第190話 愛おしきもの

 翌日から、礼次郎らは徳川軍の再度の来襲に備え、諸山城の防備を固めながら迎撃策を練っていた。


 しかし、その予想に反して、数日後、徳川軍は南方へと退いて行った。


「城戸軍はもう十分に叩いた。これで当分はこちらへは出て来れないであろうからな」


 と、言う家康の言葉が表向きの理由であるが、実際には徳川軍も礼次郎の空城の計を逆手に取った奇策によって手痛い損害を受けていたからであり、また、それにより「城戸の小倅侮り難し、攻め滅ぼすにはより周到な準備が必要」と言う気持ちが生まれたからでもある。


 徳川軍は、遠く国許を離れて遠征して来ている。

 城戸礼次郎の首を取るのも目的の一つであるが、最大の目的である天哮丸奪取の為、七天山を攻略するまではできるだけ兵力の損失を抑えたかった。しかし今回の諸山道の戦いで、本気で城戸軍を攻め滅ぼして礼次郎の首を取ろうとすると、こちら側もどれだけの損害が出るかわからなくなった。ならば、当分は動けぬであろう城戸軍は放っておいて、七天山攻略に全力を注ぐ方がよい、と判断したのだ。


 それだけではなかった。徳川軍が城戸軍に反撃を受けたことを知ってか、風魔軍が徳川方の城を攻撃する構えを見せたのだ。


 家康は、全軍を率いて再び南下して行った。


 それを見て、礼次郎は一旦城戸へ戻ることとした。

 実は数日前、留守を預かる茂吉から早馬が来ており、礼次郎に自ら処理して欲しい急ぎの事案があると知らせて来ていたのだ。

 礼次郎は、暫時、壮之介を諸山城に置いてこの一帯を任せることとし、順五郎と咲、龍之丞、喜多らと共に城戸へ帰った。


 今回の戦は、最後に胸のすくような反撃を家康に与えたとは言え、大きく見れば敗戦である。しかも、今や無二の家臣であり、仲間とも言える笹川千蔵の生死さえわからない。


 ――負けだ。敗戦だ。


 礼次郎は天を睨んだ。

 彼は、多くの反省を胸のうちに繰り返しながら、城戸へと戻ったのであった。




 その城戸では、同じ頃、一つの事件が起きていた。


 生き別れた母娘であることが判明したゆりと瑤子は、城戸の館で母娘としての日々を過ごしていた。

 会話などの端々に、未だにぎこちなさは残る。当然である。およそ十七年間も離れていたのだ。ゆりを産んで赤子の一時期を育てていた瑤子はまだいいが、ゆりに至っては母親としての瑤子の記憶は皆無である。突然母娘の関係になろうとしても、無理な話であった。

 だが、不自然ながらも、二人は懸命に互いの間に横たわる心の距離を埋めようとしていた。


 その日の夕暮れ時であった。

 母娘は、二人で城戸の館の裏の山に登っていた。

 城戸の館と、城下の町を一望できる台地に出て、眼下を見下ろした。


「綺麗」


 ゆりは、思わず嘆息した。

 復興しつつある城戸の町は、あちこちから炊煙を立ち上らせながら、黄昏の金色に染まっている。


「本当ねえ。綺麗だわ」


 瑤子も同意して、感嘆した。


「でも、小さいでしょう?」


 ゆりが町を見下ろしたまま笑うと、瑤子は微笑した。


「そうねえ」

「でしょう。私は甲斐府中で育ちましたが、駿府や小田原に行ったことがあるので、いつも甲斐府中を小さくて狭いと思っていました。でも、ここはそれ以上に遥かに小さくて……田舎」


 ゆりは苦笑した。しかし、そこには暖かい響きがある。


「でも、ここが今は私の場所なんです。流れ流れてようやく見つけた、大切な場所」

「そう」

「甲斐の府中も懐かしくて、いつかまた行きたいと思っているんですけど、今はここにいるのが堪らなく楽しいの」


 ゆりは、深い睫毛を伏せて、愛おしげに眼下の町を眺めた。

 その横顔を見た瑤子は、一瞬、複雑そうな顔となったが、すぐに微笑を戻した。


「良かったわね。私も安心だわ。でもね、ゆり……一度、京に来てみない?」

「京へ?」


 ゆりが驚いて瑤子を振り向いた。


「ええ。私が生まれ育った都よ。一時期は、遥か昔のような華やかさはなくて、都とは名ばかりの荒れた酷いところだったけど、最近はかなり良くなって来たのよ。あなたの故郷にもなるわけだし、一度見せたいの」

「都かあ……」

「行ったことないでしょう?」

「ええ」


 ゆりが頷いた時だった。


 背後で、不自然な葉擦れの音がした。

 おかしい――気付いたゆりが振り返ると、案の定、そこには柿渋色の上下を着た二人の不審な男。

 二人のこちらを見る目には不気味な光がある。


「誰……?」


 ゆりは顔色を変え、咄嗟に瑤子を後ろに隠すようにした。

 瑤子も青い顔となる。


 男二人は、獲物を見定めるような表情でゆりと瑤子を見比べた。


「この若い方の娘に間違いないな」

「ああ。ようやく機会が訪れた」

「もう一人の年増の方はどうする?」

「見目は悪くねえ。売り飛ばせばいいさ。抵抗するような殺しちまえ」


 男二人はにやりと笑った。


「母上、逃げて」


 ゆりは震えながら瑤子に言ったが、瑤子は顔面蒼白ながら拒否した。


「そのようなことはできません。ここであなたを置いて行くわけにはいかないわ」

「そんなこと言っている場合じゃありませんよ。さあ」


 ゆりが瑤子を急かした時、男二人が飛びかかって来た。


 ゆりは咄嗟に瑤子を突き飛ばした。そのまま、瑤子は悲鳴を上げて走った。だが、そこへ躍りかかった男が瑤子の首筋に手刀を食らわすと、瑤子は一瞬で気を失って倒れた。


「母上!」


 ゆりは悲鳴を上げて駆け寄ろうとした。だがその時には、すでにもう一人の男がゆりに飛びかかっていた。男は、慣れた手つきでゆりを地に組み伏せた。


「離して!」


 ゆりはもがくが、男の強い力には抗しえない。


「大人しくしろ。乱暴をしようと言うのではない。ちょっと七天山まで来てもらうだけだ」


 男が低い声で言った。

 瑤子を気絶させた男もやって来て、懐から手拭いを取り出した。


 ――え? 七天山? この人たちはもしかして風魔の……。


 ゆりが驚いていると、その口に手拭いが当てられた。

 つん、と、鋭い匂いが鼻についた。


 ――毒!


 咄嗟に感づいたゆりは、吸い込んでしまわぬように、必死で呼吸を止めた。

 しかし、それにも限界がある。しまいには堪えきれず、口を開いてしまった。

 瞬間、不快な匂いが鼻から体内に抜けたかと思うと、頭の奥に痺れを感じた。


 ――ああ……礼次……。


 ゆりの意識が遠くなって行った。


 しかしその時、背後から風が起こるような音が響いたかと思うと、悲鳴が上がった。同時に、ゆりの口に当てられていた手拭いがずり落ちた。続いて、その手拭いを当てていた男が横に吹っ飛んだ。


「何奴だ!」


 もう一人の男が驚いて振り返る。だが、男はその瞬間には刃光に胸を貫かれていた。


 解放されたゆりが驚いて見上げると、そこには葛西清雲斎が立っていた。


「危ねえところだったな」


 清雲斎は事もなげな顔で血刀を振った。


「葛西様……あ、ありがとうございます」


 ゆりは礼を述べて半身を起こした。その顔はまだ恐ろしさにひきつっている。


「何とか無事なようだな」

「ええ……助かりました。でも、どうしてここに?」

「町外れの茶屋で飲んでたんだけどな。突然何か嫌な予感がしたから、急いで走って来たんだよ」

「え……? 嫌な予感って……こうなることがわかったんですか?」

「ああ」


 ゆりは先程の恐怖を忘れ、驚愕した。

 何故このようなことが起こるとわかり、しかも場所までわかったのだろう?

 だが、葛西清雲斎は普通の物差しで図れる人ではない。この人なら、それもおかしいことではないかも知れない。ゆりは納得した。


「起こしてやりな」


 清雲斎は、倒れている瑤子を顎で指した。

 ゆりは急いで瑤子に駆け寄り、その身を起こして揺さぶった。


「母上、母上。大丈夫ですか?」


 瑤子は、ゆっくりと意識を取り戻した。


「ああ……ゆり……あ!」


 瑤子は気が付くと、慌てた様子でゆりの身体を触った。


「大丈夫だったの? 何か変なことされてない?」

「ええ。何も。葛西様が助けてくれたのですよ」


 瑤子は、そこで初めて、清雲斎が立っているのに気付いた。


「そうでしたか。ありがとうございます」


 瑤子は立ち上がって礼を言ったが、清雲斎はにやりとして頷いただけで、すぐに鋭い眼光で周囲を見回した。

 その後、しばらく耳を澄ませていたが、やがて、


「他にはこいつらの仲間はいねえようだな」


 と言って、懐紙で刀を拭って納刀した。

 瑤子が青ざめた顔で、倒れている二人の男を見て言った。


「この者たちは何者なのでしょう? 何故私たちを狙って?」


 ゆりが、恐る恐る二人の男の顔を覗き込んだ。


「どうも、私のことを知ってて狙ったようでした。七天山へ来てもらう、と言っていたので、幻狼衆でしょうか」


 清雲斎は膝を折り、二人の男を観察した。


「うむ……これは風魔忍びだな。しかも幻狼衆の」

「幻狼衆……でも、何故私を……」

「まあ、恐らくゆりちゃんをさらって人質にして、何かいい交渉道具にでも使おうと企んだのかもしれねえな」

「そんな卑怯なことをするんですか」

「風魔の連中は、元々は目的を達成する為なら手段を選ばない連中だ。どんな汚い手でも使う。いや、そもそも奴らの中には、汚いだとか卑怯だとか、そんな概念はほぼ無いに等しいんだ。それが本来の風魔だ」

「そんな……」

「だが、これは風魔玄介の指示じゃねえだろうな。恐らくは、功に逸った部下の小者どもが独断でやったことだろう。まあ、今日は無事で良かったが、今後は城戸領内でもあまり一人で出歩かねえ方がいいかもな」

「はい」


 ゆりは、複雑そうな顔で、二人の男を見下ろした。




 その翌日、ゆりは瑤子に笛の指導をしてもらっていた。

 ゆりの笛の腕前は、特に人に教えてもらうことがないぐらいに十分であるが、若いので曲目をあまり知らないと言う欠点があった。

 それ故に、瑤子は自分が知っている曲をゆりに教えていた。


 ゆりは、教えられた通りに笛の上で指を踊らせる。

 哀愁を帯びた旋律が、零れるように館内に響き渡る。

 それを、それぞれ別の場所で耳にした茂吉、おみつなどは、思わず足を止めた。


「ゆり様かのう」

「良い曲。私も教えてもらいたいなあ」


 おみつは、目を閉じて聴き入った。


 やがて、ゆりは一曲を吹き終え、笛を口から離した。

 向かい合って聴いていた瑤子は、にっこりと微笑んだ。


「うん、いいわね。まず問題ないわ」

「そうですか。良かったあ」


 ゆりの満面に、はにかんだ笑みが広がった。


「歌は下手だけど、音曲の方は本当に上手ね。元々手先が器用だからかしら」

「いやだ。歌のことは言わないでください」

「ふふふ、冗談よ」


 瑤子は手で口元を隠して笑った。


「それにしても、あなたは音曲の才能があるかもしれないわね。上手なだけじゃないわ。不思議なことだけど、あなたが吹くと、同じ曲でも全く違う曲になるのよ」

「そのようなことがあるのでしょうか?」

「ええ。今の曲なんかは、元々は悲しい曲ですけど、あなたが吹いたら優しさが滲んだわ。あなたらしい優しさがね。あなたは、曲に心を込めることができるのよ。ただ吹くのが上手な人は沢山いますが、こういう人はなかなかいないのよ。そして、それこそが音曲の才能なの」

「へえ……そうなんだ」


 抽象的な話であるが、言っていることはわかった。

 しかしそれよりも、母に褒められて、ゆりは嬉しくなった。


「ふふ。もう一度吹いてみます」


 ゆりは、再び笛を取って吹き始めた。

 そんな娘の様子を、瑤子は微笑みながら見ていたが、ふと一瞬、暗い表情になって何か考え込んだ。

 やがて、ゆりに静かに話しかけた。


「ゆり。一つ大事な話があるのですが」


 ゆりは、笛から口を離した。


「何ですか?」

「あのね。私は近々、京へ帰ろうと思います」

「え? もう?」


 ゆりは驚いて聞き返した。


「ええ。もう、と言っても、ここに来てすでに二か月以上が経つわ。京には使いと手紙を出してあるとは言え、いつまでもここにいるわけには行きませんから」

「そうですか……」


 ゆりは、泣きそうな顔となった。

 その事情は十分に理解している。瑤子は、伊川経秀の正室であり、その伊川家の屋敷は京にあるのだ。

 だが、実際にそろそろ帰る、と告げられると、とても悲しかった。折角再会できた実の母なのである。機会を作ってどちらかが会いに行けばいいとはわかっているが、それでもここで別れるのは、悲しく、辛いことであった。


「帰ってしまうのですね」


 ゆりは、ついに込み上げて来るものを堪えきれず、大粒の涙を零してしまった。


「泣いてくれるの?」

「ええ。最近ようやく、本当の母だと実感できるようになって来たので……寂しい」

「ありがとう。嬉しいわ。そして私も寂しい。でもね、いつまでもここにいるわけには行かないから」

「わかっています。でも」


 ゆりは、袖で目を拭った。

 拭っても拭っても涙が溢れて来る。

 瑤子は切なげに見守っていたが、やがて、切りだした。


「それでね。ゆり。母から一つお話があるのですが」

「何でしょうか」

「私と一緒に京へ行ってみない?」

「え? 京へ?」


 ゆりは驚いて泣き顔を上げた。




※作中の舞台は上野国碓氷郡から甘楽郡の一帯ですが、一部を除いて地名や地形等は架空ですので、簡易地図を作成しました。以下のリンクからご確認ください。

https://twitter.com/Teru35884890/status/1110174603043721218

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