第170話 風魔玄介対藤田氏邦

 だがしかし――


 七天山まであと二里ほどと迫った、籐高山とうこうざんと言う山の中。

 藤田氏邦ら鉢形衆はちがたしゅうが上り坂の山道を上っていると、不意に頭上から沢山の矢が降って来て兵士らに次々と突き刺さった。


 幻狼衆の奇襲であった。鉢形衆らは動転し、悲鳴を上げた。

 月光を照り返し、矢は無数の銀線となって降り注いで来る。更に、続けて周囲の物陰、木陰、茂みより黒装束の男らが飛び出し、白刃を煌めかせて襲い掛かって来た。

 咄嗟のことに兵士らは反応できず、混乱のうちに斬り伏せられて行く。


「おのれ、待ち伏せていたか!」


 藤田氏邦は悔しげに周囲を見回したが、相手の奇襲部隊が少数であることに気付き、大声を張り上げた。


狼狽うろたえるでない、敵は少数じゃ、落ち着いて戦えい!」


 だが、鉢形衆は鉢形の黒備えと名高い、全員黒の甲冑で統一した姿。幻狼衆もまた、黒装束姿である。そして深夜の真っ暗闇。これらが重なり、鉢形衆は同士討ちを始める者らが出る始末で、ますます混乱に陥った。


「殿、これは行けません。ひとまず退きましょう」


 安藤久五郎が氏邦に進言した。だが、氏邦は叱り飛ばす。


「退く? 七天山は目の前じゃ。退くならば一気にこの先を進み、七天山まで行く方がよい」

「いえ、玄介は我らの夜襲を読み、ここで待ち伏せていたのです。ならばこの先にもきっと何か罠があるのではありませぬか? ここは退くのがよろしいかと」

「む……確かにそうじゃな」


 氏邦はその道理に納得すると、


「よし、では退け! 退けっ!」


 声をからして怒鳴り、馬を乗り回して兵をまとめると、幻狼衆の奇襲部隊をさばきつつ、元来た道へと戻って行った。その混乱の収拾ぶりは流石であった。

 だが、その山道を駆け下りて行った先――


「何? 何故ここにおる?」


 ふもとに現れた黒衣の軍団。氏邦らは仰天した。

 その軍団の先頭に立つのは幻狼衆頭領、風魔玄介。

 玄介は月光を背にしてにやりと笑った。


「ふふ……籠城策は誘いだよ。我らが籠城すると知ったならば、お前らはきっと夜襲急襲をかけるだろうからな。そこに逆に奇襲を仕掛けたと言うわけさ」


 そして、玄介は大音声だいおんじょうで命令した。


「かかれっ! 敵は陣形も整っていない!」


 号令一下、玄介配下の幻狼衆軍団が鉢形衆に殺到した。

 驚き戸惑っていた鉢形衆は、隊列も乱れたままに迎え撃つことになった。そこへ更に、先程山道で奇襲を仕掛けて来た幻狼衆の部隊も追いついて来て背後より襲った。


 混乱のうちに前後より挟撃される鉢形衆。怒号と悲鳴が飛び交う中に、鮮血と剣光で夜闇が赤と銀に染まって行き、その下に鉢形衆の兵士らが次々に倒れて行く。


 追い散らす幻狼衆の勢いは凄まじい。だが、中でも先頭に立って剣を振るう風魔玄介の武は際立ったものがあった。

 彼自身、元々腕は立つが、元来先陣に立って豪勇を振るうような猛将の類ではない。だが、今日の彼は、いさめる側近らのげんも聞かず、


「俺には天哮丸があるのだ。何ら恐れるものはない!」


 と、軍の先頭に立って天哮丸を縦横に振るい、眼前に立つ敵兵を甲冑ごと一刀の下に斬り捨てて行く。

 その凄まじさに鉢形衆の兵士らは震え上がり、玄介が近づいて来るのを見ると逃げ出す始末であった。


「もはやどうしようもないか」


 安藤久五郎は兵を踏み止まらせようとしていたが、無視して逃げ出して行く兵士らを見て、悔しげに嘆いた。


 その眼前に、優男の表情が消えた風魔玄介が騎乗で飛び出して来た。


「玄介……!」

「久五郎、久々だな。悪いがここはやらせてもらうぜ」

「おのれ……かかって来い!」


 両者は夜闇の大乱戦の中、互いを目がけて馬を駆った。

 だが、一瞬の交錯の後、玄介の天哮丸が安藤久五郎の胴体を上下に両断した。

 信じ難いほどの凄まじい威力であった。

 まず上半身が吹き飛び、次に鞍上から久五郎の下半身が転げ落ち、主を失った馬はそのまま乱戦の渦中を疾走して行った。


「安藤様がやられた!」

「もう駄目だ!」


 兵士らは完全に戦意を失った。もはや槍を振るおうとする者はおらず、それぞれ敵のいない方へと逃げ惑った。


「何たること!」


 その様子を見て藤田氏邦は歯噛みして悔しがったが、すでにどうしようもない。

 馬を乗り回しつつ前後左右に声を張り上げ、残兵をまとめつつ敗走して行った。


 結果、藤田氏邦率いる北条鉢形衆は、三千人の兵のうちおよそ半数を失った。残った者らもおよそ半分が負傷している。

 対して、幻狼衆の犠牲者はわずか数人にすぎない。

 幻狼衆の圧勝であった。


 玄介は兵士らに勝鬨かちどきを上げさせた。

 幻狼衆の幹部から足軽に至るまで、皆が玄介の采配と武勇を称賛した。

 勝利の余韻よいんひたる兵士らを見回した後、玄介は側近の三上周蔵を呼んで告げた。


「このまま南西の羽沢うざわ城、砥沢とざわ城に攻め込むぞ」


 皆と同様、勝利に喜んでいた周蔵であったが、それを聞いて表情一変、驚愕した。


「何ですと? このまま? 深夜ですぞ。しかも兵らは今の戦いで疲れておりましょう」

「兵士らには出陣前に仮眠を取らせてある。そして今の戦闘は一刻もかかっておらん。兵士らに大した疲労は無い」

「しかし……」

「見ろ、兵士らの顔を。疲労どころか、初戦のこの勝利で力と勢いがみなぎっている。兵法に、"故に善よく戦う者は、これを勢に求めて人に責めず” と言う。戦は勢いだ。この勢いのままに羽沢城に夜襲をかければ容易に落とせよう。行くぞ」


 そして玄介は、兵士らにその旨を言い渡した。不平を口にする兵士は一人もおらず、皆喜んで従い、南西へ向かった。




 一方、敗走した藤田氏邦ら鉢形衆。


 居城の鉢形城に戻る前に、甘楽郡の東端にある国峯くにみね城に逃げ込んだ。

 国峯城の城主は、小幡信貞おばたのぶさだと言う。小幡信貞の小幡家は、今は北条家に属しているが、かつては武田家に仕え、美濃島衆らと同じく赤備えの騎馬隊をもって武田騎馬軍団の中核を成した一族である。


 やって来た藤田氏邦らを見て、城主小幡信貞は驚きの声を上げた。


「これは安房守様、どうなされました?」

「いや、面目ないことであるが、実は……」


 氏邦はうなだれながら詳細を話した。その上で、信貞にこう言った。


「北条一門たる儂が、三千の兵で幻狼衆一千に負けたまま帰るわけにはいかん。恥を忍んでお主の力を借りたくて参ったのじゃ」

「そういうことでございましたか」


 信貞は頷き、腕を組んで考え込むと、


「しかし、ここには今は一千ほどしか兵がおりません。出せるのはその半分の五百程度。今の安房守様の手勢と合計しても一千五百に届きませぬ。聞けば風魔玄介らの力は侮れぬものがございます。三千の兵で勝てなかったものを、一千五百以下の兵数では到底無理ではございませぬか?」

「そうじゃのう。しかし……このままでは兄者に申し訳が立たぬ。儂だけではない。北条家の面子も丸潰れじゃ」

「お気持ちはわかりますが……」


 信貞は、氏邦の苦衷を察した。だが、幻狼衆の戦いぶりを聞くに、自分達が兵を出しても勝てる可能性は五分五分であろう。

 もし、信貞らも加勢して再戦に及び、また大敗を喫するようなことがあれば、次はこの国峯城が危うくなる。しかし、藤田氏邦の気持ちもわかる。どうしたものか……と思案していると、ふと思いついたことがあった。


「そうだ、安房守様。ここは、城戸を攻めてはいかがでございましょう?」

「何、城戸? それはあの城戸か?」

「ええ。一度は壊滅させられた城戸ですが、今はしぶとく生き延びている嫡男礼次郎が戻って来ており、その下で復興しつつあるとか。その礼次郎は徳川家康を仇敵と見て、打倒家康を誓っております。城戸を攻め滅ぼし、礼次郎を捕らえて徳川に差し出すことができれば、大殿も徳川も喜びましょう。幻狼衆討伐失敗を十分に挽回できるはずです」

「ふむ」

「そして、幸い、今、城戸には四百程度の兵しかおらぬ様子。必ず勝てましょう」

「なるほど。よし、では城戸を攻めるとするか」


 名案と見て、氏邦は城戸攻撃を決定した。

 小幡信貞が五百の兵を出した。鉢形衆の無傷の兵を合わせると、およそ一千二百人。翌々日、藤田氏邦は汚名返上を期して、一路城戸へと向かった。

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