舞い込んで来るなど珍しい。
礼次郎は桜を見つめた。
再び、今度はゆりの言葉が耳の奥に響いた。
「今年最初の桜は、あなたと二人だけで見たい」
「…………」
「いいけど……寒いよ」
「そんなの当たり前じゃない。寒くてもいいの。二人で馬に乗って出かけて、ちょっと見られたらそれで満足」
「そうか。じゃあ行こうか」
「武田家が滅亡して、真田家に匿われた後、私がしょっちゅう出かけてたのは、ただ遊びに行っていたわけじゃないのよ? もちろん色々と外の世界を見て回りたかったのもあるんだけど、もう一つの理由には、私の本当の家族を探したかったってのがあったの」
「そうだったのか……」
「でもそう簡単に見つかるわけないよね。手がかりはたった一つ、私が捨てられていた時に一緒にあったあの観音菩薩の木像だけだから……結局今もわからない」
「…………」
「でも、もういいの……私は本当の家族よりも大切に想える人ができたから」
「そしてね……もう探すんじゃなくて……いつか私自身で本当の家族を作るの……」
礼次郎の目の色が変わった。
見つめていた櫛を取り落とした。
瞬間、跳ねるように立ち上がった。黒貂の羽織りを引っ掴んで袖を通すや、襖を開けて部屋を飛び出した。
ちょうど、おみつが茶と蕎麦掻きを運んで来たところであった。
おみつはびっくりして、慌てて声をかけた。
「あれ? 殿、どちらへ?」
だが、礼次郎は返事をしないままに廊下を駆ける。
そこへ、廊下の奥から、龍之丞が五兵衛と共にやって来た。龍之丞は、五兵衛を礼次郎に会わせようとして、連れて来たのである。
「あっ、殿。どちらへ?」
龍之丞も、物凄い勢いで廊下を駆ける礼次郎に驚いて声をかけたが、礼次郎は返事もせぬままに廊下を駆け去って行ってしまった。
龍之丞は、ぽかんとしながら、おみつに訊いた。
「何かあったのか?」
「さあ? わかりません。私はお茶と食べ物を持って来るように言いつけられたのですが……」
おみつは、呆けたような顔で廊下の奥を見つめた。
「ふうむ。突然あのようになるのは殿がよくあることだが……」
龍之丞は呟くように言うと、おみつと同じように、礼次郎が消えた廊下の奥を見つめた。
そのまま、何か考えていたが、ふと何かに思い当たったような顔となると、にやっと笑っておみつに言った。
「おみっちゃん。茶とその蕎麦掻きな。もう一人分用意しておきな。いや、この時間だと酒の用意の方がいいかもなあ」
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