第171話 開戦前夜

 幻狼衆の大勝利と、敗北した藤田氏邦ら鉢形衆が城戸へ矛先ほこさきを向けたと言う知らせは、すぐに城戸にもたらされた。

 知らせを受けた城戸の館内はにわかに騒然とする。


「鉢形衆三千に一千で勝つなんて尋常じゃないぜ」


 順五郎が驚けば、


「風魔玄介は兵法にも通じておるようだな」


 壮之介は眉根を寄せた。


「でもこれで幻狼衆を攻めるどころじゃなくなったわね。北条軍が先に攻めて来るなんて……」


 ゆりは不安を隠しきれない。

 だが、ただ一人、龍之丞は冷静に、しかしどこか嬉しそうに言った。


「まあ、遅かれ早かれ北条は一度はここに攻めて来るのはわかっておりました。それが予想よりも早かっただけです。ちょうどよいでしょう。ここで北条軍を叩き、城戸家ここにあり、と言うのを関東に知らしめておきましょう」


 礼次郎は龍之丞を見やる。


「俺達はたった四百、相手は一千二百だ。勝てるのか?」

「幻狼衆だって三倍の鉢形衆はちがたしゅうに勝ったのです。我々にできぬはずがございますまい」


 龍之丞は涼しげな笑みを見せた。


「こういう事態に備えた作戦は、あらかじめある程度は練ってあります。後は細部を調整するだけ……それをこれから行いたいと思いますので、私は下がらせていただいてもよろしゅうございますか?」


 礼次郎はうなずき、それを許した。


 館内の西にある自室に戻った宇佐美龍之丞は、早速文机に向かった。

 あごでながら、広げた地図を見つめる。

 撫でる顎には、以前のような無精髭ぶしょうひげは無い。

 城戸に来た時に、髭は全て綺麗に剃り落す習慣にしたのだ。


 後年、江戸時代には男のひげは嫌われ、武士も町人も男はほとんど髭を生やさなくなるのだが、戦国時代の武士は髭が武勇の象徴のようなもので、武士は皆、髭を生やすのが当たり前であった。


 それ故、龍之丞も、元々は口髭を生やそうとしていた。だが、彼は生来髭が薄かった。伸ばそうとしてもどうも格好がつかないのである。墨で描いてみたり付け髭をしたこともある。だが、それらはむしろみっともなく、弱弱しく見える。

 なので、もう常識は無視し、いっそのこと綺麗に剃り落としてしまうことにしたのだ。


 ――髭が薄いと言えば、礼次郎殿もだな。まあ、あの方は髭が似合わないが。


 龍之丞はふふ、と笑った。


(髭が無いと、武将としての威厳が無い……だが、髭なんぞ無くとも、その姿を見ただけで恐れるような男に俺がしてみせる)


 龍之丞の心中に、興奮にも似たぞくぞくとした喜びが膨れ上がっていた。


 かつて夢見た、天下の覇権をかけるような大戦おおいくさではない。上州の小さな一地域での、小さな戦である。

 しかし、城戸礼次郎と言う若き大器を、育てるように補佐し、小勢力ながらもその名を天下に知らしめる。

 充分に男の浪漫を搔き立てられる魅力的な仕事である。

 龍之丞の身体に流れる、伝説的軍師の血が沸き立っていた。

 

 龍之丞は、再び地図の上に鋭い目を走らせた。


 彼我かれわれの戦力を思う。四百対一千二百。圧倒的に不利である。本来ならば戦うべきではない。


 古来より、寡兵で大軍に勝った例と言うのはいくつもある。近いところであれば、河越夜戦、厳島の戦い、そして桶狭間の戦い、などなど……だが、そのような事は、熟練の戦術家であっても滅多に成功するものではない。成功すれば、それは派手で気持ちの良いものであろうが、本来は負ける確率の方が高いのである。


 用兵の基本は、あくまで相手より多くの兵を揃えて戦うことにあり、少なければ可能な限り衝突を回避しなければならないのである。

 龍之丞はあくまでそう考えており、それを軍事行動を起こす際の基本前提としていた。


 ――だがしかし。


 龍之丞は思う。


(ここで、あえて四百の兵で一千二百に勝つ。しかも夜襲などの奇襲ではない。正面から戦い、叩き潰すのだ。新生城戸家の最初の戦で、四百の兵で北条軍一千二百人に勝ったとなれば、城戸頼龍の名声は一気に高まる。さすれば、この後の戦略で何かと有利になるだろう)


 文机の脇にある軍配を手に取った。表には"毘"の一字があり、裏には"龍"の一字がある。

 城戸に来る際、上杉景勝の許可を得て、上杉謙信以来、上杉家伝統の軍配と同じに作ったのだ。


(城戸は小さな盆地だ。北と南に二つの入り口がある。ここを突破されるとまずいことになるが、逆にここを固めれば防御はしやすいだろう。だが、ここはあえて外で決戦だ)


 龍之丞は、地図上の南に視線を移した。

 そして、時折何か頷きながら、思案に沈んで行った。

 しばしの後、作戦はほぼ固まった。しかし、最後に何かが足りないと感じた。


(礼次郎殿と相談するか)


 龍之丞は地図を丸めて立ち上がった。



 一方、礼次郎の自室。

 ゆりが、礼次郎の左肩の傷を診ていた。

 縦一文字に走る紫色の傷痕きずあとは未だ生々しい。だが、傷痕はすでに周囲の皮膚に馴染んで来ていた。

 ゆりが感嘆の声を上げる。


「流石に武想郷の薬は凄いわ。あれだけの傷がもう九割方治ってる」


 あの時、武想郷の薬師くすしから抜群の効果があると言う薬を貰い、以来、毎日その薬を塗って治療を行っていた。


「確かに凄いよ。痛み止めを塗らなくても痛みを感じないしな」

「ええ。これならもう何も心配いらないわ」

「良かった。戦でも肩を気にせずに剣を振れるな」


 礼次郎は笑顔で小袖をまくり上げた。

 だが、ゆりの顔に暗い不安の色が浮かんだ。


「戦……大丈夫かな? 三倍の敵よ」


 礼次郎はゆりを見て笑った。


「心配いらないよ。龍之丞が作戦を考え、順五郎や壮之介、千蔵、咲、喜多がいる。そして俺がいる。三倍の敵だって負けるものか」

「うん」


 ゆりは複雑そうに笑った。

 そして、一時の沈黙の後、そっと横から礼次郎の左腕に抱きつき、頭をもたれさせた。

 礼次郎の身体が少し硬くなった。


「死なないでね……」


 ゆりは目を伏せて呟くように言った。


「大丈夫だよ」


 礼次郎は笑顔を作って答える。


「貴方もそうだろうけど、もう大切な人が死ぬのは嫌だから」

「わかってるよ」

「うん」


 その後、沈黙と静寂の時が流れたが、やがて、ゆりは顔を上げて礼次郎を見た。

 その視線に気付いた礼次郎も、顔を下ろして見返すと、ゆりは目を閉じて顔を寄せて来た。頬は桜のように染まっている。

 礼次郎も顔を寄せる――唇が触れ合った。柔らかく感じる互いの温もり。

 そのまま、礼次郎は向きを変え、ゆりの肩を抱き寄せた。


 しかしその時、ふすまの外から声が聞こえた。


「礼次郎殿、少しよろしいですか?」


 龍之丞の声であった。


 礼次郎とゆりはびくっと身体を震わせ、互いを放してぱっと離れた。

 礼次郎はどきどきしながら、外に向かって答える。


「どうした?」

「戦のことで、少し相談が」


 礼次郎は背筋を伸ばした。

 ゆりも赤い頬で俯いたまま、着物の乱れを正した。


「わかった。入ってくれ」


 礼次郎が答えると、龍之丞が襖を開けて入って来た。


「失礼いたします。おや? ゆり殿もおられましたか」

「え、ええ……礼次郎の肩の傷を診ていたのです」

「ほう、それはそれは……ああ、もしかしたらお邪魔でしたかな?」


 龍之丞は何かを察したのか、わざとらしく悪戯っぽく笑った。こう言う表情を見せたのは久々である。


「な、何もねえよ。で、相談とは?」


 礼次郎は無理矢理に話を変えようとしたが、その時、龍之丞は、はっとしてゆりの顔を見た。


「そうか、ゆり殿……」

「何か?」


 ゆりは気まずそうに、視線を外している。

 だが龍之丞は、うんうんと頷きながら、一人嬉々として言った。


「そうだ、ゆり殿だ。是非ご協力願いたいことがあるのですがよろしいですか?」




 翌日、広間で軍議が行われた。

 龍之丞は、広げた地図の前で、各人に指示を言い渡した。


「決戦の場は、城戸の東南一里半、城戸盆地に通じる道の先に広がる高中原たかなかはら


 まず言うと、壮之介が異を唱えた。


高中原たかなかはら? 樹木の無い平野では、数の多い方が有利。山道などに引き込んで戦う方が良いのでは?」


 しかし、龍之丞は柔らかい口調で否定した。


「確かにその通りです。しかし、先日の幻狼衆との戦で、藤田氏邦は山道で夜襲を受けて敗北した。山道や峠など、狭い場所は警戒するでしょう。ですが、高中原のような見通しの良い広い場所なら安心して動くはず。今回はそこをつきます」


 龍之丞は続ける。


「まず、美濃島咲殿。貴方に先鋒となっていただきます」

「私?」


 咲が気怠そうに答えた。


「はい。咲殿には百の騎兵を率い、高中原の南の街道で鉢形勢を待ち受けていただきます。鉢形勢が現れたら正面から突っ込み、適当に戦った後、押されるふりをして退却していただきます」

「偽退却ね。まあよくある手だけど、百で一千二百相手にできるかしら。差がありすぎるから下手したら退く前に全滅よ」

「難しいですが、やってもらわねばなりません。いや、咲殿ならできるでしょう。貴方はかつて武田騎馬軍の中枢を担った美濃島衆だ。その武田流騎馬術で越後騎兵を率いるのです、できないわけがない」


 龍之丞は悪戯っぽく笑った。


「言うわね……まあ、やってみるわ」


 咲は苦笑しながら頷いた。


「そして、敵を引き付けながら、高中原たかなかはらを真っ直ぐに退いてください。で、ここで礼次郎殿です」

「俺か」


「礼次郎殿も百の騎兵を率いて、高中原の中央で敵を待ち伏せします。そして、咲殿が敵を引き付けながら退いて来たら、それに隠れるように左側に大きく回り込み、咲殿を真っ直ぐに追って来る敵軍の側面を襲ってください。しかし、これもやはり、適当に戦った後に押されるふりをして退いてください。そして、礼次郎殿、咲殿、共に高中原を真っ直ぐに退き、その先の城戸盆地に通じる林道の奥まで退いてください。敵は追って来るでしょうが、恐らくは林道までは入って来ず、高中原の中央まで退くでしょう」

「わかった」

「そこで千蔵殿」

「はい」


 千蔵が頭を下げる。


「千蔵殿は三十人の弓兵を率いて高中原の南東の林に潜み、鉢形勢が高中原に戻って来たら、街道を通ってその前方に姿を現してください。鉢形勢は殺到してくるはずです。そして鉢形勢が中ほどを過ぎた頃、火矢を放ってください」

「承知した」


 千蔵は頷いた。


「順五郎殿、壮之介殿、あなた方にはそれぞれ残りの歩兵で高中原の西にある山に潜み、高中原に火の手が上がったら駆け下り、真っ直ぐに鉢形勢の側面に突っ込んでいただきたい」


 すると、順五郎が手を上げて、


「待ってくれ。火の手って、千蔵たちの火矢で鉢形勢を火に包むってことか? たった三十人が放つ火矢でできるのか? しかもその時の距離や時間的に火矢は一回ぐらいしか撃てないだろ。無理じゃないか?」

「うむ、それがしもそう思うが」


 壮之介も同意し、眉をしかめたが、龍之丞は涼しげな顔で微笑んだ。


「いえいえ、必ず火はつきます。しかも敵が逃げ惑うほどな猛火。ご安心くだされ」

「そうか。そこまで言うなら信じるけどよ」


 順五郎と壮之介の二人は、不思議に思いながらも頷いた。


「そして咲殿、礼次郎殿。お二人も、高中原に火の手が上がるのを見たら、林道より引き返し、鉢形勢の背後を襲ってください」

「わかった」

「最後に喜多殿。高中原の東に増田川と言う川がある。貴方はこの後、配下の下忍げにんたちを連れてすぐにその上流に向かい、せきを作って流れを止めてくだされ。そして、決戦の日、下流で人馬のいななきが聞こえ始めたらすぐにせきを切るのです」

「承知いたしました」


 こうして、龍之丞は全ての指示を終えた。



 翌日、十二月二十八日午前。

 高中原の南方の街道上に、鉢形勢が現れた。


「この先が城戸か」


 藤田氏邦の問いに、国峯城の小幡信貞が出してくれた将、井森由直よしなおが答えた。


「もう一里半ほどです」

「あと少しじゃな。うっ?」


 前方を見つめる氏邦が目を細めた。

 左右に森がある街道のその先、一団の軍勢が現れたのである。


 その軍勢は、美濃島咲率いる百の騎兵隊であった。

 武田家時代と同じ赤い甲冑を着込んだ咲は、馬上で大声を張り上げた。


「待っていたぞ。われは美濃島咲! いざ勝負! かかれっ!」


 咲は太刀を引き抜き、勇壮な号令と同時に馬を駆った。

 百人の騎兵、一丸となって鉢形衆の正面に突撃した。

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