第116話 ゆりを救え

 外の戦闘の音を遠耳に聞きながら、ゆりは、牢から脱出しようと必死に鉄格子の錠を動かした。

 しかし、鉄の錠は押しても引いてもびくともしない。

 何か道具でもあればまた違ったであろうが、囚われの身であるゆりは何も持っていない。

 しばらくがちゃがちゃと錠を動かしたが、やがてゆりは何をしても無駄である事を悟ると、鉄格子にもたれかかるようにうなだれた。


「礼次……」


 伏せた目の端から、涙が零れ落ちた。


 その時、足音がして、鉄格子の向こうに長身の男の影が伸びた。

 顔を上げると、そこには仁井田統十郎が立っていた。


「仁井田……」


 統十郎は、右手に鍵を持っていた。

 腰を屈めると、無言で錠を開け、扉を開いた。


「え……?」


 意外な事にゆりが驚くと、統十郎は小声で言った。


「早く出ろ」

「え? う、うん……」


 ゆりは息を潜めて扉から外に出た。


「ありがとう。いいの?」

「上杉軍の策は失敗した。城戸礼次郎はもちろん、上杉軍の誰もお前を助けには来れないだろう。だが俺は恩のあるお前を死なせたくない」

「でも、親友の新発田にも大恩があるって……」

「だから、大っぴらにお前を助けてやることはできん。俺がしてやれるのは本当にここまでだ。見張りの兵が鍵を閉め忘れ、お前が自分で逃げたことにする。この廊下を右に行き、更に左に行くと飯炊き場があって、そこには外に通じる戸がある。今は戦の最中なので飯炊き場には誰もいない。今のうちだ、急げ」

「あなたはどうするの?」

「俺は城戸礼次郎を探す。きっとこの戦に来ているだろう。他の奴にあいつの首を取られる前に、今度こそ俺があいつを斬る」


 統十郎の瞳に、並々ならぬ執念の色が灯っていた。

 ゆりは統十郎の顔を見つめて、


「何でそこまで礼次郎にこだわるの?」

「……」

「もしかして本当に……」


 ゆりが言いかけると、それを遮るように統十郎が言った。


「以前も言っただろう。俺の剣士の本能として、真円流の使い手城戸礼次郎と斬り合いたい、それだけだ」

「本当にそれだけ?」


 ゆりが再度問うと、統十郎は目を伏せ、


「いや、違うかもな。そう思い込んでるだけかもしれん。本当は、俺の中を巡る血が俺を突き動かすのだろう」

「血?」


 以前も笠懸村で統十郎が言っていた事である。

 だが、やはりそれが何を言っているのかゆりにはわからない。


「城戸礼次郎は俺の宿敵だからな」

「宿敵? 何で礼次郎があなたの……あっ……」


 その時、ゆりは統十郎の朱色の小袖についている紋に目が止まった。


「その紋……あ、あなたはもしかして……」

「話はここまでだ、早く行け! 俺はもう行く」


 統十郎は、素早く背を翻すと、逆の方向に走って行った。


「あ、ちょっと待って。礼次郎を斬らないでよ!」


 ゆりが慌てて呼び止めるが、すでに統十郎は廊下の角を曲がって姿を消してしまった。

 止めるべく、ゆりは追いかけようとしたが、その廊下の角の向こうで統十郎と兵士の会話が聞こえて立ち止まった。


「これは仁井田様」

「おう、どこへ行く?」

「垣口様から、殿の命令で人質の女を処刑するから連れて来い、と言われたので牢に行くところです」


 その言葉に、ゆりの顔がさっと青ざめた。


「何? もう処刑か。まだ戦の最中だと言うのに早くないか?」

「ええ。ですが殿や五十公野様などは大層ご立腹ですぐに処刑せよ、と」

「そうか……ところで、戦はどうだ? 阿賀野川の陣は?」


 統十郎は、わざと話を長引かせようとしているようであった。


 ゆりは慌てて逆の方向に走った。


 統十郎に言われた通りに走ると、飯炊き場があった。

 誰もいなかった。

 外の騒然とした空気と違い、そこには飯の残り香と静寂が漂っていた。

 竈の横の方に、木戸があった。

 ゆりは少し安堵した顔で駆け寄ると、その戸を開こうとした、その時――


 戸が勝手に開き、そこから二人の兵士が入って来た。

 二人はゆりを見て顔色を変えた。


「お前は人質の……な、何でここにいる!」

「さては逃げるつもりか?」


 ゆりの顔が再び絶望に染まった。

 脚が固まったように動かなくなった。




 その時、四方を包囲されながらの圧倒的不利の乱戦中にあって、礼次郎らもまた必死の槍を振るっていた。

 順五郎、壮之介、千蔵は配下の兵士達を鼓舞しながら、自ら先頭に立って刀槍の光を縦横に閃かせる。

 礼次郎もまた、自身で手槍を取りつつ、声を枯らしてそれを指揮していた。


 だが、彼の心中には、焦りが募っていた。


(こちらの策は失敗した。それは同時に、上杉が新発田を謀ろうとしたことがばれてしまった事を意味する)


 ――そうなるとゆりは……


 脳裏に最悪の未来が浮かぶ。


 その時、新発田軍の囲みの一方から、乱戦の響きに混じって悲鳴の叫びが上がるのが聞こえた。

 同時、味方の上杉軍中から歓喜の声が上がる。


「本庄様だ!」

「越前様、修理大夫様が駆け付けてくださった!」


 本庄繁長、色部長実らが、数少ないながらも、生き残った兵士達をまとめてこちらに加勢に来たのである。


「御屋形様をお救いせよ!」

「御屋形様!」


 本庄、色部らは、百に満たない小勢ながらも、景勝を救うべく、囲んでいる新発田軍の一角に決死の突撃を敢行した。

 新発田軍から悲鳴が上がる。


 その方向を見つめた礼次郎は、


(本庄殿、色部殿がこちらに来た。と言う事は槙根砦は……)


 険しい顔で唇を噛む。


 ――ゆりが危ない!


 そう思った瞬間、礼次郎はすでに叫んでいた。


「壮之介、ここを頼む!」


 礼次郎は馬に鞭打った。


「何ですと? このような時にまたもどちらへ!」


 聞いた壮之介は、慌てて礼次郎の行く手に立って遮った。


「槙根砦だ。ゆりが危ない」

「行けませんぞ、大将がこの状況で軍を離れるなど! いや、そもそも一人で槙根砦へ行かれるおつもりか! 一人で行って何ができるのです!」


 壮之介は血相変えて諌めた。

 だが、礼次郎はそれ以上の悲壮の顔となり、


「行かせてくれ。オレ達が新発田を謀ろうとした事がばれてしまった今、ゆりが危ない」

「しかし、一人で行ってどうするのです」

「壮之介!」


 礼次郎が絶叫した。


「そこをどけ! 今ここで行かなければ、オレは再び自分のせいで大切な人を失ってしまう!」

「しかし……」

「頼む……! どかぬと言うのならお前を斬ってでも行く……!」


 礼次郎が手槍を捨てて右手を刀の柄にかけた。

 その目に微かな狂気の色が燃えていた。

 それを見て壮之介は諦めた。こうなっては、この年若い主君は死んでも止まらない。


「わかりました……そこまで言うのならば止めはしませぬ。ですが、貴方様は天哮丸を守る使命がある事をくれぐれもお忘れないよう。お気をつけて」

「わかってる。すまん。ここを頼んだぞ!」


 言うが早いか、礼次郎を乗せた馬はすでに泥土を蹴っていた。

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