第135話 君の想いは

「ねえ、お姫様」


 咲が再び声をかけると、ゆりはやっと口を開いた。


「そのお姫様って言うの、やめてください」

「あら、どうしてですか?」

「武田家はもう無いんです、私はもう武田家の姫じゃないし……そもそも、私は元々武田家の人間じゃないし」

「どういうこと?」


 咲は不思議そうな顔をした。彼女は、まだゆりの出生の秘密を知らない。


「とにかく……もう武田家の姫じゃないので、咲さんの主君筋でもないんです。今は……同じ城戸家ここの人間。だからお姫様って言うのはやめてください」


 ゆりは、いつになく強い口調で言う。


「そう。じゃあ……ゆりちゃん、でいいかしら?」


 咲はニコッと笑った。

 ゆりは無言で頷く。だが、顔つきは厳しかった。

 咲は言葉を続ける。


「あの……何から話せばいいのかな。さっきのは誤解よ。私があいつに迫ったんだけど、あいつは拒んだのよ。だけど、私が更に迫ったら体勢が崩れてああなって、その時ちょうどあなたが襖を開けたのよ。だから何もしてないわ」


 咲が微笑を作りながら言うと、ゆりは目を伏せて一時沈黙した後、口を開いた。


「さっきはそうかもしれないけど……以前から……その……そう言うことはしてたんですか?」

「うん? どういうこと?」

「その……礼次郎とは以前からそう言う関係が?」


 ゆりは言いにくそうに言う。

 すると咲は笑って、


「まさか。一度もないわよ」

「………」


 ゆりは咲の顔を見上げた。


「以前にも薬まで使って誘ったことあるけどねえ。でもその時もあいつは拒んだのよ。今まで私に落ちなかった男なんていなかったのに、あいつは二度もこの私の誘惑をはねのけたわ。大したものよ。でもちょっと腹立つわね」


 咲は、笑いながらもどこか苦々しげに言う。


「二度も……? あの、どうしてそんなに礼次郎を?」

「あいつ、私の好みだからねえ」


 咲はさらっと言ってのける。

 ゆりの表情が固まる。


「好み……咲さん……礼次郎が……好きなんですか?」

「まさか。好みだけどそんな感情は無いわよ。私はね、婿になる予定だった男を失くして、正式に美濃島家を継いだ時に、恋だ愛だなんて感情を捨てたのよ」

「捨てた……?」


 その言葉に、ゆりは驚いて咲の顔を見る。


「そうよ。だから安心して。私はあいつに惚れてもいないし何ら特別な感情も無いわ。あなたたちの仲を邪魔するつもりは毛頭無いから」

「………」


 恋や愛、そのような感情は捨てたと言う咲の言葉。それは、ゆりには思いも寄らなかったことであり、また到底理解が及ばないことであった。

 ゆりは、何か別世界の人間を見るような感覚で咲の顔をじっと見つめた。


 そのゆりの視線を受け止めて、ゆりの顔を見返す咲――胸のうちに、再びぞくぞくと湧き上がる感情があった。


 ――このお姫様、やっぱり可愛いわ……。


 咲は、ゆりの隣に座った。


「だけどねえ。最近ずっと忙しくてご無沙汰だったから……好みであるあいつを見ると欲しくなっちゃってさ……つい迫っちゃうのよ。こんな風に」


 そう言って、咲は突然ゆりの頬に口づけをした。

 ゆりは悲鳴を上げて飛び上がった。


「何するんですか! またそう言うことを!」

「ふふ……ごめんね、我慢できなくてつい……」


 咲は妖艶に笑うと、立ち上がった。


「まあ、とにかくさっきもこんな感じだったんですよ、お姫様」

「………」


 ゆりは、呆気に取られたような顔をした。


「もう誤解は解けたかしら? なら、もうあいつに怒らないであげてよ」


 咲は笑いながら言うと、背を向けて稽古場の入り口の方へと歩いて行った。


 その背を見送るゆり、引きつった顔をしていた。


 ――そうだった、咲さんはああいう人だった。


 ゆりは疲れたような溜息をついた。

 しかし、すぐにほっと安堵の表情となる。


(さっきの礼次郎の態度、今の咲さんの話からして、二人の間にはやっぱり何もないのね。さっきは咲さんが無理矢理迫っただけで……でも礼次郎は、あんな綺麗で色っぽい咲さんを拒んだんだ)


 ゆりは、心のざわめきが静まって行くのを感じた。

 だが、すぐに別の感情が彼女の心にわずかな暗さを落とした。


 ――拒んだのは、何で? まだおふじさんが心の中にいるから? それとも……


「ああ、礼次郎。誤解はちゃんと解いておいたわよ」


 咲の声が聞こえた。

 その方向を見ると、稽古場の入り口から、どこか慌てているような様子の礼次郎が入って来た。


「本当だろうな?」


 咲とすれ違いざまに礼次郎が聞く。


「本当よ。感謝してよ」


 咲は笑いながら稽古場を出て行った。

 そして礼次郎がゆりの前までやって来た。



 ――私のことはどう思ってるの?



 ゆりは、目の前に来た礼次郎に無言で問いかけた。


「ゆり……あの……」


 礼次郎は言葉を探す。


「大丈夫、もうわかったから」


 ゆりはそう言って微笑んだ。だが、その微笑には明るさが無い。

 当然礼次郎もそれを感じ取った。


「本当に?」

「うん」


 ゆりは答えたが、今度は笑みも無かった。

 そっと目を伏せた。


 ――聞きたい……でも聞けない……今の礼次郎はこんなことに気を取られている時じゃないから……。


 心中、もどかしく葛藤していた。


「………」


 礼次郎は、そんなゆりを不審そうに見つめる。


 ――どうしたんだろう? やっぱりまだ誤解してるのか?


「まだ誤解してる?」


 礼次郎は思い切って聞いた。


「ううん、全然」


 だが、ゆりは目を伏せたまま首を横に振る。


「あの……何か怒ってる?」

「何で? 怒ってないよ」


 ゆりは、目を上げて微笑んだ。

 陽光を受けて、まさに百合の花のように白く輝いた笑顔。


 それを見て、礼次郎の心が思わず揺らされた。



 ――可愛い……。



 礼次郎は、その可憐さを直視できず、照れて目を逸らした。


 しかし、それを見てゆりの顔が曇る。



 ――どうして目を逸らすの?



「………」


 ゆりは、切なそうに礼次郎の顔を見つめる。



 ――聞かせてよ。



 ――私のことはどう思ってるの……?



 ゆりから目を逸らし、言葉も出てこない礼次郎。

 そんな礼次郎に無言で問いかけるゆり。


 一時、もどかしい静寂が二人の間を流れた。


 しかしその静寂を破ったのは、礼次郎だった。


「なあ、ゆり……」


 ゆりの顔に視線を戻した。

 だが、そう言いかけた時、またも背後より別の者の声が聞こえた。


「若殿、ここでございましたか。ちとご相談が」


 茂吉であった。


「………どうした?」


 一瞬、ゆりの顔を見つめた後、礼次郎は振り返る。


「今回連れて帰られた兵達が平時に耕す田畑についてなのですが……」

「そうか……」


 礼次郎は答えると、ゆりを振り返った。

 ゆりは再び笑顔を作って言った。


「どうぞ」

「……うん、ごめん。また、夜の宴の時にでも」


 そう言って、礼次郎は茂吉と共に何か話しながら歩いて行った。

 礼次郎の姿が見えなくなると、ゆりもまた歩き始めた。


(仕方ないよ……若殿って言われてても、礼次郎は今は実質城戸家の当主になるんだから……)


 ゆりは溜息をついた。


 ――邪魔しちゃ駄目。


 彼女は自分に言い聞かせた。



 無意識に歩いているうち、空気の爽やかさに誘われて、ゆりは大手門を出て外に出ていた。

 そよ風には冷たいものが混じっているが、頬には心地良かった。


 両手を伸ばし、大きく背伸びをした。


 すると、右手の少し離れたところに、大木に向き合って座っている順五郎を見つけた。


 何をしているのかと気になり、ゆりはそちらへ歩いて行った。


 順五郎は、何やら物思いに耽っていた。


「順五郎殿」


 声をかけると、順五郎は振り向いた。


「ああ、ゆり様」

「ごめんなさい、お邪魔だったかしら」

「いえ、そんなことはないですよ」

「何をしてるの?」


 ゆりが問うと、順五郎は再び大木に向き直った。


「妹と話してたんですよ」


 少し寂しそうな笑顔で言った。


「妹……って、お藤さん?」

「ええ。この桜の木は、ガキの頃に、若と俺とふじと……皆で植えたんです。そして、この下には今、ふじが眠っているんです」

「ここに……」

「茂吉たちは、俺達が生き延びていたことを知らなかったから、急ぎここに埋葬したんですよ。まあ、今度どこか別のところにちゃんと墓を立てようって話していますが……」

「………」

「とにかく、今はここに眠っているので……帰って来たぞ、って報告と共に、色々な話をね」


 そう言って、順五郎は木の根元を見つめた。



 ――ここに、お藤さんが……。



 ゆりは、木の幹を見つめた。



 ――礼次郎がずっと好きだった人……私が礼次郎を好きになる前から、礼次郎が好きだった女性ひと

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