第134話 揉み合い

 その頃、ゆりは自室にいた。

 障子を通して晩秋の黄色いひかりが部屋に注ぎ込んでいる中、座ってぼんやりと思いに耽っていた。

 部屋の隅には喜多が控えている。


「礼次郎様と何かございましたか」


 喜多は苦笑いで聞いた。


「うん……何かってほどじゃないけど」


 ゆりは気の無い返事をする。


 ――仕方ないけど……。


 溜息をついた。


 ――ずっと好きだった幼馴染が目の前で殺されたんだから……引きずるのはわかるけど……。


 彼女は、自作の焙烙玉を手毬のように弄んでいた。

 喜多は、その様子を冷や冷やしながら見ている。


(でも、もうちょっと何か言ってくれたっていいじゃない)


 ゆりは片頬を少し膨らませた。


 ――オレの許嫁だ! 放さねえと全員叩き斬るぞ!


 あの時、槙根砦で礼次郎が叫んだ言葉が再び響いた。

 嬉しくて、あれ以来何度も耳の奥で再生した言葉。

 だが、今は謎々のように聞こえた。


(許嫁だと思ってくれてるのよね? でも、礼次郎は私のことはどう思ってるんだろう?)


 あれ以来、礼次郎はゆりに対して特に何か気持ちを伝えて来たことはなかった。

 ゆりもまた、


「貴方様の大変な境遇は承知いたしてございます。それ故、妻に娶ってくださいとは言いませぬ。ですが、せめて貴方様のお側にいさせてくださいませ」


 と言った手前、自分から何か言うようなことはしなかった。

 事実、礼次郎が背負っているものの重さを思うと、彼女自身も邪魔になるようなことはしたくないと考えている。

 だが、


 ――さっきみたいな時ぐらい、何か言ってくれたって……


 と思うのであった。


「まだ忘れられないのかなぁ……」


 ゆりが呟いた。


「ゆり様」


 喜多が見かねたように言いかけた時、


「喜多殿、おられるか?」


 と、襖の向こうから声がした。千蔵の声であった。


「いるぞ」


 喜多は答え、ゆりを見た。

 ゆりは微笑んで頷いた。


「入っていいぞ、どうした?」


 喜多が外に言うと、千蔵は御免と言って襖を開けた。


「ご主君より、小雲山潜入の許しが出た。少し、準備を色々と手伝ってもらいたいのだが」


 千蔵が真面目な顔で言う。


「お前が人に手伝ってくれと言うなんて珍しいな」

「相手は風魔忍びが母体の幻狼衆。そこに俺一人で潜り込むのだ、周到な準備をせねばならん」

「そうか、わかった」


 喜多は頷くと、


「ゆり様、よろしいですか?」

「うん、もちろん」


 ゆりは微笑んで答えた。

 長年仕えている喜多でさえ見惚れるような可憐な笑顔である。


「では」


 と言って、喜多は部屋を出て行った。


 後にぽつんと一人、残されたゆり。

 しばらく何か考えていたが、おもむろに立ち上がった。



 ――ちょっと礼次郎と話そうかな。




 その礼次郎の部屋では――

 咲が、妖艶な色気を絡みつかせるようにして礼次郎に迫っていた。


「他にも男はいるだろ」


 礼次郎は手でじりじりと下がりながら言う。


「あんたがいいのよ。私の好みだからさ」


 そう言って礼次郎の腕を掴んだ咲が妖魔に見えた。

 戦となれば髪を振り乱して修羅の如く戦い、先程もどすの利いた大声を出して合口を抜くような恐ろしさを見せた癖に、今はもう一転して、甘く淫靡な香りをもって年下の男を誘惑する爛熟した毒の妖花。

 臈長けた人形のような美しい顔に、少しはだけた着物の下には、細身ながらも豊かな乳房と熟れきった柔らかい肉が弾けそうに疼いている。


 礼次郎は若い。まだ十代の男である。

 思わずくらくらとし、脳の奥が痺れるような眩暈を覚えた。

 理性が剥がれかけ、咲の肉欲の芳香の中に抱き込まれそうになる。


 だが、何かがその脳の奥を閃光のように駆け抜け、礼次郎は夢から覚めたかの如く我に返った。


「やめろ」


 礼次郎は咲の手を振りほどいた。

 咲はふふっと笑って、


「大丈夫よ。あんたとお姫様の仲は邪魔しないから」

「駄目だ、お前何考えてるんだよ」


 礼次郎は拒むが、咲は尚もにじり寄って迫る。

 拒否しようとする年下の男と、構わずに迫る年上の女。

 がたがたと揉み合いになった。




 ゆりは、礼次郎の部屋の前まで来た。

 しかし、いざ話そうとしても、何をどうやって話せばいいのか……と、彼女は少し躊躇った。


 だがその時、部屋の中から慌ただしい物音と騒ぐ声が聞こえた。

 何か揉めているようである。


「礼次郎……ゆりです。入っていい?」


 ゆりは中に声をかけたが、返事はなく、


「落ち着け」

「いいじゃない」


 などと、一組の男女の声が聞こえるのみ。

 そして、がたっと大きな音がしたので、「どうしたの?」と、ゆりは思い切って襖を開けて見た。


 するとそこに見えたのは、胸元をはだけた咲の上に覆いかぶさっている礼次郎。

 しかも、何と礼次郎の左手は咲の胸を掴んでいた。


「え……?」


 それを見たゆり、振り返ってゆりを確認した礼次郎、二人の顔が同時に固まった。


「ゆり……」


 顔が青ざめて行く礼次郎、慌てて左手を引っ込めた。

 迫る咲から逃れようとしていたら、偶然このような体勢になってしまっただけである。

 だが、ゆりは当然そうは思わない。完全に誤解した。

 一時、崩れそうな呆然とした顔でその光景を見つめていたが、顔を逸らすと、小走りで廊下を駆けて行った。


「あ~、良くないところ見られちゃったかしらね……」


 咲はそう言うが、顔は呑気に笑っている。

 礼次郎は呆然としていた。

 だが、我に返ってそのとんでもない状況を把握すると、慌てて立ち上がり、ゆりを追いかけた。




 ゆりは、自室にいた。


「入ってもいいか?」


 そう断りを入れて礼次郎が入った時、ゆりはこちらに背を向けて泣いていた。


「ゆり」


 礼次郎は、ゆりの後ろで膝をつくと、小さな深呼吸をして、


「今のは違うんだ。あいつが無理矢理ああやって……」


 と、誤解を解こうとしたが、こういう局面に慣れていない礼次郎は、うまく言葉を出せない。

 ゆりは、背を向けたまま泣き声で言った。


「……何か納得が行きました。前から咲さんとそう言う関係だったんですね」


 礼次郎は、その言葉と口調に驚きながらも、


「まさか。違うよ」

「この前も咲さん、礼次郎に抱きついてたもんね」

「いや、あれは……俺もよくわからないけど、何も変な意味はないはず……」

「何もなくて何で抱きつくのよ」

「あの時、あいつは心が弱ってて……いや、とにかく、俺と美濃島咲とは何もないって。さっきもあいつが無理矢理迫って来て、それで揉み合いになって……」


 するとゆりが顔色を変えて振り返った。


「揉み合い? どこを揉み合ってたのよ!」

「いや、そう言う意味じゃなくて……」


 礼次郎が顔を青くすると、


「酷い、最低」


 ゆりは立ち上がって部屋を飛び出した。


「ゆり、ちょって待て!」


 礼次郎も慌てて追いかけようと廊下に出ると、ちょうどゆりとすれ違いにこちらへ歩いて来た壮之介。


「礼次様、ここでしたか。急ぎ、大事なお話があります」


 壮之介は深刻そうな顔をして言って来た。


「またかよ!」


 礼次郎は悲鳴に近い声を上げた。




 そして礼次郎が仕方なく壮之介と共に自室に戻ると、咲はいつもの気怠そうな顔で煙草を吸っていた。


「おい、ここで暢気に煙草なんか吸ってるんじゃねえよ」


 礼次郎が腹立たしげに言うと、


「仕方ないじゃない、何か萎えちゃったから」

「そんな暇あるならゆりを探してさっきの誤解を解いて来てくれ」

「あら、解けなかったの?」


 咲は楽しそうに顔を輝かせた。


「そうだよ。だからお前が釈明するのが一番早い、行って来てくれ」

「嫌よ、面倒くさい」


 咲はにやにやと笑いながら言う。

 礼次郎は刀を手に取った。


「いいから行け。行かねえと抜くぞ」

「ええ!? 何よそれ」

「早くしろよ」

「ふう……わかったわよ」


 咲は面倒臭そうに言うと、立ち上がった。


「あんたも相当血の気が多いわよね……」


 咲は文句を言いながら、部屋を出て行った。


「ゆり様と何かあったのですか?」


 壮之介が眉をしかめて聞いた。


「いや、ちょっとな……」


 礼次郎は苦笑いをする。




「と言う事で、今宵の宴の献立は以上の通りなのですが、よろしいですか?」


 壮之介は、先程と変わらぬ深刻そうな顔をして聞いた。

 礼次郎は少し呆れた顔で、


「いや、いいけど……急いでいる大事な話ってそれか?」

「ええ」

「どこが急ぎで大事なんだよ? 俺に聞かなくてもいいだろ」

「いえいえ、今や城戸家の主は礼次様でございます。料理の内容について礼次様の了承を頂くのが筋でございます。それに宴は今夜です。急がねばなりますまい」


 壮之介は真面目くさって言う。

 礼次郎は頭を手で押さえた。


「まあ、そうだが……その内容で構わない。それで用意してくれ」

「承知しました。それと、もう一つあるのですが」

「何だ?」

「日にちを選んで、供養をいたしとう存じます」

「供養?」


 礼次郎の顔色が変わる。


「はい。先の戦で犠牲になった城戸の人々の供養です。礼次様のお父上、ご家族、ご家臣、そして民たち……礼次様の幼馴染であり順五殿の妹であったと言うお藤殿も」


 壮之介は武骨な顔に、優しく、そしてどこか寂しそうな笑みを見せた。


「供養か……そうだな」


 礼次郎が目を伏せた。




 咲が、座り込んでいるゆりを見つけたのは、稽古場の片隅だった。

 ゆりはすでに泣いてはいなかった。だが、赤くした目で虚空の一点を見つめ、何か考え込んでいた。

 咲は、その姿を見ると一瞬面倒臭そうな顔をしたが、ゆりの前まで歩いて行くと、


「お姫様」


 と、笑顔を繕って声をかけた。

 しかしゆりは、無言のまま答えなかった。

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