第194話 愛と力

 午の刻前。

 礼次郎は、座敷の一室で、龍之丞と膝を突き合わせ、今後の戦略について話し合っていた。


 しかし――


「殿、如何されましたか? 先程から、ぼーっとしていると言うか、集中していない様子でござりますが」


 龍之丞が、怪訝そうな目で礼次郎の顔を覗き込んだ。

 しかし、礼次郎はそれに気付かず、虚ろげな目で宙の一点を見つめていた。


「殿?」


 龍之丞が再度問いかけると、礼次郎はやっと我に返った。


「あ? ああ、すまん」


 と、慌てて背筋を正し、


「で、どこまで話したかな?」


 礼次郎は咳払いをして、二人の間に広げてある地図を見た。

 だが、龍之丞はそれに答えず、じっと礼次郎の顔を見つめた後、苦笑を漏らした。


「ふふっ……この宇佐美龍之丞、またも失策を犯してしまったかも知れません」

「何?」


 礼次郎が顔を上げる。


「いや……今の我々の問題は、半減してしまった戦力をいかに回復させるかでありますが、それよりも大きな問題があることに気付きませんでした」


 龍之丞は、顔には微笑を湛えているが、口ぶりは淡々として言った。


「それよりも大きな問題とは何だ?」

「我々家来どもは、全力でゆり様の京行きを止めるべきでしたな」

「ゆりの京行きを? 何でだ?」


 礼次郎は小首を傾げた。

 言っている意味がわからない。


「我々が戦力を回復させたとしても、今の殿では十分に動かすことができず、再び徳川や風魔に負けてしまうことでしょう」

「何? どういうことだ?」

「たとえ百万の兵を揃えたとしても、その全軍を指揮する総大将の心に緩みや隙、乱れなどがあれば、わずか一万の兵に負けることすらあります。その昔、唐の国では、漢王劉邦は五十六万の兵を擁しながらも、その油断と心の隙を突かれ、わずか三万の西楚の覇王、項羽に大敗いたしました」


 礼次郎は、龍之丞が何を言いたいのかを察して表情を変えた。

 龍之丞は言葉を続ける。


「殿が劉邦と同じようになるとは申しません。しかし、今の殿は……」

「お前まさか、俺がゆりがいなくなって心が乱れている、って言いたいのか?」


 礼次郎が遮るようにその先の言葉を言い、睨むように龍之丞を見た。

 だが龍之丞は真っ直ぐに礼次郎を見返す。


「違うのですか?」

「…………」


 礼次郎は、龍之丞の視線から目を逸らした。


「確かに今は……心が乱れているかも知れない。と言うか……よくわからん。何となく心が虚ろになったような……忙しくなったような……これは、ゆりが去ったからなのは否定できないと思う。お前の言う通りだ。だけど……一時のことだ。すぐにいつもの心に戻る」

「誠でございますか?」

「ああ。すぐに何てことなくなるさ」


 そう言った礼次郎の顔を、龍之丞は再びじっと見つめた後、言った。


「殿、今ならまだ間に合います。ゆり様を引き止めに行き、連れ戻して来たら如何でしょう?」

「はあ?」


 礼次郎は、素っ頓狂な声を出して顔を上げた。


「何言ってやがる。そんな女々しいことができるか」

「女々しい?」

「ああ。今、俺達は戦に負けたばかりだ。それでも、徳川と幻狼衆を相手に戦って行かないといけない。そんな時期に、許嫁とは言え、女だ恋だなんて言ってられるか」


 礼次郎は、若者らしい覇気と潔癖さできっぱりと言い切った。しかし、どこか強がっているようにも感じられた。


「ふふ、なるほど……」


 龍之丞はそれを察知したのか、意味深に微笑んで頷いた。


「流石でございます。それでこそ城戸頼龍よりたつ


 しかし直後、真面目な表情となるや、静かに話し始めた。


「殿。私が今でも敬慕してやまない越後の先代、上杉謙信公が、生涯不犯を貫いたことはご存知ですか?」

「ああ、もちろんだ」

「不識庵(上杉謙信)様は、決して女子に興味が無かったわけではございません。若き頃には、心を通わせた方もおられたと聞いております。しかし、信心深く、誰よりも戦国武将としての強さを追い求めた不識庵様は、女子に触れ、その愛に溺れれば心が萎え、力が失われると信じ、人並み外れた意志の強さで、女子への欲を断ち切ったのです」

「うん。そう言う話は聞いている。凄いお方だ。常人には到底真似できるものじゃない」


 礼次郎は感心したように頷く。


「はい。しかし、私は今でも一つ、思っていることがあるのです。もし、不識庵様に愛する女性がおられ、その方と夫婦になられていたら、もっと強かったのではないか? と」

「何?」

「私は未だ独り者ですが、かつて一人、本気で惚れた女がおりました。恋をしておりました。そして、真剣に愛しました。不思議なもので、その間は、気分が高揚し、気力体力共に充実し、仕事も捗り、泉の如く、良き策が次から次へと湧いて出てくるのです。思うに、その女の為に、もっと励もう、もっと成果を出そうとし、本来の力以上のものを引き出せたのでしょう。愛しく想う人の存在と言うのは、時にこういう不思議な力を与えてくれるのです」

「…………」


「不識庵様は、誠に生まれながらの天才と言うにふさわしいお方でした。ご本人は、ご自身のその力は毘沙門天に帰依し、女性を遠ざけているが故に得られているものだ、と信じ込んでおられました。しかし、神仏の類を一切信じぬ私から見れば違います。不識庵様の力は、ご自身の生来の才能と、努力によるところです。そして……それ故に思うのです。もし、不識庵様に愛しく想い、守りたいと思う奥方さまがおられたならば、もっと強かったのではないか、と」

「…………」

「守るべき者があってこそ得られる強さもある。某はそう思うのですよ」


 その瞬間、礼次郎は、何かに打たれたような表情で、龍之丞の顔を見た。


「はは……まあ、一度これを春日山城内で言ったら、お前のような者が何を言っているんだ、と笑い飛ばされましたがな」


 と、龍之丞が苦笑いした時、襖の外に足音が響き、取り次ぎの者が声をかけて来た。


「失礼いたします。宇佐美様はこちらと伺ったのですが」

「何だ?」


 龍之丞が答えると、


「越後から、急ぎ宇佐美様に会いたいと申す者が参っております」

「何、越後だと?」


 龍之丞は驚いて襖の方に向いた。


「はっ。如何いたしましょうか」

「何者だ、名は?」

「本田五兵衛と名乗っております」

「何、五兵衛?」


 龍之丞は目を見開いた。本田五兵衛は、龍之丞が越後琵琶島の城主であった時代の家来で、側近として重用していた若者である。

 龍之丞が所領を召し上げられ、礼次郎に従って城戸に行くことが決まった後には、直江兼続の下に預けていた。


「しばし待て」


 龍之丞は、礼次郎の顔を見た。


「構わないぞ」


 礼次郎は短く頷いた。


「では、暫時失礼仕ります」


 龍之丞は頭を下げ、立ち上がると、部屋を出て行った。


 一人残った礼次郎、黙然と虚空の一点を見つめた。



 龍之丞は、待たせてある使者の下へ急ぎながらも、頭では礼次郎について思案を巡らせていた。


(これは少々予想外だったな。まさか殿がああなるとは。いや、ご自身でも驚いておられるであろうな。まだ心の中は混乱しているのかもしれん)


 龍之丞は、溜息をついた。


(だが、一国の主として、そのようなことではまずい。一刻も早く元の殿に戻ってもらわねば)


 ――それにしてもだ。


 龍之丞は中庭が見えるところまで来ると立ち止まり、中庭に目をやった。


(頭が痛いぜ。今の我らの領土、人口では、これ以上の徴兵は難しい。どうやって戦力を回復させればいいのか……)


 龍之丞は、そのまま考え込んだ。

 空を見上げた。快晴である。だが、一妥の白雲が浮かんでおり、ゆっくりと流れて行っていた。


「おっと、いかん」


 龍之丞は我に返り、慌てて、本田五兵衛が待つ部屋へと向かった。

 五兵衛は、部屋の下座の位置に端坐していた。

 龍之丞が入ると、嬉しそうな顔をした後、平伏した。


「おお、五兵衛、久しいな。元気にしていたか」


 龍之丞は、無造作に五兵衛の前に腰を下ろした。

 五兵衛は顔を上げると、笑顔で答えた。


「はい。殿もお変わりないようで。いや、それどころか元気すぎるご様子。目覚ましい活躍ぶりは聞こえておりますぞ」

「はは、そうか……でもそうでもねえぜ。ついこの前、徳川相手に負けたばかりだ」


 龍之丞が苦笑すると、五兵衛は顔を曇らせた。


「噂は本当でしたか。ここに来る途上、耳にいたしました」

「ああ。俺としたことが散々にやられたよ。だが、礼次郎殿の奇策で一矢報いたけどな。ははは、軍法指南役の俺の立場が無いぜ」


 龍之丞は自嘲気味に笑った後、


「で、五兵衛どうした? 突然」


 と、急に真面目な顔になって訊くと、五兵衛も真面目な顔となった。


「実は、使者として参りました」

「使者? 直江の旦那からか?」

「いえ、春日山の御屋形様からです」

「何、御屋形様?」


 龍之丞が驚くと、五兵衛は懐から一枚の書状を出して龍之丞に差し出した。


「取り急ぎ、これを殿に見せよ、と」

「急ぎか……何か大事でも起こったか? 今の城戸の状況で、俺が越後に帰るわけにはいかねえぞ」


 龍之丞は、深刻そうな顔になりながら、書状を受け取った。

 だが、龍之丞はその書状を読み進めて行くと、見る見るうちに驚きの表情となった。


「これは……」


 最後まで読み終えて顔を上げた龍之丞に、五兵衛はにこりと微笑んだ。

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