第113話 長い夜

 槙根砦内の格子の牢の一室――

 高い位置にある鉄格子付の窓から、赤く染まった西の空が見える。

 格子の隙間から牢内に射し込む淡い黄昏の光が、ゆりの顔を黄金色に照らしていた。

 だが、光に向かって窓を見上げるその表情は虚ろに暗い。


 ――もう上杉方には知らせが行ってる頃よね。


 (でも所詮私なんて助ける義理は無い、関係無いよね。迷惑かけちゃっただけ……)


 ゆりは顔を下ろし、壁の一点を見つめた。


 ――私、殺されちゃうのかな。


 両手をぎゅっと胸に押し当てた。

 だが、泣き出したい気持ちなのはそんな不安だけのせいではなかった。


 ――礼次郎、私が人質にされたって聞いたらどう思うかな。私に呆れるかな……それとも心配するかな……。


 ゆりは、再び顔を上げ、窓の向こうの赤い空を見上げた。


(少しは心配してくれる……? 殺されちゃう前に、あなたが最後に少しでも私の事を想ってくれたら、私はもうそれだけでいいから……)


 瞳に映る光が揺れた。


 その時、牢の外には一人の兵が見張りを命じられていたのだが、別の場所より更に同僚らしき二人の兵がやって来た。

 三人は互いに下卑た笑みを浮かべると、


「よし、そろそろ始めるか」


 と、格子の鍵を開け、乱雑に中に入って来た。


「え? 何? 何……?」


 ゆりが怯え混じりに戸惑うと、


「ははは、何言ってるんだ? わかってるだろう?」


 一人が甲冑を解き始めた。


「え? ちょ、ちょっと……やだ!」


 ゆりの顔に恐怖の色が走るが、


「大人しくしてろ! 人質なんだからこうなるのは当たり前だろ! 」


 残りの二人がゆりの身体を押さえにかかった。

 ゆりは必死にもがくが、その細腕では、戦場で槍を振るう男の力には到底抗えない。


「やだ! やめてよ! 放して……!」


 ゆりは目に涙を浮かべて叫んだ。

 そして抵抗虚しく、小袖を剥がされようとした、その時――


「やめろ!」


 雷の如き大喝が飛んだ。


 三人が、びくっと身体を震わせて背後を振り返った。

 そこには、総髪を結わずに垂らした長身の男、すなわち仁井田統十郎政盛が、切れ長の目を怒らせて立っていた。


「に、仁井田様……」


 三人が狼狽えた。


「てめえら、何してやがる。その薄汚え真似をやめろ」


 睨み渡した統十郎、静かに怒りを抑えているが、その爛々と光る目からは殺気がほとばしっている。


「いや、しかし、殿にも死ななければ何をしても構わんと言われております」

「因幡が許してもこの俺は許さん」

「しかし……」


 三人は尚も渋ると、


「ならやってみろ。燕が飛ぶぞ……?」


 統十郎は、左手を動かし、腰に帯びる撃燕兼光の鯉口を切った。


「う……す、すみませんっ……!」


 その様に、底冷えのするような恐怖を感じた三人は、色を失ってゆりを放し、牢から逃げて行った。


 ゆりは、助かったものの、今の恐ろしさで涙を流して泣いていた。


「すまんな。恐いを思いをさせて。だが、これでもうお前を襲おうとする奴はいないはずだ」


 統十郎は、牢の前に立膝をついて中のゆりに言った。


「あ……ありがとう……」


 ゆりは、着物の乱れを整えながら横目で見て言った。

 そして、立ち上がった統十郎に、


「何で助けたの?」

「俺はああいう汚い真似が大嫌いなんだ」

「へえ……」


 ゆりは、意外だと言う風に統十郎を見た。


「それに、お前には命を助けられた恩があるからな」

「じゃあ、ここから助けてよ」

「そうしてやりたいのだがそうもいかんのだ」

「何で」

「お前にも大恩があるが、親友である因幡にも大きな恩があってな。このようなやり方は俺は好かんのだが、因幡が戦略の為にお前を使うと言うのならば、その邪魔はできん。だから、俺にできるのはお前がここにいる間、こうして守ってやることぐらいだ。すまんな」

「…………」

「心配するな。俺がいる限り、誰であろうとお前には指一本触れさせん」

「……ありがとう」

「ただ、お前がいざ斬られるとなった時には助けてはやれん。その時は覚悟してくれ」

「…………」

「ふっ……安心しろ。俺達にとっては起きて欲しくない事だが、すぐにお前の夫の城戸礼次郎が助けに来るだろうよ」


 統十郎が冗談めかして笑って言ったが、ゆりは無言で何も答えなかった。

 その暗い顔に何かを感じ取った統十郎、


「どうした? 仕方ないが、やっぱり不安か?」


 ゆりは俯いて、


「礼次郎は来ないわよ。夫じゃないから」

「は? 何言ってやがる?」

「夫でもなければもう許婚でもないから」

「もう? 許婚? どういうことだ?」

「…………」


 ゆりを見下ろしていた統十郎だが、不審そうにゆりの顔を見つめると、おもむろにその場に腰を下ろして胡坐をかいた。

 そして、煙管を取り出して煙草を吸い始めながら、


「何かあったようだな」

「別に……」

「お前、本当は城戸礼次郎とはどんな関係だ?」

「関係ないでしょ」


 ゆりが顔を背けると、統十郎は笑いながら、


「良ければ退屈しのぎにでも聞いてやるぞ。壁に向かって喋るよりはいいだろう」

「あなたに話したって何も解決しないでしょ」

「俺は妻もいるし、こう見えても恋歌が得意でな。あの里村紹巴にも歌を褒められた事がある」


 恋歌、と言う言葉にゆりは反応し、複雑そうな顔となった。


「礼次郎を斬ろうとしているあなたに話してどうするのよ」

「まあ、そうだな。だが、心がもやもやしているなら、誰かに話すだけですっきりすることもあるんだぜ。まあ、話したくないって言うんならいいがな……」


 統十郎は、煙を吐いた。


「…………」


 ゆりは、横目でじっと統十郎の顔を見た。



 その頃、上杉軍の陣中では、景勝の帷幕の中で、直江兼続、宇佐美龍之丞に加え、藤田信吉、須田満親らも加わり、ゆり救出の謀議をこらしていた。

 新発田からの使者には、明日返事をすると伝えて帰らせてある。


「新発田はゆり殿を連れて木場城に入った後、木場城でゆり殿を解放すると言って来ている。木場城に入られてしまってはおしまいだ。その前に何とかしてゆり殿を助け出さねばならん」


 兼続が眉間に皺を寄せる。


「木場城に向かう新発田軍に奇襲をかけ、混乱させてそのうちに助け出すと言うのは?」


 藤田信吉が提案すると、


「わしもそれをまず考えたのだが、新発田は、木場城を明け渡す際には我らの軍勢を四里の外に退かせろ、それを確認した上で木場城に入る、と言って来ている。これでは待ち伏せ、奇襲はできん」


 兼続が難しい顔で答えた。


 そこから、須田満親や、上杉景勝自身も意見を出し、論を戦わせたのだが、なかなかこれと言った妙案が出ない。


 皆、考えに詰まり、しばし押し黙ってしまった。

 結論の出ないまま、時だけがいたずらに過ぎて行った。

 そしてすっかり西陽が落ちて、幕の外が薄暗くなり始めた時、


「やはり、元の予定通りに行こう」


 と龍之丞。


「元の?」

「夜襲だ。明日の夕暮れ時、新発田に木場城を明け渡すので陣を退くと伝えた上で、実際に陣を退き払って春日山に向かう。また、あらかじめ付近の住民に手を回して、眠り薬の入った酒を奴らに献上させておく」

「ふむ……」

「夜の間は、奴らは奇襲を警戒して木場城には向かわず、陣にとどまるだろう。だがそこで我らが春日山に帰った事を知れば、安心して献上された酒を飲むはずだ。そして奴らが眠り薬で前後不覚になった頃を見計らい、我らは反転し、脚の速い軽騎兵を二手に分けて一隊は阿賀野川向こうの陣を襲い、もう一隊は槙根砦に攻め入ってこれを一気に殲滅、ゆり殿を救い出す」

「なるほどな」


 景勝らは納得して頷いた。

 だが、兼続は腕を組んで言った。


「しかし、ここ二戦で奴らも相当用心深くなっているはずだ。夜襲は警戒しているのでは?」

「そこで、生かしておいたあいつを使う」


 龍之丞がにやりと笑った。


「あいつ?」

「小山長康の家臣で新発田との連絡役をしていた藤島三之助だ」

「あっ、そうか……」

「小山が成敗されたことは、小山の手勢にすら秘密にしてある。新発田も当然知らず、未だに小山は生きていて新発田に通じていると思っている。これを利用し、藤島三之助に小山からの情報として、我らは何も計らず、真っ直ぐに春日山に帰ると言う事を伝えさせるのだ」

「なるほど、それは妙案!」


 藤田、須田が手を叩いた。

 だが、景勝の顔には不安が浮かんだ。


「新発田に信じ込ませぬ事ができれば逆に我らは窮地に陥る。そのような大事な役をあの者に任せて大丈夫か?」


 景勝は、小山が斬られた後の三之助の複雑そうに消沈した顔がどこか気にかかっていた。

 だが、龍之丞は笑ってそれに答えて、


「大丈夫です。三之助には家族を人質に取ると言ってあります」

「そうか……」


 景勝は納得した風を見せたものの、それでもまだ顔には不安な色が残った。



 礼次郎は心が落ち着かず、一人陣小屋の外に出て、重く広がる星空を見上げていた。

 少し離れたところに、篝火が炊かれている。

 礼次郎はそこまで歩いて行くと、首にかけていたゆりの観音菩薩像を手に取って見つめた。

 しばらくして手を放すと、今度は懐からふじの朱塗り螺鈿の櫛を取り出して、見つめた。


「あれ?」


 彼は何かに気付いた。

 ふじの櫛が、何となく新しくなっているように見えたのだ。

 暗いせいかと思い、篝火の明かりに照らしてよく見てみた。

 間違いなくふじの櫛である。だが、やはりどこか新しくなっている感じがある。

 そんなことあるか? と、礼次郎は首を傾げた。


 その時、


「城戸様」


 と背後で声をかけた者がいる。

 礼次郎が振り返ると、そこには喜多が立っていた。

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