第192話 春の別れ

 礼次郎は険しい顔に複雑そうな表情で、


「確かに、負け戦をしたばかりの今の城戸は危険だ。落ち着くまでは、京にいるのも手だろう」

「でも、皆戦っているのに……」

「それは気にしなくてもいい。皆わかってくれる。文句など言わないはずだ。幻狼衆の連中が卑怯にもゆりを狙い始めた今、ゆりの安全を考えたら、京に避難するのが一番いい」

「だけど、私……」

「この先、もっと忙しくなる。俺もいつもゆりの側にいられるわけじゃない。いざと言う時に守れないかも知れない。だったら、瑤子様と一緒に京にいる方がいいだろう」

「そう……」


 ゆりは切なそうな表情となった後、俯いた。

 一時黙った後、礼次郎は訊いた。


「嫌か?」

「嫌、じゃないけど……母上と一緒に暮らせるのは嬉しい……でも、皆と離れたくもなくて……礼次とも……」


 ゆりがそう言うと、礼次郎も目を伏せた。

 だが、すぐに目を上げて、


「実は俺も、今回の戦で色々と思うところがあった。最後には徳川軍を奇策で撃退したが、結果的には負け戦だ。戦ってくれた兵士達の半数近くが犠牲になってしまった。しかも、千蔵まで行方不明だ。生きているのかどうかすらわからない。戦国の世と言うのは、本当に人の命が定かならないものだ。昨日は笑顔で酒を酌み交わしていても、今日にはもうこの世にいないかも知れない。乱世の中にあっては、人の命と言うものは本当に儚く、脆いものなんだ。それを痛感した」

「うん、そうね……」

「そして、思い出した」

「何を?」


 ゆりが顔を上げて礼次郎を見た。礼次郎は少し目を伏せた。


「ふじのことだ」

「お藤さん?」

「うん。あの時の……ふじの顔、声……だから……」


 ゆりが下を向き、ぼそっと言った。


「お藤さんのことがまだ好きなの……?」


 礼次郎は慌てて、


「違う違う。そうじゃない。だから……もう二度とあのようなことを繰り返したくない。ゆりを死なせたくない、ってことだ」

「わかってる。冗談よ」


 ゆりは言ったが、その顔は笑っていない。沈んだ色であった。


「とにかく、今、瑤子様と一緒に京へ行けるなら、安全の為にもそれが一番いい。こちらのことが片付いて、全てが落ち着いたら、迎えに行くから」

「落ち着いたらって……」

「一年、いや半年以内には、必ず幻狼衆の連中を討ち滅ぼし、風魔玄介を斬って天哮丸を取り戻す。そうしたら、すぐに京へ迎えに行く」

「…………」


 ゆりは俯いたまま答えなかった。


「な? だから、少しの間だけ、京にいよう」

「……半年……離れ離れだよ。礼次は……あなたは、私と半年も離れていて平気なの? 寂しくはならない?」

「それは……もちろん寂しい。だけど、ゆりの安全を考えるとここにいるより京に行く方がいい。たった半年だ。」

「半年半年って言うけど、本当にたった半年で終わるの? そもそも、勝てるの?」

「勝つに決まってるだろ。勝って見せる」


 礼次郎は語気に力を込めた。


「…………」


 だが、ゆりは俯いたままであった。

 礼次郎は、そのゆりの顔を見つめていた。

 長い沈黙が流れた。

 やがてゆりは顔を上げた。笑顔を作った。


「わかりました。では、母上と共に京へ参ります」

「うん。それがいい」


 礼次郎は、安堵した表情となった。


「半年後には、きっと迎えに来てくださいね。いえ、なるべく早く、幻狼衆を討ち滅ぼしてください」


 ゆりは可憐な笑顔を見せた。


「約束する、必ず」


 礼次郎も微笑で答えた。


「討ち死になんて嫌ですよ」

「わかってる」

「じゃあ、早速母上に伝えて来ます」


 ゆりが笑顔のまま立ち上がった。


「うん。後で、俺も瑤子様に話しに行くから」


 礼次郎が言うと、ゆりは微笑みかけた後、部屋を出て行った。

 襖が閉まる音が響いた。

 一人残った礼次郎は、腕を組み、暗い顔で虚空の一点を見つめた。


 一方、部屋を出て行ったゆりは、下を向き、片手で口元を押さえたまま、足早に廊下を進んで行った。

 すれ違った、未だ甲冑姿の美濃島咲が、


「あら、ゆりちゃん。そんなに急いでどちらへ?」


 と、声をかけたのだが、気付かなかったのかわざとなのか、無言で歩き去って行ってしまった。


「どうしたのかしら? 何か泣いていたみたいだけど」


 咲は小首を傾げた。


 ゆりは、瑤子の部屋へは向かわなかった。そのまま、館を出て、裏手に回った。

 建物の白い壁にもたれ、天を仰いだ。

 その後、壁にもたれたまま、ずるずると落ちるように腰を下ろし、両手で顔を覆った。

 小さな嗚咽が響いた。


 その夜、礼次郎は、皆と一緒に夕食を取る前に、ゆりと瑤子が共に京へ行くことを皆に伝えた。

 一同皆、驚いていたが、先日二人が風魔の刺客に襲われたことを知っていたので、理由を聞くと納得した。


 その後、館内の他の者たちにも伝えると、すでにゆりと仲良くなっていたおみつやお幸などの女中たちはとても寂しがったが、それも半年から一年のことと聞くと、笑顔を戻した。


 ゆりと瑤子、母娘の京への出立は、七日後と決まった。




 翌朝――


 礼次郎は、朝目覚めた後は、まず水屋に行って行水をするのが習慣であった。

 その後、自室で小者に手伝わせて髪結いをしながら、茂吉や女中たちに午前の諸々の指示をする。


 それが終わると、朝食である。

 大体は、数名の家臣らと共に食べる。


 今朝は、順五郎と咲、ゆりと共に朝食を食べた。龍之丞は、昨晩床につくのが遅かったらしく、まだ寝ている。

 昨晩の夕食の時もそうだが、京行きが決まってからも、特にゆりに変わった様子はない。

 表情に寂しそうな色は無く、むしろ常よりも明るく見える。

 楽しそうに、まだ見ぬ京の地への憧憬と、実母との暮らしのことを話すのであった。


「何と言っても都だから。最初は不安だったけど、段々楽しみになって来たのよ。そのうち、手紙書くからね」


 ゆりは花のような笑顔を見せる。


 午後、礼次郎は中庭に面した縁側の簀子の上で、麗らかな陽射しを浴びながら書物を読んでいた。

 中庭では、順五郎が一人で槍の稽古をしている。

 順五郎は、一通り汗を流し終えると、礼次郎に話しかけて来た。


「なあ、若」

「うん?」


 礼次郎は、書物に目を落としたまま答える。


「ゆり様のことなんだけどよ」

「何だ?」


 礼次郎は顔を上げた。

 そこへ、お盆に茶を乗せて運んで来た女中のおみつが、たしなめるように言った。


「行けませんよ、順五郎様。若、だなんて。それにその言葉使い。若殿は今は城戸家のご当主様なんですから」


 順五郎は笑った。


「わかってるよ。でも、いきなり変えるのは難しいだろ。徐々に直すよ。それよりおみつ、お前だって未だに若殿、って言ってるじゃないか」

「あ! まあ、そうですけど……」


 おみつは顔を赤らめた。だが、その表情はどこか嬉しそうだ。

 その様子を見た礼次郎。持前の鋭いカンで、


 ――ははあ、もしかして……。


 と、何かを察知した。

 だが、順五郎の言葉で背筋を正した。


「じゃあ、俺もそろそろ殿って言うかな。で、殿」

「何だ? お前にいきなりそう言われると何だか気恥しいな」

「俺だって気恥しいよ。まあ、お互いに慣れて行こうぜ」

「そうだな」


 それを見たおみつ、何とも言えぬ顔で苦笑した。


「で、殿。ゆり様のことなんだけどよ」

「ゆり? 何だ?」

「いいのか? 京へ行かせちまって」

「ああ……」


 礼次郎は書物を閉じて、傍らに置いた。


「いいのかって言ったって、それがゆりにとっては一番良いだろう。風魔は露骨にゆりを狙って来たんだ。城戸にいるよりは、京へ行った方がいい。実の母親とも一緒に暮らせるしな」

「理屈としてはそうだろうよ。確かにゆり様の安全にとってはそれが最善だ。だけど、本心はどうだろうな? ゆり様自身は京へ行きたいのかねえ?」

「今朝の嬉しそうな様子を見ただろ。最初は色々と不安があったみたいだけど、今はもう楽しみで仕方ないみたいだぞ」

「そうかなあ。俺にはそうは見えないんだけどな。無理に楽しみにしているように見えるよ」


「そうか?」

「何かと鋭い殿が気付かないのか?」

「わからないな……」

「当事者だからかねえ。だけど、傍から見てると、そう見えるよ。ゆり様、本当は京へ行きたくないんじゃないかねえ? ゆり様は天真爛漫に見えるけど、結構気を使う人だからさ。殿の邪魔にならないように、って思って自分を押し殺してるんじゃないか?」


「でも、実の母親とも一緒に暮らせるし、それは本当に楽しみのようだけどな」

「それだよ。やっと再会できた実の母親とも暮らしたいけど、若とも一緒にいたい。でも、若の邪魔にもなりたくない。となると、もう自分では決められないから、若に京へ行くのを止めて欲しかったんじゃないかな?」


 礼次郎は、眉根を寄せて順五郎の顔を見た。


「それによ。若、じゃなくて殿……殿自身はどうなんだよ? ゆり様が京へ行っちまって寂しくならないか?」


 礼次郎は、順五郎から視線を逸らした。


「たった半年だ」

「本当に半年ですめばいいけどな……あの幻狼衆が相手だからな……それどころか、言いたくはないけど、城戸が攻め滅ぼされちまったらもう永遠に会えないぜ」


 順五郎が冗談めかして笑った。


「そんなことあるわけないだろ。俺は必ず勝ってみせる」


 礼次郎は、少しむきになって言い返した。


「冗談だよ、冗談」


 順五郎は笑って礼次郎をなだめた。


「でも残念だな。ゆり様が来てから、折角殿の顔が明るくなったのによ」

「え?」


 順五郎は、再び槍を取って構えると、鋭く前に突き出した。

 そのまま槍を振りながら言った。


「ふじが死んでから……まあ、それだけじゃないんだろうけど、殿は笑っていてもどこかに影が残っていた。時々、何か思いつめているような表情までしていることさえあった。だけど、ゆり様が城戸に来てからは、殿の顔からは暗い影が完全に消えたよ。口数が多くなったし、よく笑うようにもなった」


 順五郎は、何度か槍を振った後、その手を止めると、天を見上げた。


「俺はそれが嬉しくてさ……安心もしたんだ。ああ、やっとふじの死から解放されたんだなって……」

「…………」

「で、それはゆり様のおかげだ。ゆり様が、若をふじの死から解放してくれたんだ。違うか?」


 順五郎は礼次郎を振り向いた。


「まあ……そうかもな」

「だけど、今ここでゆり様が京に帰ってしまったら……半年は短いとは言え、その間にまた若はふじの死に囚われるようになってしまうんじゃないか、って思ってさ」


 礼次郎は、塀の向こうに見える桜の大木を見上げた。

 すでに枝には蕾が膨らんでおり、艶やかな粉紅色を帯び始めている。

 それを見つめながら、礼次郎は言った。


「そんなことねえよ……ふじの死はもう過去だ」

「ならいいんだけどさ。俺はちょっと気になってな」


 そう言うと、順五郎は再び槍を二、三度振った後、稽古をやめて館内へ入って行った。

 縁側に残された礼次郎は、そのまま桜の大木を見つめていた。だがやがて立ち上がると、中庭に降りて大手門の方へ向かい、大手門から外へ出た。

 そして、桜の大木の下へ向かうと、頭上の枝と蕾を見上げながら、しばし物思いに沈んでいた。


 その時、ゆりが大通りから大手門へとやって来た。

 彼女は、京行きの準備の為に町に用事があり、そこから戻って来たところだった。

 だが、大手門を潜る手前で、桜の大木の下に佇む礼次郎を見て、足を止めた。


 ――礼次、何をしているのかしら?


 ゆりは声をかけようとして歩きかけたが、ふと気付いて思い止まった。


 ――あの桜……


 ゆりの顔に影が浮いた。

 立ち止まったまま、桜の枝を見上げる礼次郎の背を見つめた。

 すると、別の方から、龍之丞がやって来て、礼次郎に何やら声をかけた。

 龍之丞は用事があって、礼次郎を探しに来たようであった。

 何やら、軍事のことを話しているらしい。


 それを見ると、ゆりは俯きながら大手門を潜った。

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