第112話 景勝の決断

 新発田方、槙根砦――

 さらわれたゆりは、両手を後ろで縛られたまま、本廓の中庭に投げ捨てられるように座らされた。


 やがて、知らせを受けた新発田重家が、五十公野道如斎、仁井田統十郎らと共にやって来た。


「密かに陣中見舞いに来る景勝の妻、菊をさらって来い、など自分でも無茶な命令だとは思っていたが、まさか成功するとは思ってもいなかったぞ」


 重家は思わぬ朗報に上機嫌で声を張り上げて歩いて来たが、座らされているゆりを見ると、


「誰だこの女は?」


 目を丸くして驚いた。

 さらって来た兵達は不思議そうに、


「これが菊ではないのですか? 上杉の陣の近くにおりましたし、話に聞いた格好そのままですが」

「馬鹿者! 似ても似つかぬわ。つらこそ良いが、菊はこんなガキくさい体型ではない。もっと長身で肉付きもよく、色気があるわ!」


 重家が怒鳴った。


 ゆりはそれまで不安そうな表情であったのだが、その言葉で途端に不機嫌な顔となった。


「こんなどこの馬の骨とも知れぬ女では役に立たんわ」


 重家は、ぶつぶつと愚痴を言った。

 すると、それまで興味無さげにあくびなどしていた傍らの仁井田統十郎が、


「いいではないか。女をさらって人質にするなどと言う卑劣な策、俺は好かん」

「この状況ではそうも言ってられんのだ。勝つ事が第一だ」

「その心意気はいいがなぁ」


 統十郎は苦笑すると、何気なくゆりに視線を移した。


「うん?」


 そこで初めてまともに人質の顔を見て、それがゆりだと気がついた。


「お、お前は……!」


 と驚きの声を上げる。

 ゆりもまたそんな統十郎に気付いて、あっ、と声を上げそうになった。


「知っているのか?」


 重家が振り返ると、


「ああ。上州で死にかけていた俺を手当てしたゆりとか言う小娘だ」

「何? これが例の?」

「そして城戸礼次郎の妻だ」

「城戸? 樫澤宗蔵を討った若い男か?」

「ああ」

「ふむ……おい、外してやれ」


 重家の命令で、ゆりの猿轡が解かれた。

 口を解放されたゆりは、深く呼吸をすると、重家、統十郎を睨みつけた。


「小娘、どうしてここにいる?」


 統十郎が聞いた。


「私が聞きたいわよ。あなた達が連れて来たんじゃない」

「はは、そうだな。すまん」

「帰してよ」

「ああ……。因幡殿、この小娘は景勝の妻ではないし、俺はこいつに命を救われた恩がある、放してやってくれねえか?」


 統十郎が重家に頼むと、重家は呻いて、


「そうか。樫澤を討った憎い男の妻であるが、その男の妻程度じゃ脅しにはならんであろうし、統十郎の命の恩人とあれば仕方ないな。おい、解いてやれ」


 と、控える兵らに命令した。

 すぐにゆりの縄が解かれた。


「すまなかったな。俺が送って行ってやろう」


 統十郎が笑いながら言った。

 するとゆりはすっと立ち上がって、


「いらないわよ。馬を貸してくれれば一人で帰るわ」


 そしてゆりは重家を睨み、


「私を叔母上と勘違いしてさらったみたいだったけど、叔母上をさらってどうするつもりだったの?」


 と言うと、重家の顔色が一変した。


「何? 叔母?」

「そうよ、菊は私の叔母だから」


 この言葉に統十郎も驚いた。


「と言う事はお前は武田家の人間だったのか?」

「う、うん……」


 ゆりは視線を落とし、ぎこちなく頷いた。


「そうか、菊の姪か」


 重家は獰猛とも言える目の光をぎらつかせると、


「放す事まかりならん、再び縛り上げよ!」


 と大声を出した。


「えっ? ちょっと……」


 ゆりが驚く間も無く、すぐに周りの兵が寄って来て、再びゆりを縛り上げた。


「おい、因幡」


 統十郎が困った顔となるが、


「菊の姪であれば、景勝にとっても捨て置けぬであろう。十分に使えるわ。この小娘を牢に閉じ込めておけい!」


 重家はにやりと笑って命令した。



 陣小屋に戻った礼次郎は、しばらく浮かない顔で床几に座り、何か悶々と考え込んでいた。

 午後になり、順五郎らと共に、絵地図を前に戦の事や武想郷の事などを話している時も、時々急に無言になったり、少し虚ろな目で明らかに集中を欠いた様子を見せたりしていた。

 それを流石におかしいと思った順五郎は、


「どうした若? さっきからおかしいぞ」

「あ? ああ、そうかな……」


 礼次郎は慌てて背筋を伸ばしたが、


「確かに。心がここに無いと言うか。どうかしましたか?」

「顔色もお悪い」


 壮之介と千蔵も心配する。

 礼次郎は溜息をつくと、


「すまん、ちょっと出て来る。すぐ戻るから」


 と言って陣小屋を出て行った。

 後に残された三人は皆首を傾げた。


 礼次郎は、陣中を歩くと、あまり人気の無いところで脚を止めた。

 そしてしばらく、鬱々たる表情で何やら考え込んでいたが、


「……流石に言い過ぎた」


 ぽつりと呟くと、唇を噛んだ。


 ――宇佐美殿とのことから不機嫌を引きずってしまった……駄目だな……


 礼次郎は目を閉じ、右手拳を握りしめて額にトントンと当てた。


「あとでゆりに会ったら謝ろう」


 そう呟くと、顔を振った。


 そして、気分を紛らわそうと、背中に背負っていた景勝より賜った"桜霞長光"の剣を手に取り、鞘から抜いた。

 露わになった刀身は、まるで妖気の如き青白い光を放っていた。

 それは静かな佇まいであるが、一目見て凄絶な斬撃力を持っているであろうことがわかった。


 刀身のハバキに近いところに目が行った。

 そこには、故意なのか偶然なのか、桜の形をした模様のようなものが三つ、輪郭朧げに浮いていた。


「だから桜霞か。洒落てるな」


 礼次郎は一人呟くと、剣を正眼に構えた。

 そして上段から渾身の力を込めて振った。

 何か目に見えないものを断ち切ろうとするかのような一振りであった。


 するとそこへ、


「礼次郎殿!」


 直江兼続が、慌てた様子で走って来た。


「直江様」

「探したぞ! 大変だ」


 兼続は礼次郎の側まで駆け寄って来ると、息を乱したまま言った。


「ゆり殿が新発田に捕まった!」

「えっ、今何と?」


 礼次郎は耳を疑い聞き返した。


「新発田より使いが来た。どう言うわけか、ゆり殿が新発田軍にさらわれ、人質となってしまったらしい。新発田はゆり殿の命と引き換えに新潟津の木場、新潟の両城を明け渡せと言って来ておる。そして、応じぬ場合には即刻ゆり殿を殺すと……」


 その言葉に、礼次郎は顔色を変えたが、


「そんな……こちらを欺く為の狂言では?」


 と冷静に努めて言った。

 だが兼続は首を横に振り、


「使者がこれを持って来た」


 と、手に持っていた物を差し出した。


「これはゆりの……」


 それは、今朝礼次郎がゆりに返した、彼女の小さな観音菩薩の木像であった。


 礼次郎の表情が固まった。

 呆然とその木像を見つめていた。



 上杉軍本陣――


 密かに集められた将達が、それぞれ険しい顔を並べて論を交わしていた。


「ゆり殿は御方様の姪、見捨てるわけにはいかん」

「しかし、新潟津を奪取するのに我らがどれだけの血を流したか。そうやすやすとは渡せん」

「その通り。木場、新潟の両城は大重要拠点である、ここを明け渡せば彼我の力関係が逆転してしまうであろう」


 議論は紛糾し、諸将の意見を戦わす声は止むことが無かったが、いつまで経っても結論は出なかった。


 景勝、兼続、龍之丞の三人は、それぞれ胸のうちに自問自答しているのか、特に口を開くこともなく皆の意見を聞きながらも黙っていた。

 末席にいた礼次郎もまた、しばらく黙って皆の意見を聞いていたのだが、我慢ができなくなって席を立ち、すっと場の中央に進み出て跪いた。


「御屋形様!」

「…………」


 景勝は、眉間に皺を寄せたまま礼次郎を見た。

 その他の諸将の目も一斉に礼次郎に注がれた。


「私は客人、その身でこのような事を申し上げるのは勝手な事とは元より承知でございます。ですが、どうかゆり殿を助けていただけないでしょうか?」


 礼次郎は頭を地につけた。

 景勝は無言で礼次郎を見つめたままであった。


「ゆり殿は礼次郎殿の許嫁。心配であろうな」


 兼続が沈痛な表情で言った。


「奥方様の姪でもあられます。これを見捨てる訳には行きますまい」


 礼次郎は、顔を上げて言った。

 だがそれに対し、龍之丞が横から、


「だけど血は繋がってないだろう? ゆり殿は武田勝頼の実の娘ではない。申し訳ないが助ける義理は無い」


 特に表情も変えず、淡々とした口調で言った。


「何だと?」

「そうだったのか……」


 知らなかった将達は、皆一様にざわついた。


「宇佐美殿、あなたはまだそのような事を……!」


 礼次郎は眼を怒らせて龍之丞を睨んだ。


「新潟城は俺達が沢山の犠牲を払ってようやく手に入れた城なんだ。そして木場、新潟の両城を渡せば、上杉と新発田の力関係は逆転するかもしれねえんだ。それを女一人の命ぐらいで渡すわけにはいかねえ。ましてや奥方様と実の血の繋がりはないただの女とくりゃあ……」

「実の親兄弟でも殺し合うこの戦国乱世、血の繋がりにどれ程の意味がある!」


 礼次郎の気が迸る一喝。龍之丞が黙った。

 そして礼次郎は再び景勝を見上げて、


「御屋形様、お願いでございます、どうかゆりをお助けください」

「…………」


 景勝は依然無言であった。


「できぬと仰せならば、せめて私にこの陣を離れる事をお許しください。家臣達と共に、何とかして槙根砦に入り込み、ゆりを助けて参ります」


 そう言うと、礼次郎は悲壮な覚悟を滲ませ、立ち上がった。


 すると、景勝が口を開いた。


「待たれよ」


 重々しく、凛とした威厳のある声が場を静寂に包んだ。

 景勝は無言で一座を見回すと、静かに言った。


「不識庵様であれば如何したであろうな……」


 その言葉が、無音の雷のように座を走り抜けた。

 誰も言葉を発しなかった。


 景勝はキッと口元を結ぶと、決意を固めた顔で言った。


「ゆり殿を助ける」


 礼次郎が、強張っていた顔を緩めた。


 龍之丞は驚いて、


「それでは新潟津を失ってしまいますぞ」


 と諌めると、景勝は睨むように龍之丞の顔を見て、


「木場城、新潟城は新発田には渡さん。渡さずにゆり殿を助ける」

「え?」

「よいか皆の者、我らは卑劣漢新発田の要求は呑まん! だがゆり殿を救わねば不識庵様以来の上杉家の正義は地に墜ちる。新潟津を渡さずにゆり殿を助けるのだ!」


 景勝は立ち上がり、大声で諸将に言い渡すと、龍之丞を振り向いて言った。


「宇佐美、その策を考えるのがお前の役目だ。山城らと共に策を練ろ」

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