第193話 瑤子の想い、出立の朝

 城戸の町が淡い暮色に染まり始めた頃。

 夕餉の前に、礼次郎はゆりの部屋へ向かった。

 ゆりと、もう一度、京行きについて話をしたいと思っていた。

 襖の前まで来て、中へ声をかけようとすると、ちょうど中から女性二人の明るい話し声が聞こえて来た。

 一人は弾むような高い声。もう一人はそれとよく似た声だが、落ち着いた響きがある。

 もちろん、ゆりと瑤子であった。


 ――瑤子様がいるのか。って、当たり前か。


 実の母娘であることが明らかになって以後、瑤子はゆりの部屋で寝起きするようになっていた。

 少しでも、十七年間の空白を埋めたい、との思いからである。


 ――どうするかな……。


 礼次郎は、瑤子がいることを知ると、迷った。

 襖の前で少し考えた後、


 ――また明日にするか。


 と、思い直し、そのまま引き返そうと踵を返した。

 だがその時、中からゆりが声をかけて来た。


「誰かそこにいるの?」


 礼次郎は足を止めた。


「礼次……?」


 ゆりは何となく直感したらしい。

 礼次郎は一瞬、また迷ったが、結局は襖に向かって、


「うむ、俺だけど、入ってもいいかな?」

「もちろんよ。母上もいるけど」


 ゆりの声が一段高くなった。


「では……」


 礼次郎は静かに襖を開け、中に入った。

 座敷の部屋の中には、着物を始めとして帯や櫛やかんざしなど、女物の雑貨が散らかっていた。

 それらに囲まれた中で、ゆりと瑤子は向かい合って座っていた。

 礼次郎は空いている場所を見つけて腰を下ろすと、二人の顔を見た。二人とも、和やかで明るい表情である。

 礼次郎は瑤子に向かって少し申し訳なさそうに、


「すみません、お邪魔ではありませんか?」

「いいえ、そのようなことはございませんよ」


 瑤子はにこにことしている。

 礼次郎は少し安心して、


「二人で何かおしゃべりでも?」

「ええ。最初は荷作りをしていたんですけど、途中からいつの間にかおしゃべりに夢中になっちゃって」


 礼次郎は苦笑した。


「へえ……それは行けませんね」

「ふふ、女子と言うのはこういうものですよ」

「そうですか……」


 礼次郎は、姉の凜乃の輿入れの時のことを思い出した。

 あの時、凜乃はおしゃべりどころか、女中たちを動かすだけではなく、自らもせかせかと走り回って準備をしていた。


 ……礼次、邪魔よ、どいて!


 縁側で順五郎と一緒に瓜を齧っていたら、二人揃って後ろから蹴落とされたものである。


 ――やっぱり姉上がおかしいんだな。


 礼次郎が思い出して苦笑すると、ゆりが楽しそうに笑いながら言った。


「母上がいけないのよ。着物を畳みながら、母上が若い頃の流行りなどを話し出すから」

「あら。最初はあなたが聞きたがったんじゃない」

「そうですけど、その後に母上が勝手に京のことを話し始めたんでしょう」

「そうだったかしらね」


 瑤子は、わざとらしくとぼけて見せた。

 それを見て、ゆりはまた楽しそうに笑った。


「楽しそうですね」


 礼次郎が微笑して言うと、瑤子がふふふっと笑った。


「ええ。今まで沢山旅はして来ましたけど、今回ほど楽しみだった旅はないわねえ」


 そう言うと、瑤子は近くの着物を取って畳み始めた。


「ずっと探していた娘にようやく再会できて、やっと京で一緒に暮らせるのですから」


 瑤子は畳んだ着物を見つめながら、しみじみと言った。


「…………」


 礼次郎は、瑤子の横顔を見つめた。

 今思い返してみれば、越後春日山で会った時には、いつも表情に憂いを帯びていた。だが、今は本当に穏やかで、幸せそうな色に満ちている。

 瑤子は、また別の小袖を取って畳みながら、


「私の実家の京の二条邸にはね、殿(伊川経秀)には内緒で、まだ私が若い頃に近衛義嗣様からいただいた着物や帯などをこっそり残してあるのよ」

「思い出の品だからですね」


 礼次郎が頷くと、瑤子は微笑んで、


「それもあるんだけどね……それよりも、いつか百合子を見つけられたら、着せてあげようと思ってね」

「私に?」


 ゆりが目を見開いた。


「ええ」


 瑤子は畳み終えた小袖を傍らに置くと、ゆりの顔を見た。


「あの時の私は、今のあなたと同じ十七歳。今のあなたならきっとぴったりよ。よく似合うと思うわ。私はね、あなたがその着物を着る姿を見るのが、ずっと夢だったのよ」

「…………」


 ゆりの目に、うっすらと涙が浮いた。


「義嗣様が私に贈ってくださったものですが、あなたにとっても実の父の形見になりますしね。義嗣様は、無念にもあなたを抱くことが叶いませんでしたが、あなたがそれらの着物に袖を通すところを天上からご覧になられたら、きっと大喜びするはずよ」


 瑤子は遠い目をして言うと、


「ふふ、楽しみだわ」


 と、微笑し、再び別の着物を取って畳み始めた。

 礼次郎は、複雑そうな顔で、その嬉しそうな様子を見つめていた。

 すると、瑤子は突然、思い出したように顔を上げて礼次郎を見た。


「ああ、ごめんなさいね。礼次郎殿、どうしたのかしら? ゆりに何か用事があったんじゃなくって?」

「そうよ。どうしたの?」


 ゆりも気付いて、礼次郎の顔を見た。

 礼次郎は、はっとして我に返った。


「ああ、いや……何でもないんだ。ただ、その……荷造りとか、どうしているかな、と気になっただけで……」

「そう。ふふ……ご覧の通りよ」


 ゆりはいたずらっぽく笑った。

 礼次郎は、元々、ゆりともう一度京行きについて話をしたいと思ってやって来た。だが、今の瑤子の話を聞いたら、もうそんな話をする気がなくなってしまった。


「では、俺はこれで」


 礼次郎は立ち上がると、部屋を出て行った。




 その夜、礼次郎は布団の中で仰向けになったまま、天井を見つめていた。

 何故だか、なかなか寝付けなかった。

 様々な思いが去来し、彼の心をいつまでもざわつかせていた。



 それは、ゆりも同じであった。

 彼女は布団の中で、せわしく寝返りを打っていた。

 少し離れた隣の夜具の中では、瑤子が静かな寝息を立てている。

 だが、ゆりはずっと寝つけずにいた。その顔には、憂鬱そうな色があった。

 そのうち、寝ようとするのを一旦やめて、上半身を起こした。そのまま布団から出ると、部屋の隅の机に向かった。

 机の上には、あの観音菩薩の木像が置いてあった。ゆりはそれを手に取り、じっと見つめた。

 その後、壁の小窓から夜空を見上げた。

 そこには、宝石をばらまいたように瞬く星々の中に、大きな白い満月が煌々と輝いている。

 ゆりは、しばらくその満月のひかりを見つめた後、振り返って瑤子の寝顔に視線を移した。

 とても穏やかな寝顔である。

 耳の奥に、夕方の瑤子の言葉が響いた。


 ――今のあなたにきっとぴったりよ。よく似合うと思うわ。私はね、あなたがその着物を着る姿を見るのが、ずっと夢だったのよ。


 ゆりは、小さく溜息をついた。

 そして、瑤子の寝顔を見つめたまま微笑した。


 ――たった半年よ。長くなっても一年。うん……。


 ゆりの顔から、憂いの色が消えた。

 彼女は、再び夜具の中へ戻った。

 しばらくして、薄闇の中に静かな寝息が聞こえ始めた。




 そして日にちは瞬く間に過ぎ、ゆりと瑤子が京へ旅立つ朝となった。

 快晴であった。天は蒼く澄み渡り、雲一つない。

 旅立ちには最高の天気である。


 礼次郎や順五郎たちはもちろんのこと、茂吉やおみつなど、城戸家の者たち全員で、町の外れまで見送りにでかけた。

 ゆりと瑤子には、喜多が共に行く上に、およそ十人の伴が付き従う。更に、国境まで、美濃島咲が護衛を兼ねて送って行くこととなった。

 京への道筋は、徳川領である信州路は避け、北から向かうこととした。まず真田領に向かい、沼田城の源三郎信幸に挨拶した後、三国街道を進んで三国峠を越えて越後に入る。その後、春日山へ行って叔母の菊と上杉景勝らに挨拶をした後、船で越前に行き、そこからはまた陸路で京へ行く。


「長い旅になるわねえ」


 送り役の咲が小さな溜息をつく。


「ええ。でも源三郎殿や、叔母上にも会えますし、真田や上杉の領内を通るなら安全ですから。旅を楽しもうと思います」


 ゆりが笑って答えた。


「寂しくなるわ」


 珍しく、咲が本当に寂しそうな顔を見せた。


「はい、私もです。でも、半年から一年の間だけですから。その間に、手紙も書きますし」

「楽しみに待ってるわ」


 咲が答えると、龍之丞が言った。


「ゆり様。春日山の御屋形様、お方様、そして直江の旦那に宜しくお伝えください」

「はい。宇佐美殿の働きぶりをしっかりと報告しておきますね。夜のご活躍ぶりまで」


 ゆりはいたずらっぽく笑った。


「えっ!」


 龍之丞が目を丸くして慌てた。


「ゆり様、な、何を……そ、それはご勘弁を……いや、何故それを知って……」


 龍之丞は近頃、皆に内緒で、こっそり近隣の女郎屋に行くことがあった。

 越後時代のように派手に遊んでいるわけではない。夜中に密かに一人で行って遊女を買い、一通り満足するとすぐに帰って来るだけである。だから、誰にも気付かれていないと思っていた。


「龍之丞、女郎屋に行ってるのか? 女遊びはやめたとか言ってなかったか?」


 順五郎がにやにや笑いながら言った。

 礼次郎も苦笑している。


「いや、その……まあ、息抜き程度に……」


 龍之丞は冷や汗をかきながらしどろもどろになった後、礼次郎に向かって頭を下げた。


「殿、申し訳ござりませぬ」


 礼次郎は笑って、


「別にいいよ。俺は禁じた覚えはないぞ」

「はあ。その……あ、ありがとうございまする」


 龍之丞は冷や汗をかいたまま、気まずそうに頭をかき、


「しかし、何故ばれて……あっ」


 龍之丞は気付いた。ゆりの背後で、喜多が笑いをかみ殺している。


「そうか、喜多殿か……!」

「宇佐美殿、すまぬな」


 喜多が堪えていた笑いを解放した。

 龍之丞、更に気まずそうに小さくなった。

 一同は皆、それを見て大笑いした。

 笑いが止むと、喜多が申し訳なさそうに進み出て、礼次郎に向かって言った。


「しかし、礼次郎様。本当に私も行ってもよろしいのですか? 城戸家にとって大事なこの時、千蔵もいないと言うのに」


 礼次郎は頷いた。


「構わない。お前の配下の下忍もいるし、何とかなる。それに、そのうちきっと千蔵は帰って来る。だから心配するな。しっかりゆりを守ってやってくれ」

「はい、ありがとうございまする」


 喜多は深々と頭を下げた。


「礼次」


 ゆりが礼次郎を見た。


「うん?」

「あの……文を……書きますね」

「ああ、こちらも」

「毎日、書きます」

「そうしたら、毎日使いが来ることになるのか。忙しいな」


 礼次郎は笑った。他の皆も笑った。ゆりも笑った。


「ふふ、そうね……じゃあ、とても長い手紙を書きます。読むのに半刻かかるぐらいの」

「途中で投げるよ」


 また、皆が笑った。

 ゆりも笑った後、皆の顔を見回して、


「ふふふ……では、そろそろ行きます。名残惜しいけど、きりがないから」

「うん、気をつけてな」


 礼次郎が言うと、皆が口々に別れを惜しむ言葉をかけた。


「礼次郎殿、お世話になりました。いずれ、またこちらを訪ねたいと思います」


 瑤子が微笑みながら言った。


「ええ、是非」


 礼次郎は笑って答えた。


 そして、ゆりたちは城戸から旅立って行った。

 町を離れて、原野の向こうへ遠ざかって行く。礼次郎たち城戸家の者らは、いつまでもそれを見送っていた。

 時折、ゆりがこちらを振り返って手を振っていた。だが、それもやがて見えなくなった。ゆりたちの後影が、原野の向こうの森の陰に消えた。

 すると、見送りに来ていた者達も、口々に何か言いながら、町へと戻って行った。

 だが、礼次郎は一人、残っていた。ゆりたちが消えた跡を、じっと見つめたまま動かなかった。

 順五郎は、皆と同じように城戸の館へ戻ろうと歩き始めていたのだが、そんな礼次郎に気付くと、戻って来て声をかけた。


「どうした、若。戻ろうぜ」


 礼次郎はぼーっとしていたが、その声に我に返った。


「あ? ああ、そうだな……」


 礼次郎は振り返ると、ゆっくりと歩き始めた。

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