第130話 帰還

「い、いかん!」


 綱秀は色を失った。

 怒号と悲鳴が上がった。

 すでに猛牛が兵士達を蹴り飛ばし、角で背を突き刺している。

 また、そこへ更に左右の屋根の上から矢が降り注いで追い打ちをかけた。


「猛った牛は大体真っ直ぐにしか走らないもの。殿、あそこの路地へ入りましょう!」


 兵士の一人が、少し広めの路地を見つけた。


「よし、皆、あそこへ逃げ込め!」


 松田が指示と共に先頭を切って駆けた。

 兵士達もそれに続いて殺到する。


 路地を進んで行くと、その奥に、開けた広場のような場所があるのがわかった。

 だが、その中央に、一人の茶筅髷の男が悠然と薄笑いを浮かべて立っていた。

 ここに逃げて来ることを予想し、いつの間にか回り込んでいた葛西清雲斎である。


「しまった、待ち伏せです!」


 兵士達は動揺したが、松田綱秀は落ち着きを取り戻し、


「何を言うか、たった一人で待ち伏せて何ができる!」


 と、ここまでの鬱憤を晴らそうと、顔を怒らせて号令した。


「かかれっ! 嬲り殺しにしてしまえ!」

「おおぅ!」


 兵士達それぞれ手槍を構えて清雲斎に殺到した。


「おう、だいぶ減らせたか。よしよし。二百は流石の俺でも右腕一本だときついからな」


 清雲斎は残忍な笑みを浮かべて地を蹴った。


 その身体が躍ったかと思うと、右手一本で握った剣から高速の光が乱れ飛んだ。

 数人がたちまち斬り伏せられた。


 その様に兵士達はたじろいだが、


「囲め! 四方から襲え!」


 綱秀の指示に、兵士達が四方に散って取り囲んだ。


「やっぱりそう来るか」


 清雲斎は嘲笑うと、囲みの一方に突風と化して飛びかかった。残像すら残らぬほどの速さで剣を振り、相手が動く前に全て一刀の下に斬り伏せた。

 そして、左回りに飛びながら剣を振り、同様に全て一刀で斬り捨てて行った。

 左手は使っていない。右手一本である。


 こうして、四方を囲んだ兵士達全てを斬り伏せた清雲斎は、その血風の中央で剣を下すと、綱秀を見て恐ろしい笑みを見せた。

 その瞳の色が変わっており、鬢の毛は心なしかそそり立っているように見える。


「心の皮を剥くと本性が出るんだ。俺の場合は殺しを楽しむと言う本性がな」


 清雲斎は、悪鬼の如き笑みを見せた。


  今の信じられない光景を目の当たりにし、残った兵士達は完全に戦意を失って動けなくなった。遠巻きに見て震えているのみであった。

 綱秀も唖然としていた。


「な……な、な……何者だ貴様は?」


 綱秀は言葉を震わせた。


「葛西清雲斎」


 清雲斎が答えると、綱秀は腰を抜かさんばかりに驚いた。


「な、な、何? 葛西清雲斎だと? お前が?」


 綱秀は蒼白となった顔で呆然と清雲斎を見つめていたが、


「いい、いかん、皆の者、退けっ! 退けっ!」


 早口に命令するや、慌てて背を返し、兵達を置いて元来た路地を逃げて行った。

 後を追いかける側近の者が叫んだ。


「殿、お待ちを! 確かに恐るべき強さですが、所詮たった一人。全員でかかればまだ勝てるでしょう!」


 だが、綱秀は振り返りもせずに大声で言った。


「馬鹿者! 葛西清雲斎を知らんか? あれは剣神じゃ! 我々ではいかに多勢であろうと歯が立たんわ! 逃げろ、逃げろ!」


 そして、松田綱秀は、残ったわずかな兵達を引き連れて城戸から逃げ去って行った。

 清雲斎は、あえてそれを追わなかった。


「よし、奴らは逃げて行った。お前らもういいぞ! よくやってくれた!」


 清雲斎は大通りの方へ戻りながら大声を出すと、あちこちに潜んでいた男たち女たちがぞろぞろと出て来た。

 彼らは、今の出来事に、驚きと喜びを隠せなかった。


「凄い! たった二十人ちょっとで北条軍を撃退したぞ!」

「こうもうまく行くとは」


 皆、興奮しながら口々に言ったが、


「それにしても凄いのは葛西様じゃ。作戦もさることながら、何てお強いことか。こんなに強いとは思いもせなんだ」


 と、それまではどこか胡散臭い男と思っていた清雲斎に、尊敬の眼差しを向けた。


 清雲斎は、懐紙を取り出して刀を拭っていた。

 そこへ、茂吉と女中のおみつがやって来た。


「いやいや、凄まじい……感服いたしました。剣神と言ったのは決して大袈裟ではなかった」


 茂吉が首を振って嘆息すると、清雲斎は豪快に笑った。


「はっはっはっ……やっとわかったか」

「驚きました」


 おみつも、見る目が変わっていた。


「しかし、逃がしてしまって良かったのですか?」


 茂吉が少々不安そうに言う。


「馬で逃げる相手は流石に追いつけねえよ。だが、あれは小物だからわざわざ討ち取る必要もない。むしろ、わざと逃がしたんだ。逃がして、北条に今日の事を詳しく伝えさせる方がいい。そうすれば、警戒して迂闊に手を出してこなくなるだろう。今大事なのは、礼次たちが力を蓄える為の時間を稼ぐこと。それまで他の奴らに城戸を攻めさせないことだからな」


 清雲斎がすらすらと答えると、茂吉は驚嘆した。


「そこまでお考えでしたか。葛西様は剣術だけじゃなく、兵法にも通じておられる」

「大したことじゃねえよ。さて、一汗かいたから酒でも貰おうか。他の奴らにも振舞ってやんな」


 清雲斎は、まるで朝稽古でもした後かのような口ぶりで、館へ向かって歩いて行った。


 礼次郎たちが城戸の郷へ帰り着いたのは、それから二日後のことであった。

 礼次郎が城戸へ帰るのは、およそ一か月ぶりである。だが、その一月前も滞在わずか一日であったことを考えると、城戸が徳川家康に滅ぼされて以後、ほとんど初めての帰還のようなものである。


「随分長いこと帰ってなかったような気がするぜ。半年ぶりぐらいの感覚だな。なあ若」


 半壊の大通りを館に向かって進みながら、順五郎がこう言ったのも当たり前であった。


「ああ、そうだな……」


 答えた礼次郎、今が夢か現実かわからないような心地を覚えていた。


 城戸が徳川家康に滅ぼされ、外に逃れたあの時、礼次郎と順五郎のたった二人だけであった。

 家族や家臣、領民達、それに想っていた幼馴染まで殺され、全てを失ってどうすればいいのか絶望していたあの頃。


 だが今は、軍司壮之介、笹川千蔵、宇佐美龍之丞、美濃島咲、武田百合、早見喜多の六人を加え、更に約四百人の精強な越後兵を引き連れての帰還である。

 礼次郎は、何か感慨深いものを感じていた。


 ――これから新しい城戸が始まる。


 礼次郎は、引き締まった表情で前方の館を見つめた。


 しかし――


「初めて来たけど、思った以上に田舎ねえ。いい男もいなそうだし」


 溜息をつきながら言ったのは美濃島咲。


「礼次郎殿、遊郭は無いのですか?」


 真面目な顔つきでとんでもない事を聞いた龍之丞。


「なんだかんだ言って某は仏の道に帰依している者、寺があるといいのですが」


 と壮之介。


「ねえ礼次郎。崩れかかっている家が多いけど、思い切って壊してしまった方がいいと思うの。最近作ってる新しい爆薬があるから試してみてもいい?」


 目を輝かせながら言ったゆり。



 ――新しい城戸はうるさいかもな。



 礼次郎は、引きつった苦笑いをした。


 そして、 茂吉やおみつたち、わずかに生き残った城戸の民たちが、熱狂と共に礼次郎らを出迎えた。


 この時初めて、後にその伝説的な活躍を語り継がれた城戸礼次郎頼龍とその家臣達が、全て城戸の地に集結したのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る