第196話 あなたと共にある日々

 その頃、街道を北上していたゆりと瑤子、喜多、そして送り役の美濃島咲ら一行は、もうじき碓氷郡を抜けて吾妻郡に入ろうかと言うところまで来ていた。

 騎乗の咲が、街道の遥か先に横たわっている山の尾根を見て言った。


「今日中には岩櫃まで行けるでしょうけど、その時にはすでに暗くなっているわね。今日はどこまで行こうかしら? 岩櫃の手前の大戸には旅籠が多いけど、そこで今晩の宿を取る?」


 瑤子は駕籠の中から顔をのぞかせて、


「そうねえ……とりあえず、その大戸まで行ってみましょうか。その時の時間と具合で決めましょう」


 と言って、


「ねえ、ゆり、どうかしら?」


 と、騎乗のゆりに声をかけた。

 旅立ちの際、ゆりも駕籠に乗るよう勧められたのだが、城戸家の財政の事を考え、少しでも人件費を減らせる方がいいと言って、ゆりは乗馬で行くことにしていた。


 そのゆり、馬上でぼうっとしており、瑤子がかけた声に気付かなかった。


「ゆり、どうしたの?」


 瑤子が再び声をかけたが、やはりゆりは返事をしなかった。

 ゆりの馬の轡を取っていた喜多が、見かねて下から呼びかけた。


「ゆり様、ゆり様、如何されましたか?」


 そこで、ゆりははっと我に返って、


「あ、ごめんなさい、どうしたの?」

「瑤子様が呼んでおられますよ」

「え? ああ、そうなの?」


 ゆりは慌てて瑤子の方を振り向いた。


「すみません、母上。少し呆けておりました。何でしょうか?」

「あなた、さっきからずっとそんな様子ね。どうかしたの?」


 瑤子は怪訝そうな顔をした。


「いえ、別に何でも……その……ちょっと疲れが出たようです。でも、もう大丈夫です」


 ゆりは気まずそうに笑った。


「そう、ならいいんですけど」

「で、なんでしょうか?」

「いえ。咲殿と、今日中に岩櫃まで行ってしまうか、それともその手前の大戸で宿を取るか、どうしようか、って話してたのよ」

「ああ、そうですか。それなら私は大戸に一晩泊まる方がいいと思います。急ぐわけではないですが、先の長い旅です。無理はしない方がよろしいかと思います」


 言いながら、ゆりは半年ほど前のことを思い出していた。

 あの時も、場所は違うが、山間の道を旅していた。

 城戸家が徳川家康に攻撃されたとの噂を耳にし、まだ見ぬ許婚がどうなったのかと気になり、居ても立ってもいられずに城戸を目指して碓氷峠を越えたあの時。


 ――まだ会ったこともないのに、顔すら見た事のない礼次が何故だか心配で心配で仕方なかったのよね。


 そして、礼次郎が上田に忘れて行ったふじの櫛を渡そうと、再び城戸へ向かったあの時。


 ――あの時は、櫛を渡すことも大事だったけど、それよりも、ただ礼次郎にもう一度会いたかったんだよね……。


 ゆりは、目を細めて眩しい青空を見上げた。


 ――不思議。あの時からまだ半年ほどしか経ってないのに、何だか凄く遠い昔のことみたい。


「そう。じゃあ、今日は大戸に一泊しましょうか」


 瑤子が駕籠の中から言うと、皆が頷いた。

 すると、そこで咲が空を見上げて陽の位置を確認してから、皆に言った。


「じゃあ、大戸に泊まるんだったら、逆に今日は結構時間の余裕があるわ。ちょっと寄り道してみない?」

「寄り道?」


 瑤子が興味を示して訊くと、


「ええ。この草津道から外れてすぐのところに、とてもいい場所があるんですよ。時間があるので是非」

「どんな場所かしら?」

「それは、着いてからのお楽しみです。でも、きっと満足するはずです」


 咲は、悪戯っぽい流し目で言った。


「へえ。面白そうね。では、皆で行ってみましょうか」


 瑤子が言うと、皆賛成し、一行は行く先を変更した。


 その途上、ゆりはまだ回想の世界にいた。

 皆が、何が見られるのだろうと、うきうきしながら進む中、一人、ぼーっとした顔で物思いに耽っていた。


(そう……目まぐるしく状況が変わるこの乱世では、たった半年前のことも、遠い昔のことのように感じられてしまう……半年、一年なんて短いものと皆言う。だけど、半年も経ったら、礼次は私を忘れちゃうんじゃないかな……)


 突然、ゆりは馬を止めた。


「ゆり様?」


 喜多が不審に思ってゆりを見上げた。

 だが、ゆりはそれに気付かない。

 そのまま、城戸がある南の空を見上げた。


(そもそも、その半年や一年と言うのだって……本当は私も礼次もわかっているのよ。お互いに言わないだけ……。先日の戦に負けたばかりの今の城戸家では、半年どころか一年経ってもどうなるかわからない。もしかしたら二年、三年……いや、それどころか、そもそも風魔幻狼衆や徳川に勝って天哮丸を取り戻せるとは限らないわ。逆に城戸家が攻め滅ぼされてしまい、礼次自身の命すら……)


 ゆりは、思わず最悪の事態を考えてしまった。

 たまらずに込み上げて来るものがあったが、ぐっと堪えて目を閉じた。


 ――ううん、そんなことない……壮之介殿や順五郎殿、咲さん、皆強いし、宇佐美さんもいる……葛西様もいるし……何より礼次自身だって腕が立つんだから……。


 ゆりは目を開けた。

 前方を向き直し、再び馬を進めた。


 やがて、雑木林の中に入り、道が少し荒れ始めた。

 木漏れ日を浴びるゆりの身体が馬上で揺れる。

 それでも彼女は、沈鬱な顔で俯きながら、まだ思いに耽っていた。


 ――でも、でも……ううん、違う……私はただ……礼次郎あのひとと一緒にいたいだけ。


 やがて、咲が声を上げた。


「着いたわ。ここよ」


 雑木林を抜けた一行の前に、突如視界が開けた。そこには、まるで絵を変えたかのように、それまでとは全く違う風景が広がっていた。


「おおっ、これは」

「何て素晴らしいんでしょう」


 眼前のその風景を見て、一同皆感嘆の声を上げた。

 ゆりはまだ俯いて物思いに沈んでいたのだが、皆の歓声で我に返ると、顔を上げた。


「あっ……」


 瞬間、彼女も思わず息を飲んだ。


 そこに広がっていたのは、桜の海であった。

 どこを見ても桜、桜、桜、そこかしこに桜の樹があり、それぞれ競うように艶やかな桜の花を咲かせていた。まるで赤みを帯びた白雲の如く連なり、視界いっぱいに咲き乱れていたのである。

 また、木々の間から向こうを見てみれば、瑠璃の如き蒼さの清流が陽光をきらきらと撥ねており、時折そこに桜の花びらが落ちて花いかだとなって流れていた。そしてまたその向こう岸には、同じような桜の海が広がっているのである。

 桃源郷とはまさにこれか、と思えるような絶景であった。


 あまりの美しさに、ゆりは言葉が出なかった。

 他の者らは歓喜しながら頭上の桜を見ていたが、彼女はしばし、呆然として放心したように見惚れていた。

 だがやがて、自然に呟いた。


「綺麗……本当に綺麗……」


 彼女は微笑んだ。

 だが次の瞬間、その微笑の頬に一筋の光が伝った。



 ――今年最初の桜は、あなたと二人だけで見たい――



 正月に、彼女が礼次郎に言った言葉である。


 ゆりの唇がふるえるように動いた。


 ――あなたと一緒に見たかった。


 その時、微風が吹いて、無数の桜の花弁が揺れた。

 すると雪のようにひらひらと花弁が舞い落ちて、またあちこちで歓声が上がった。

 しかし、ゆりの両目からは涙が溢れていた。


 ――私、自分の命の危険なんて構わない。どうだっていい。明日攻められて死んでしまうとしても、今日と言う日をあなたと一緒に過ごしたかった。


 ゆりは、顔を覆ってその場に座り込んだ。





 ――俺は過ちを犯そうとしていた。


 その頃、礼次郎は必死に馬を駆っていた。


 礼次郎は自室を飛び出した後、そのまま厩舎へと向かった。そして馬に飛び乗るや、驚く住民らを後目に目貫通りを風の如く駆け抜けて町を出、そのまま城戸盆地からも出た。

 原野を走り、春の新緑に色づく林を抜け、陽射しうららかな街道に出ると、真っ直ぐに北に向かって疾駆した。

 速歩で休むことなく半刻ほども走り、馬が疲労の限界に達して来ると、立ち寄った集落で馬を替え、また疾走した。


 ――命定かならぬ乱世であるからこそ、離れては行けなかったんじゃないか?


 ――いや、違う。こんな時になっても俺はまだ言い訳めいたことを……俺はただ……。


 礼次郎は額から落ちる汗も拭わず、ひたすら駆けに駆けた。

 更に半刻ほどを疾走した。

 だが、何かがおかしかった。

 道の真ん中で、礼次郎は馬を止めた。呼吸を乱しながら、前後左右を見回した。


(もう、ゆり達に追いついていいはずだけど……)


 ここまで、それらしき姿も影も見なかったのである。

 礼次郎は、前後からやって来る旅人数人を捕まえて、尋ねてみた。

 だが、皆、首を傾げただけであった。


(おかしい。この道を通るはずだよな……まさか、道を変えたのか?)


 礼次郎は更に馬を走らせた。

 だが、やはりゆり達の姿は見当たらない。


(どうなってるんだ?)


 心中に、変な焦りが生じた。

 その時であった。

 聞いたことのある猛獣のような鳴き声が頭上より聞こえた。

 見上げると、蒼天に一羽の巨大な鷹が飛翔していた。


「あっ、雷風!」


 礼次郎が驚きの声を上げると、怪鳥は唸るように鳴きながら舞い降りて来た。


「何でここに? どうしたんだ」


 礼次郎が驚きながらも左腕を差し出して迎えると、雷風は大きな身体を縮めるようにしてそこに止まった。


「こんな遠くまで……まさか、ずっとついて来たのか?」


 礼次郎がその頭を撫でると、雷風は一声鳴いた後、礼次郎の左肩を嘴で軽くつついた。


「いった……! おい、やめろ。お前のでかい身体じゃ、洒落にならないんだ」


 礼次郎が痛みに顔を歪めると、雷風は再び左腕から飛び上がった。

 そして空高くまで上がると、ぐるぐると旋回を始めた。

 どうしたんだ? と礼次郎は怪訝に思ったが、あっと気付いた。


「そうか! お前、まさか……お前は何て奴だ!」


 礼次郎は顔を輝かせた。そして、雷風に向かって叫んだ。


「頼むぞ、探してくれ!」


 雷風は応えるように一鳴きすると、旋回の範囲を大きく広げた。

 そしてぐるぐると飛び回り続けていたが、やがて大きな声で何度か鳴くと、少し高度を下げて、そのまま西の方へ飛び始めた。


「あっちか」


 礼次郎は、雷風の飛んで行く方向へ馬を走らせた。

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