第191話 二つの愛に揺れて

「ええ。そして、私の屋敷へ」

「それって、伊川経秀つねひで様の……」

「もちろんそうよ」

「何故……突然?」


「昨日も言いましたけれど、京はあなたにとっても故郷です。やはり一度は連れて行きたいですし、私も折角会えたあなたとまた離れるのは悲しくて…… ならば、一度殿にも会わせたいことですし、共に参りたいと思いましてね」

「そうですか。でも、伊川経秀様は私のことはご存知ないでしょう?」


 ゆりの顔に不安が走る。


「ええ。でも大丈夫。殿は寛大なお方ですから、話せばきっとわかってくださるわ。それでも、もし何かあったとしても、私が必ずあなたを守りますから、安心してちょうだい」

「そうですか……」

「それにね。これにはもう一つ理由があって……昨日のことがあったでしょう?」


 と、瑤子は顔を曇らせた。


「ああ、昨日の……」

「葛西殿もおっしゃっていたように、今の城戸家を取り巻く状況だと、また同じような危ない目に遭うことが多いと思うの。だから、落ち着くまでは京の私の屋敷にいたらどうかな、と思ってね。あなたを一人ここに残して帰るのは、私は心配で心配でたまらないの」

「…………」


 ゆりは俯いた。

 瑤子の理屈、気持ちはよくわかった。特に、最後の言葉。


 自らのあやまちで離別してしまったとは言え、およそ十七年間、必死にずっとその行方を捜していた娘だ。実母としては、ようやく再会できたその娘を、今の政情不安な城戸に置いて行くのは、確かに心配であろう。


 しかし、城戸家が今、このような時だからこそ、逆に自分だけが安全を求めて京に行ってもいいものなのか。彼女自身は戦場に行ってないとは言え、薬の調合や鉄砲の弾薬、爆薬の製造など、彼女自身も仕事があり、礼次郎に言わせれば「ゆりも戦っている」のである。


 ――でも……それよりも……


 ゆりの顔が暗くなった。


 ――礼次郎と離れたくないよ。


 正直な気持ちである。


 しかし、折角出会えた本当の母親とまた別れるのも胸が痛い。

 これまで離れ離れであった時間が途方もなく長かっただけに、もっともっと一緒に過ごしたいと思う。


(どうしよう……)


 彼女の小さな胸は切なく揺れた。


 実母だからであろうか。瑤子はすぐにそれを察し、優しい言葉をかけた。


「あなたの気持ちはわかりますよ。礼次郎殿と離れたくないのよね? でも、少しの間、京へ行くだけよ。礼次郎殿たちが風魔幻狼衆を討ち滅ぼし、天哮丸を取り戻すまでのことよ」

「そう……ですね……でも……」


 瑤子はさらっと言ったが、その大望が成就するまでにどれだけの時間がかかるか、全く予測がつかないのだ。

 そもそも、礼次郎が本当に風魔玄介を討ち、天哮丸を取り戻せると言う保証も無い。

 それどころか、人の命定かならぬ戦国の世である。逆に礼次郎が風魔玄介や徳川家康に討たれ、城戸家が今度こそ完全に滅亡してしまう、と言うことも十分にあるのだ。


 ――もし、そうなってしまったら……


「私は……私……」


 ゆりは、俯いたまま、膝の上に押し当てた両手を震わせた。

 瑤子は少し寂しそうな顔となった後、そのゆりの両手に自分の両手を重ねた。


「ごめんなさいね。嫌だったら別に行かなくてもいいのよ? ゆっくり考えてちょうだい。私も今すぐに京へ帰ると言うわけではないから」

「はい……」


 ゆりは俯いたまま小さな声で答えた。


 斑になった雲が赤く染まる中を、鳥の群れが飛んで行く。

 その様を、ゆりは目で追っていた。


 中庭に面した縁側の簀子の上。

 ぽつねんと一人、座って空を眺めていた。


 一見するとぼんやりしているように見える。だが、その内心は乱れに乱れていた。


 脳裏に、昨日、幻狼衆に襲われた時の恐ろしい体験が蘇る。

 続けて、瑤子の言葉が耳の奥に響いた。

 ずっと探していた、ようやく会えた実母の言葉。


 ――母様……。


 まだ、養父武田勝頼、そして母代わりとなってくれた綾御寮人がいた時代。

 あの甲府での日々は、本当に幸せであった。


 勝頼らは、実の両親ではなくても、それ以上とも思える愛情を注いでくれた。

 時々、自分の実の両親は? と思うこともあった。

 しかし、勝頼らの愛情、仲の良い兄弟達との楽しい日々は、実の両親のことを忘れさせた。


 だが、天目山に武田勝頼が散り、甲斐源氏武田家が滅亡した後、ゆりは実の両親のことを意識することが多くなった。


(父上らはいなくなってしまった。でも、私にはまだ、どこかに本当の父母がいるはず)


 時々、ふとした時にそう考えるようになった。

 そして、思いも寄らないかたちで、実母に再会することができた。

 しかも、その人は、彼女自身が元々慕っていた素晴らしい女性だった。


 ――母上と一緒に暮らしたいよ……。


 ゆりは溜息を一つつくと、中庭に降りた。

 西の方角の空を見上げた。赤かった空には、すでに暮色が広がり始めていた。


 ――でも、でも……礼次あのひととも離れたくない。どうすればいいの……?


 ゆりは、膝を折ってしゃがみ込んだ。

 込み上げてくるものを堪えきれず、両手で顔を覆った。

 嗚咽が響いた。



 その翌日、礼次郎らが城戸へ戻って来た。


 空城の計で一矢を報いたが、手痛い敗戦をしたことは、すでに早馬を出して知らせてある。

 だが、茂吉やおみつ、ゆりや瑤子など、出迎えた人々は、とにかく礼次郎らが無事であることを喜んだ。


 ゆりは、目に涙を浮かべて礼次郎の帰りを喜んだ。


「大袈裟だな」


 礼次郎は呆れたように苦笑する。


「だって、大敗したって聞いたから。相手はあの徳川家康だし。礼次の顔を見るまでは心配で心配で……」

「ははは、じゃあ顔を見られたから安心だろう? もう泣くなよ」

「何よ、馬鹿にして……本当に心配だったのよ」


 ゆりは口を尖らせた。

 茂吉はそのやり取りを見て笑っていたが、急に険しい顔となると、


「しかし殿、笹川殿が行方不明と聞きましたが」


 すると礼次郎も一転、表情を曇らせた。


「ああ、そうなんだ。そもそも、生きているのか討ち取られてしまったのかすらわからなくてな」

「あの千蔵が……」


 ゆりも深刻そうな顔となった。


「喜多に探ってもらうつもりでいる」


 すると、喜多が言った。


「すでに諜者は放ってあります。そこで礼次郎様、早速ですが、先程一つ、気になる情報が届いたのですが」

「おお、早いな。何だ?」


 礼次郎が後ろを振り返った。


「はっ。普段からあの丸蔵山で木を切っているきこりの話なのですが、あの日、戦が終った後に、不気味な大男が若い男を肩に担いで山中を飛んで行くのを見た、と」

「何?」

「その若い男が千蔵かどうかはわかりませぬ。しかし、もしかしたら、と言うことはありえましょう」

「そうだな。しかしその大男ってのは何者だ?」

「樵は、付近では見た事のない男だと言っていたそうです。とにかく驚くような巨漢で、顔は鬼の如くに恐ろしかったとか。樹から樹を自在に飛んで行ったので、樵はきっと天狗だと言っております」


 すると順五郎が横から言った。


「天狗だ? そんな馬鹿な。樹から樹を自在に飛んで行くことからして、それは忍びの者じゃねえのか?」

「私もそう考えています」


 喜多が頷いた。


「と、なると、徳川の伊賀衆か?」


 礼次郎が顎に手をやった。


「その可能性はございます。しかし、先日も私が探って参りましたように、徳川軍はあの戦では全員討ち捨てを厳命しており、徳川の陣中に千蔵を捕縛したような様子も全くありませんでした」

「そうか……」


 礼次郎は腕を組んで考え込んだ。


「とにかく、引き続き探りますので、もうしばらくお待ちくださりませ」

「わかった、頼むぞ」

「はっ」

「では茂吉。早速手紙に書いてあった例の件だ」


 と、礼次郎は茂吉と共に館内に向かって歩き出した。

 喜多はゆりに歩み寄って微笑んだ。


「我らが不在の間、何事もございませんでしたか?」

「うん、そう言いたいところだけど、実はね……」


 ゆりの声色が低くなった。

 気付いた礼次郎が立ち止まり、振り返った。


「何かあったのか?」

「うん」


 ゆりは、一昨日に風魔幻狼衆の者に襲われたことを話した。


「俺達がいない時を見計らってゆりを狙うとは、何て卑怯な奴らだ!」


 聞き終えると同時、礼次郎が激怒した。

 すると、出迎えの人々の端の方にいた葛西清雲斎が冷静な顔で、


「元々何でもありの風魔から出た連中を敵にするんだ。この先、こういうことはいくらでも起こると覚悟しておく方がいい」

「ですが……」


 礼次郎の怒りはおさまらない。

 眼を怒らせ、南方の空を睨んだ。


「ゆり様、お怪我などはございませんでしたか?」


 喜多が心配そうにゆりの全身を見回した。


「大丈夫よ。葛西様が助けてくださったから」


 ゆりは微笑みながら答えた。

 礼次郎は、清雲斎の方に歩み寄って、礼を言った。


「お師匠様、ありがとうございます」

「礼には及ばねえ。ちょっとした運動だ。だけどな。今後は本当に用心しなくちゃならねえぞ。喜多ちゃんを間諜かんちょうや戦場での働きに使うなら、ゆりちゃんには他の信頼できる護衛をつけておく方がいい」

「では、お師匠様……」


 と、礼次郎は言いかけたが、清雲斎は即座に断った。


「おっと、俺はごめんだ。そんな役目は向いてねえ。他に探すんだな」

「はい、そうですよね」


 この師匠がそんなこと引き受けるわけがない。一瞬でも期待したのが間違いだった、と、礼次郎は苦笑した。


「まあ、しかしとにかく、無事で良かった。瑤子様も」


 礼次郎は、ゆりと瑤子を見て安堵の溜息をついた。

 だがそこへ、ゆりが進み出て来て、


「ねえ、礼次。ちょっと、お話があるんだけど」

「うん、何?」

「ここじゃ、ちょっと……」

「そうか。じゃあ中で」


 二人は、館内に入り、礼次郎の居室に移動した。


 そこで、ゆりは、瑤子に一緒に京へ行こうと誘われていることを明かした。

 礼次郎の表情が強張り、無言になった。突然のことに、頭の中がまとまらず、言葉が出ないようであった。

 下を向き、何か考え込んだ。

 しばらくして、下を向いたまま呟くように言葉を出した。


「都か。遠いな」

「うん」

「…………」

「母上は、折角再会できた私と離れたくないと言うのが一番の理由なんだけど、一昨日の風魔に襲われたことが結構大きかったみたいで、今後もこういうことが起こるかも知れないから、城戸の情勢が落ち着くまでは安全な京に避難していたらどうかって」

「なるほどね」

「でもね。皆戦っているんだし、その中で私だけ安全を求めて京へ行くなんて、卑怯だよね。だから私……」


 と、ゆりが言いかけたところで、


「いや」


 と、礼次郎が顔を上げ、ゆりの目を見つめながら言った。


「瑤子様の言う通りだ。京へ行く方がいいかも知れない」

「え……?」


 ゆりの白い顔がひきつった。

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