第129話 清雲斎の作戦

 物見から戻って来た留吉は、青ざめた顔で葛西清雲斎、茂吉らに報告した。


「葛西様の言った通りでございました。ここから南東十里ほどに、およそ二百の軍勢がこの城戸を占領せんと迫っております。その旗の紋は三つ鱗。北条の軍でございます」

「そうか、ご苦労」


 清雲斎は、いつも通り館の庭で木剣を振っていた。

 短く答えると、木剣を下した。


「やはり北条か……若殿がまだお戻りにならないと言うのに」


 茂吉は顔を青ざめさせる。


「戦うしかねえな」

「戦う……我らは二十人。それを二百人相手にですか?」

「案ずるな。この俺がいる」


 清雲斎は豪気にそう言うと、茂吉に城戸の街の絵地図を持って来させ、また、戦える男たちを集めるように言った。


 城戸の館の大広間に、合計二十一人の城戸の人間が集められた。

 男達が大半であるが、中にはわずかに武芸の心得のある若い女も混じっている。

 彼らを前に、清雲斎は絵地図を広げて言った。


「すでに知っての通り、北条軍がこの城戸を攻め取ろうと向かって来ている。その数およそ二百」


 二百、改めてその数字を聞いて、皆がどよめいた。


「二百……えらいことじゃ」

「我らは二十ちょっと、とても歯が立たん」


 彼らは色を失って不安を口にするが、清雲斎は構わずに言葉を続ける。


「少し静かにしろ。で、実は礼次の奴も今、兵を連れてこっちに向かっている。だが、恐らく間に合わないだろう。そこで、俺たちだけで北条軍を撃退しなければならん」


 それを聞くと、皆はますますざわついた。


「我ら二十だけで?」

「とても無理です」


 彼らは悲鳴に近い声を上げる。


「まあ、騒ぐな。俺は、こういう事が必ず起きるだろうと思い、あらかじめある程度の策を考えてある。そして、その策は、お前らに剣を持って戦わせるようなことはない。お前らはちょっと手伝ってくれればいい。戦うのは俺だけだ」


 清雲斎の言葉に、皆は水を打ったように静まり返った。


「幸い、奴らはここにろくに人数がいないことを知り、舐めて来ている。留吉によれば、二百と言っても騎兵も無ければ鉄砲も持ってねえ。ただの歩兵二百だ。これならば十分に勝てる。俺の推測では、奴らがここに来るのは恐らく明日の未の刻(14時)頃だろう。それまでに、俺がこれから言う通りに準備をしてくれ。そして明日は、俺が言う通りに動いてくれればいい。わかったな?」


 清雲斎が自信たっぷりに一同を見回して言ったが、皆はそれでもまだ一様に不安そうな顔をしている。


「大丈夫だ。俺がいる。俺は剣神、いや武神だ」


 清雲斎はそう言って大笑した。

 だが、それでも皆の不安は拭えない。


 主君、城戸礼次郎の剣の師匠で、天下にその名が鳴り響いているほどの強さ。

 だが、いくら強いと言ってもそれは所詮個人の武勇。二百もの統制された軍勢を相手にどう勝つと言うのか。

 しかも彼は今、左腕が不自由なのである。


 だが翌日、人々は、清雲斎の言葉が嘘ではないことを知るのであった。


 松田綱秀率いる北条軍約二百が、城戸の街の彼方の山と山の間の街道にその姿を現したのは、翌朝の巳の刻(午前十時)頃であった。


「思ったよりもだいぶ速かったですな」


 櫓の上から、遠くの北条軍を見つめて茂吉が言った。


「ああ。だがそれはそれでいい。恐らく、あまり休まずに急行して来たんだろう。と言う事は奴らは疲労が溜まっているはずだ。それは俺達にとって有利」

「確かにそうですな」

「よし、行くぜ。茂吉、昨日言っておいた通りに頼むぞ」

「承知しました」


 そして清雲斎は櫓を下り、城戸の町の中心を貫く大通りが途切れるところ、つまり入り口に向かった。


 清雲斎は、左右に二人の男を従え、その入り口に立った。二人には、それぞれ弓矢を持たせてある。

 少し青ざめた顔をしている二人に、清雲斎は声をかけた。


「大丈夫だ。俺の言う通りに動け」


 二人は、緊張のあまり言葉が出ない。無言で頷くのみであった。


 やがて、松田綱秀の二百の軍勢が城戸の町に到着した。

 松田綱秀は、町の入り口に立つ清雲斎ら三人を見ると、おかしそうに大笑いした。


「おう、少しは抵抗してくる者がいるだろうと思っておったが、まさかたった三人とはな」


 左右の側近も苦笑する。


「弓矢を持っておりますな。健気にも立ち向かおうとしておるらしい」

「あれは城戸礼次郎か?」


 松田綱秀は、右に控える黒木と言う男に命じた。


「たった三人相手に二百でかかると言うのも武士として恥。黒木、お前十人ばかりを連れてあそこに向かい、降伏するよう言って来い。降伏せぬと言うのであればそのまま三人とも討って来い」


 黒木は、はっと答えると、十人を引き連れて向かった。


 清雲斎らの前に来ると、見下ろすように言った。


「城戸礼次郎か?」


 清雲斎は鼻で笑った。


「違うよ。礼次は今はいねえ。俺はその間だけ留守を預かってやってるあいつの師匠だ」

「ほう、師匠……まあ良い。我々がここに来た目的はわかっておるな?」

「もちろんだ。ここを攻め取りに来たんだろう? さっさとかかって来いよ」


 清雲斎もまた、小馬鹿にしたように笑った。


「何? たった三人で立ち向かうつもりか? 降伏せよ。さすれば命までは奪わんぞ」

「降伏? 冗談じゃねえな」


 清雲斎は、柄に右手をかけると、左右の男二人に、後ろに下がってろ、と言った。


「何と愚かな……まあよい。では望み通りにしてやろう」


 黒木は呆れ果てたように首を振ると、引き連れて来た十人に、やれ、と命じた。


「おう!」


 と、十人が応える前であった。

 何か光が閃いたかと思うと、黒木がすでに馬上から崩れ落ちていた。

 遅れて激痛に苦悶する絶叫が上がる。

 大地が赤く染まった。黒木は左肩から腹にかけて、甲冑ごと深く斬られていた。


 黒木の馬の向こうに飛び降りた清雲斎は、振り返るとにやっと笑った。


「さあ、かかって来いよ」


 しかし、周囲の者は、今の一瞬のあまりの早業に気を奪われ、動きが固まってしまっていた。


「来ねえなら行くぜ」


 清雲斎が残忍な笑みを見せて動いた。

 一瞬で、一人、二人と斬られる。

 そこでようやく我に返った残りの者が慌てて応戦する。

 しかし、清雲斎は隙を与えない。

 旋風のように動き回ると、まさにあっと言う間に全てを斬り倒してしまった。


「北条も大したことねえな」


 清雲斎は馬鹿にしたように見下ろしながら、懐紙を取り出した。

 だらりと下げた左手に懐紙を持ち、右手だけを動かして器用に刀身の血を拭う。


 松田綱秀は、今起きた光景に驚愕していたが、気を取り直すと、号令を下した。


「おのれ、手向かうつもりか。こうなれば全軍でかかってくれるわ。皆の者、かかれっ!」


 松田軍が、鬨の声を上げて殺到した。


「よし、来たぜ。二、三回、矢を射かけて退くぞ」


 清雲斎が言うと、男二人は言われた通りに矢を放った。

 向かって来る松田軍の先頭、四人ほどが倒れた。


「退け」


 清雲斎は、二人を連れて大通りを後方へ走った。


 それを追いかける松田軍。

 だが突如としてあちこちの地面が崩れ、先頭集団が地に沈んだ。

 落とし穴であった。

 後続の兵士達がそれにつまづいて転ぶ。


「やれっ!」


 清雲斎の命令が響くと、左右の屋敷、小屋の屋根の上に、数人の城戸の男が姿を現した。

 矢を一斉に放つ。

 清雲斎の左右の二人も続いて矢を放つ。

 落とし穴でもたついている松田軍先頭集団に矢が降り注いだ。

 避けることも防ぐこともできず、次々と身体を貫かれて行く。


「しっかりせい!」


 松田綱秀が大声で叱咤する。

 そして立て直すと、穴のある箇所を避けて、清雲斎らを追いかけた。


 清雲斎はにやにや笑いながら後方へ駆ける。

 それを追いかける松田軍、またも先頭が悲鳴を上げて地面に転んだ。

 そこには、至る所に撒菱が撒かれてあった。

 清雲斎らが、後方へ走りながらばら撒いたのであった。


 足裏を刺され、うずくまる者、転ぶ者、或いは地面の撒菱に気を取られて進めなくなる者たちでもたつくそこへ、またも左右から矢が降り注いだ。


「おのれっ! 小賢しい真似を!」


 綱秀は顔を真っ赤にして檄を飛ばし、立て直す。

 そして再び清雲斎を追いかける。


 清雲斎らは逃げなかった。その距離が、二十間、十五間と徐々に狭まる。


 だが、次にその目に映ったものを見て驚愕した。

 数人の城戸の男たちが、左右の路地から五頭の牛を引いて現れたのだ。

 そして、牛の尾には葦が巻きつけられており、男達は何とそれに火を点けると、松田軍に向かって走らせた。

 尻尾の熱で牛たちは猛り狂い、松田軍に向かって暴走した。


 これには綱秀はもちろん、松田軍全体が仰天。

 たった五頭とは言え、幅の広くない通りであり、逃げ場が無い。


 しかもこれは、


 ――北条初代、早雲公の火牛の計でないか!


 綱秀は、背筋を寒くした。


「退けっ、退けっ!」


 綱秀は慌てて指示し、兵士達も算を乱して我先にと後ろへ走った。

 だが、再び彼らは仰天する。


 後方、いつの間にか木の柵が出現し、その行く手を塞いでいた。

 密かに後ろに回り込んだ城戸の男たちが、あらかじめ作っておいた簡易な木の柵を設置したのであった。

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