第118話 許婚

 門に飛び込むと、そこは五間四方ほどの石垣に囲まれた小さな空間、すなわち虎口である。右手脇に奥へと通じる通路が見えた。本庄、色部隊が退いて行ったのでもう大丈夫と思っていたのか、門が開かれている。

 だが狭いので馬では進めない。

 礼次郎は馬より飛び降りようとした。その時、左手上方に殺気を感じた。

 見上げると、そこには石垣の上の櫓から、こちらに向かって弓矢を構えている二人の兵士。


 ――来る!


 察知し、礼次郎が手槍を投げ捨てると同時に馬より飛び降りて地面を転がった。

 間一髪、矢がその後から地面に突き刺さる。


 礼次郎は土を蹴って飛び、通路に駆け込んだ。


 櫓の兵士達が叫びながら姿を消した。


「敵襲! 上杉兵が侵入したぞ!」



 槙根砦は、小高い丘に沿って築かれている、小型の山城のような砦である。

 自然、通路は緩やかな上り坂となる。

 礼次郎は通路を駆け上がる。

 だがすぐに、前方より三人程の兵士が駆け下りて来た。


「あれかっ!」

「曲者!」


 三人同時に動ける広さではない。

 二人が前に出て、襲いかかって来た。


 礼次郎の目が強く光る。

 どう来るかが読めていた。

 ぐっと大きく踏み込んだ。

 一瞬で相手二人との間を詰めたと同時、抜刀したかと思いきやすでに刀身は二人の腹を同時に斬り裂いていた。

 血飛沫が礼次郎の甲冑を染めた。


 そして礼次郎は二人を蹴り飛ばし、跳躍すると、背後に狼狽えているもう一人に飛び降りながらの袈裟斬りを振り下ろした。

 落下の勢いで速度を増した袈裟斬りは、到底よけられるものではなかった。再び血が舞った。


 すぐにまた血相を変えた二人の兵士が駆けて来た。

 先頭の一人が上段から振りかぶって来た。

 礼次郎は受け止めるべく刀を振り上げた。と見せておいて、寸前で刀を下ろし、半身を開いて相手の斬撃を空振りさせるや、がら空きとなった腹に一閃した。


 続く相手、左脇構えからの強い踏み込みと共に高速の逆袈裟斬り。

 鮮やかな銀光が血飛沫と共に飛んだ。


 そして再び六間四方の空間、武者溜りに出た。

 そこには五、六人ばかりの兵士らが、変事を知って門に向かおうとしていたところであった。

 だが、飛び込んで来た礼次郎を見ると、


「貴様かっ!」

「舐めるなよ!」


 と一斉に襲いかかって来た。


 礼次郎は一旦通路に退いた。

 通路ならば同時に襲って来れるのはせいぜい二人であるからだ。

 そして誘い込んだ礼次郎は、狙い通りに二人を斬り伏せると、再び武者溜りに飛び込んで、高速の太刀捌きで残る四人を斬り捨てた。



 その頃、ゆりは本郭の庭へ引き摺り出されていた。

 そこには二十人ばかりの兵士が詰めて四方を固めている。


 砦の主将、垣口摂津守昌成がゆりを見下ろした。


「武田百合殿。悪く思うな。上杉軍が我らを謀ったので、人質であるその方は見せしめとして処刑せねばならんのだ」


 ゆりはうなだれたまま何も答えなかった。

 目には虚ろな悲哀の色のみ。

 抵抗もしようとしない。

 彼女はすでに観念しているようであった。


 上杉軍の策は失敗した。

 助けようとしてくれていた仁井田統十郎の姿もいないようである。

 もはや助かる術は無い。


「そなたのようなまだ若い女子を斬るのは心苦しいが、命令であるので仕方ない。覚悟召されよ。そなたはかの武田四郎勝頼の娘と聞いた。よって敬意を表し、わし自ら成敗いたす」


 垣口が刀の柄に手をかけた。


 その時、砦の中が俄かに騒がしくなり、どこかより悲鳴も上がり始めた。

 兵士達が何事かとざわつく。

 すると、一人の兵士が別の場所より走って来て、垣口に告げた。


「垣口様、敵襲でございます!」

「何じゃと? 兵数はどれ程だ?」

「それが……一人でございます」

「一人? 馬鹿を申せ、一人で攻めて来たと?」

「はい、本当でございます」

「たった一人相手にこのように騒がしいのか? 何と情けない! さっさと首を取って来い!」


 垣口は呆れて叱りつけた。



「敵襲、敵襲!」


 ドンドンと陣太鼓の音、銅鑼の音が砦中に響き渡り始めた。


 礼次郎は武者溜りから次の通路へ飛び出した。

 左右二手に分かれていた。


(どっちだ? どっちへ行けばゆりがいる?)


 礼次郎は左右を見回す。


「……!」


 常人の域を超えた彼の感覚が、何かを感じ取った。


 ――こっちか!


 礼次郎は左へ走った。


 その時、左右の通路の薄暗がりの奥から、どっと湧き出る人の群れ。


「いたぞ! あそこだ!」


 前後より兵士が殺到して来た。


 礼次郎の目の色が更に変わった。

 再び、心の皮を一段剥いた。


 礼次郎は駆け出すと、右の土壁に飛んだ。首から提げているゆりの観音菩薩像が虚空に揺れる。

 そして土壁を蹴って飛び上がると、身体を夜闇に躍らせ、一回転させながら剣を真横に振り払った。

 刃光が闇に真円を描き、三人が血煙に沈んだ。



 ――秘剣雷車いかずちぐるま



 礼次郎の太刀筋は勢いに乗ってますます冴える。

 着地するや、礼次郎は再び地を蹴り、突き、袈裟斬り、左脇構えからの逆袈裟。流れるような連続攻撃を浴びせ、数人をあっと言う間に斬り伏せると、今度は背を返して反対側へ走る。

 そして向こうより殺到して来る兵士達に飛びかかり、縦横無尽に刀を振るい、一人、二人、三人、と次々と斬り伏せる。

 再び逆へ走ってまた次々と一撃で斬り伏せる。


 両脇の土塁の上、櫓の上に弓矢を持った兵士が姿を現し、矢を放っていたが、礼次郎はそれらも悉く打ち払って行った。


 そして、前後より挟撃して来る敵兵を、粗方一人で斬り倒してしまった。


 礼次郎の顔はもちろん、兜も返り血で赤く染まった。疲労に息も激しく乱れていた。

 ふと、左上腕に痛みを感じ、そこを擦った。わずかに敵の切っ先が掠っていたらしく、切り傷から血が流れていた。


 身体がふらついた。

 しかし、礼次郎の脚は止まらない。

 兜を脱ぎ捨て、頭を左右に振ると、再び駆け出す。


「一人で来るとは舐めやがって!」


 敵兵が次々と行く手を塞ぐが、真円流精心術によって身も心も修羅の如くとなった礼次郎は全てを一刀の下に斬り伏せて行った。


 そして、礼次郎はついに本郭まで辿り着いた。


 激しい疲労に、ガクッと膝と手をついた。

 だが、しばらく呼吸を整えてから見上げた本郭の門は、これまで全ての門が開いていたくせに、ここだけは固く閉ざされていた。


「何でだよ!」


 礼次郎はふらふらと立ち上がると、少し苛ついて門を蹴った。

 しかし、どうやら開きそうにない。


 左右を見回した。

 今しがた斬り捨てて来た敵兵の死体が転がっている。

 礼次郎は敵兵の死体を土塁の壁の前に放って積み上げて行った。ある程度の高さができた。

 そして、助走をつけてそこに飛び上がると、それを踏み台にして再び跳躍し、土壁の上に手をかけてよじ登った。

 本郭の中が見渡せた。

 二十数人の兵士達が詰めている。

 奥の方に、後ろ手に縛られて座らされている女が見えた。


 ――ゆりだ!



「静かになったな。やっとその一人を討ち取ったか。しかしたった一人相手にこんなにも手こずるとは我が軍の兵士らも情けない。上杉に負け続けるのも当然じゃ」


 垣口摂津守は呆れた顔でぶつぶつと文句を言った。

 そしてゆりに向き直った。


「では武田百合殿、お覚悟を」


 垣口は刀を抜いた。

 ゆりの頭を左手で押し下げる。


 ゆりはすでに観念していたが、いくら観念しようとも無念は残る。


 礼次郎の姿が思い浮かんだ。


 ――礼次郎、さようなら……


 両目から冷たい涙が零れ落ちた。


 耳の奥に、あの時の礼次郎の言葉が響く。



 ――だから、オレと君の許婚の事、無かった事にしてくれ――



 ゆりの涙に濡れる顔が歪む。


(やっぱり嫌……礼次……許婚に戻れなくてもいいから……せめて仲違いしたまま別れるのだけは嫌……)


 ――もう一度会いたい。



 涙が両目から落ち、大地に吸い込まれて行った。


 その時、兵士達が突如としてざわざわと騒ぎ始めた。


「何だ、あれは?」

「誰だ?」


 皆、背後の土壁の上を見つめている。

 それに気付いた垣口も、手を止めてその方向を見る。


 その土壁の上には、刀を右手に提げ、返り血に塗れた修羅の如き形相でこちらを睨んでいる男がいた。


 すなわち城戸礼次郎。


 礼次郎は足下の土壁を蹴った。

 夜闇に身体を躍らせると、刀を上段に構えながら飛び降り、一人を斬り伏せながら着地すると、返す刀でもう一人を斬り伏せた。


「な、何だてめえは?」


 兵士達が思わず後ずさった。


 そのざわめきは瞬く間に広がり、ゆりにも届いた。

 彼女は顔を横にしてその方向を見た。

 瞬間、ゆりの悲痛に張りつめていた顔が思わず緩んだ。


「礼次郎……!」


 ゆりと礼次郎の距離は約十四間ばかりと遠い。だが、二人の視線ははっきりとぶつかった。


 礼次郎はキッと唇を結ぶと、再び開いて大声で叫んだ。


「その女を放せ」


 その声は垣口にまで届いたが、垣口は唖然としていた。


「一人で攻めて来たってのはお前か? 静かになったのは討ち取ったのだと思っていたが、まさかその逆で、ここに来るまでの我が軍の兵を全員討ち取って来たから静かになったのか? 信じられん……」


 だが、礼次郎の頭髪から籠手から足下まで血に染まった姿が、それを証明している。

 垣口は大声で言った。


「貴様、何者だ?」

「城戸頼龍よりたつ

「何、城戸? 樫澤殿を討った男か?」

「そうだ」

「その城戸が、何故たった一人で乗り込んで来た?」

「そこの女を取り返しに来たんだよ。さっさと放せ」

「何? 正気か? たかだか人質の女の為に一人で来たって言うのか?」


 垣口が呆気に取られたように驚く。


「文句あるのか?」

「信じられん。いくら景勝の妻の姪とは言え、たった一人で来るとは。こんな小娘がそんなに大事か?」


 垣口が更に驚くと、礼次郎は眼を怒らせて叫んだ。


「俺の許嫁だ! 放さねえと全員叩き斬るぞ!」


 咆えるような怒号が本郭を走り抜けた。

 兵士らの動きが思わず固まった。

 炎のように熱い叫び。だが、ゆりの心には暖かく響いた。



 ――許婚……。



 ゆりは、放心したような顔で、遠くの礼次郎を見つめた。



 ――また私を許婚って言ってくれるの……?



 ゆりの目から、先程とは違う温度の涙が伝い落ちた。



 垣口摂津守は、それまでの礼次郎の大胆な行動に唖然としていたが、全員叩き斬ると言う礼次郎の言葉には、流石に呆れて笑った。


「いくら貴様が腕が立つとは言え、冗談はよせ。ここにいる二十数人だけではない。まだ兵はいるのだぞ」

「じゃあ呼んでみろよ」

「はっ」


 垣口が嘲るように笑った時、ちょうど門が開いて、更に十数人の兵が姿を見せた。


「先程までは、貴様も運が良かったのもあるのだ。通路が狭かったのでこちらも同時に向かえるのがせいぜい三人であっただろうからな。だがここは違う。この広い空間でこれだけの人数が貴様に向かうのだ」


 垣口は笑った。


「…………」


 礼次郎は唇を真一文字に結ぶと、ゆっくりと四方を見回した。


 敵は、合計三十余人。

 死地である。


 おまけに、ここまでの斬り合いで礼次郎の体力は激しく失われている。

 脚が少しふらつき、頭も時折割れるような痛みが襲って来ていた。


(更に精心術を使い、そしてこの剣を使えば今度こそ廃人になってしまうかもしれない。だが……)


 礼次郎は脇差を抜いた。

 右手に城戸家伝来の刀、左手に脇差と言った二刀の構えとなった。


 それはすなわち真円流絶技、無天乱れ龍の構え。


 遠く、心配そうにこちらを見つめるゆりの顔が目に入った。



 ――廃人になってもいい。ここで君を救い出せるなら。



 礼次郎の目の色が再び変わった。

 呼吸が更に荒くなる。


 もう一段、心の皮を剝いた。

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