第117話 謙信の魂
四方を包囲される不利な戦だが、勇猛で鳴る上杉兵は脅威の踏ん張りを見せ、本庄、色部隊の援護もあって互角の戦いに持ち込んでいた。
そんな中、景勝が見出した新発田勢の手薄な一角に、景勝の馬廻り衆、第一隊が突撃した。
上杉軍最強の精鋭による騎馬突撃は、その攻撃力のみならず、士気までも崩す強烈な威力を持っている。
一撃で十数人が体勢を崩した。
間を置いて、第二隊が鬨の声を上げて突きかかる。
同時に、第一隊は素早く取って返す。
これが即ち、上杉謙信が川中島の戦で使ったとされる必殺の陣法、車懸りの備え。
だが、その連続突撃の間の取り方、突撃後の退き方の難しさから、戦の天才上杉謙信ですら川中島以後二度とこの戦法を使わなかったと言う。
「車懸り……初めて見ました。まさかこんな時に見られるとは」
龍之丞が感嘆する。
「大軍であると統制が難しいので運用はほぼ不可能。だが、少数の精鋭であれば可能だ。不識庵様の頃より、馬廻りにはかねてより車懸りの演習をしている」
「そうでしたか。しかし、此度の失策、詫びのしようもございません。この龍之丞、責任を取って敵陣に斬り込んで参ります」
龍之丞が悲壮な決意を表し、抜刀した。
しかし景勝はそれを叱った。
「止めよ! お前の才は上杉の宝だ。今ここで死ぬならば、この先上杉家が歩む道において倍以上の功を立てよ」
「御屋形様……」
「此度の失策、決してお前の策が新発田に見破られていたのではないであろう。恐らく、藤島三之助が新発田に寝返り、我らの策を流したのだ」
「藤島が?」
龍之丞が、思いもよらなかった事に愕然とした。
「宇佐美、お前は兵数の多寡と地形の優劣のみを見て兵の顔を見ておらん」
「顔?」
「顔を見なければ、当然その心も見る事はできん。小山が斬られた後の藤島三之助の顔、あれは、表面では我らへの服従を見せていたが、その裏では我らへの恨みが残っている顔であった。三之助の顔をしっかり見ていれば、このような事にはなっていなかったであろう」
「……」
「宇佐美、戦に行く時の兵の顔を見ておるか? 皆、残して行く家族、親、妻、子らの事を思い、もう会えぬかもしれぬと言う不安と死への恐怖を抱えながら戦へ向かっておる。お前は確かに戦の天才であるが、戦は遊びではなく、兵は碁や将棋の駒ではない。人なのだ、心があるのだ。そして、もし兵が戦で死ねば、本人だけではなく、その家族達、倍以上の人間を悲しませる事になる」
「……」
「当たり前の事だと思うであろう。だが、お前のようにすでに親兄弟は無く、妻子も持っていない自由気ままな人間にはいまいち実感しにくいものなのだ」
「確かにそうかもしれません」
龍之丞は俯いた。
「お前の天下を取りに行く戦をしてみたいと言う気持ちはわかる。この戦乱の世に武士として生まれたならば、誰でも思うであろう。特にお前のように戦の才のある男はな。だが、天下を取りに行く戦は国を守る戦よりも倍以上の人間を死なせてしまうであろう。そうなれば悲しむ人間はその数十倍になる」
「……」
「そんなに沢山の民を悲しませたくはない。宇佐美、それが不識庵様が手取川の戦の後に兵を退かれた理由だ」
「え? 不識庵様がそう言われたのですか?」
「いや、わしも理由は聞いておらん。だが、いつも不識庵様の顔を見ていたわしには不識庵様の心がわかる気がするのだ」
「……」
「そして、それがわしが秀吉に臣従を決めた理由だ。わしの才では、例えお前や山城がおっても、天下を取りに行こうとすれば倍どころではない数の兵を死なせてしまうであろう。それならば、できるだけ兵を死なさずに天下を平和に導ける男の下につく方がよい。秀吉こそその男と、わしが見込んだのだ」
「そうでしたか」
龍之丞は、闇に光明を見出したような思いがした。
「俺は愚かでした。今までなんと思いあがっていたことか……生半可な才に溺れ、最も基本的な事をわかっていなかった」
いつも軽薄で浮ついていた男の目に、熱く光るものが浮いていた。
「わかったならばよい。これからも、共に励もうぞ。山城は不識庵様の領国経営の才を受け継ぎ、お前は戦の才を受け継いだ。二人共になくてはならぬ上杉の両輪だ」
「はっ」
「ではわしについて来い!」
「え?」
「見よ、車懸りがあの囲みを崩そうとしておる」
景勝が指した方向、間断無く繰り返される突撃によって、新発田兵らは戦意を奪われ四方に散りかけていた。
ちょうどその時、何度目かの突撃より戻って来た第一隊、第二隊を、景勝は合図によって止めて言い渡した。
「皆の者、よく聞け! あの囲みの向こう、きっと新発田因幡の本隊がおる。我らはあの囲みを突破し、因幡の本隊を襲う!」
「新発田本隊を?」
龍之丞は驚愕した。
だが景勝の顔には微塵の迷いも無い。
「運は天にあり」
景勝は大きな声で言った。
「鎧は胸にあり、手柄は足にあり。何時も敵を我が掌中に入れて合戦すべし。死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり」
阿鼻叫喚の大乱戦の中にあって、静かに、且つ力強く言う景勝の言葉に、龍之丞と馬廻り衆は息を飲んで耳を傾けた。
それは上杉謙信のかつての言葉であった。
そしてそれを呟く景勝の姿はまさに上杉謙信、その再来を見ているが如きだったのである。
自然、龍之丞と馬廻り衆は、熱せられるかのように魂を揺さぶられていた。
そして景勝は軍配を捨てるや、腰の大太刀を抜いて振り上げた。
「目指すは一つ、新発田因幡の首じゃ! 我に続け!」
景勝が火を吐くような大号令を飛ばした。そして大太刀を手に先頭を切って駆け出した。
龍之丞と馬廻り衆は、天地を揺るがす雄叫びを上げてその後に続いた。
車懸りの戦法によって崩れかかっている囲みの一方へ、景勝を先頭にした馬廻り衆は熱い火の玉の如くとなって殺到した。
その勢いの凄まじさに、新発田兵は四方へ逃げ散って道を開けた。
景勝らは、瞬く間に囲みを突き破って外へ出た。
その先で、景勝は右手向こうの闇の中に、一隊があるのを見た。
兵らの背に翻っているのは新発田重家の家紋。
それこそ、新発田重家本隊であった。
――やはりいたか、因幡!
景勝は眼光鋭く睨んだ。
「皆の者、あれこそ新発田の本隊ぞ! 我に続けっ!」
景勝は大太刀を振り上げて馬の速度を上げた。
目指すは新発田重家の首、ただそれだけ。
他の全てを忘れた。
戦う事以外に何も知らぬただ一匹の闘獣となり、標的へ向かって駆けた。
こちらの姿を見て狼狽える新発田重家本隊の兵士らの顔が目についた。
弓矢を構えさせる暇も与えず、景勝は馬を突っ込ませると、大太刀を振るって接触した二人を斬り捨てた。
「な、何事だ?」
隊の中央にいた新発田重家は、突如として前方で起こったどよめきに、状況が掴めずに困惑した。
「て、敵襲! 上杉軍だ!」
「先頭にいるのは景勝本人だ!」
前方の兵らが悲鳴を上げた。
「何? 景勝本人?」
重家は仰天した。
(大将自ら斬り込んで来るとは……あの小僧め。それはまるで川中島の戦での謙信公ではないか)
重家は川中島の戦に従軍している。
その時の謙信に重なる景勝の大胆な行動に、思わず冷や汗をかいた。
だがすぐに落ち着きを取り戻し、叱咤した。
「怯むなっ! 押し返せ!」
その声が耳に入った上杉景勝、
「因幡、そこかっ!」
と目を剥いて馬首をその方向へ向けた。
前方、見覚えのある新発田重家本人の顔が小さく目に入った。
大太刀を振るって行く手を遮る兵らを蹴散らし、真っ直ぐに重家に向かって駆ける。
見る見るうちに距離が詰まり、抜刀して応戦する構えを取った重家の姿が大きくなる。
――不識庵様……
――どこかで見ておられますか?
景勝は目を見開き、大太刀を振り上げた。
――貴方様の才は山城と宇佐美に受け継がれ、俺は一分も受け継いでいないでしょう。だが俺は……
景勝の眼前、歯を食いしばる重家が迫った。
それへ目がけて、景勝は渾身の力で大太刀を振り下ろした。
大きな金属音が響いた。
重家は太刀を振り上げて受け止めた。
二人の身体が交錯し、弾かれた。
景勝はすぐに馬首を返し、また重家へ突進する。
重家も同様、景勝へ向かって馬を駆る。
――不識庵様、この喜平次……魂だけは貴方様を受け継げましたか……?
再び、景勝の大太刀が夜闇に光を描いた。
その時、礼次郎もまた、囲みを突破するべく単騎で敵中に突撃していた。
「どけっ! 叩き斬るぞ!」
手槍を振り回し、馬を駆った。
眼前には次々と新発田兵が立ち塞がる。
だが、礼次郎の炎の殺気と猛風の勢いに、ある者は突き飛ばされ、またある者は自然と避け、彼の前に外への道が開かれて行った。
奇跡的であった。
礼次郎は、ついに単騎で囲みを突破した。
そして、暗闇の中を槙根砦に向かって一直線に駆けた。
すぐに、槙根砦に到着した。
礼次郎は門の前まで行くと、大声で中へ向かって叫んだ。
「伝令! 阿賀野川の陣より殿の言伝だ。すぐに門を開けてくれ!」
篝火に薄く照らされる櫓の上、二人の兵士がいた。
一人が礼次郎を見て答えた。
「今ここで言え! 城将の垣口様に伝える!」
どうやら疑っているようであった。
「口じゃ説明できない。中に入れていただきたい!」
礼次郎は叫んだが、彼らはじっと眼を凝らして礼次郎を見ると、大声で答えた。
「駄目だ。伝令ならば何故背に旗が無い? お前は本当に我が軍の者か?」
礼次郎は内心しまったと思った。
初歩的で、且つ致命的な失敗であった。
だが、すぐに冷静を繕い、
「向こうは大激戦だ。俺も途中で旗を折られてしまったんだ」
「そんなに競っているのか?」
「ああ、だから来たんじゃないか。それに、もし俺が上杉の兵だとして、一人で攻めて来る馬鹿がいるか?」
「ふむ、それもそうだな」
一人が納得したが、もう一人は用心深いのか、進み出て言った。
「待て。だがお前が我が軍の人間であると言う保証は無いぞ。何か証拠を見せろ」
何と融通の利かない連中か。礼次郎はいらついて舌打ちすると、
「火急の時だと言うのにここまで言ってもまだ疑うか。ならば宜しい。今すぐ戻って殿にこの事をご報告申し上げる。頭の固い馬鹿共のせいで、殿の命令を伝えられなかったと!」
そう言うと、馬を旋回させた。
すると、櫓の上の二人は流石に慌てた。
「あ、待たれい! よく考えれば確かにたった一人で攻めて来る馬鹿はおらん。すぐに門を開ける故、そこで待たれよ!」
うまくいったと、礼次郎はにやりと笑った。
だがすぐに真剣な顔となる。
(そうだ、たった一人で攻めるなんて馬鹿だろう。だが、今それができなければ、オレは馬鹿以下になり下がる)
門の向こう、
この門が開かれれば、そこには少なくとも百人を超える新発田兵が待ち受けているであろう。
――ゆり……
緊張に、礼次郎の心臓の音が加速して行く。
だが同時に、礼次郎の全身からただならぬ闘争の気が立ち上った。
――廃人になってもいい。助けられるなら!
礼次郎の目の色が急激に変わった。
全身の血液が冷え、また再び沸騰するような感覚が走り抜けた。
そして、門が開かれた。
同時に、礼次郎は馬を飛ばしていた。
兵士らは、すぐに騙された事に気付いて仰天した。
「お、お前は!」
「敵襲、敵襲!」
慌てて中へ駆け込んだが、その背を礼次郎の馬が蹴り飛ばし、手槍が突き伏せていた。
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