第106話 武想郷、八幡太郎義家の伝説
「どうしたんだい? こんなところで一人で」
龍之丞は、例の屈託の無い、少々馴れ馴れしい笑顔で歩み寄って来た。
「いや、少々想う事がありまして」
「そうかい。そりゃ奇遇だ。俺も想う事があってな、どうも浮かなくて外に出て来たんだ」
龍之丞は礼次郎の隣に来ると、
「折角だ。少し一緒に飲もうや」
と言って、足下を手で指した。
礼次郎は頷くと、草むらの上に腰を下ろした。龍之丞もその隣にどかっと座り込んだ。
「ほら」
龍之丞が、持っていた酒の入っている竹筒を礼次郎に差し出した。
「いただきます」
礼次郎はそれを受け取り、口の上で傾けて酒を一口飲むと、龍之丞に返した。
龍之丞も一口飲むと、礼次郎に言った。
「今日は本当に大手柄だ。ご苦労さん」
「いえ、運が良かっただけです」
「運……そうだなぁ。あんた大将だろ? 結果的に樫澤宗蔵を討ち取れたから良かったが、大将が軽々しく"太刀打ち"なんてするもんじゃねえぜ」
「ええ、さっき壮之介にも言われました。反省してます」
「はっはっはっ。あんたには大きな志があるんだろ? 命はもっと大事にしなよ」
「はい。そうですね」
礼次郎は苦笑いする。
龍之丞はそんな礼次郎の横顔をじっと見て、
「礼次郎殿。あんたは若い癖にどうも生き急ぎ過ぎてるように感じられるぜ」
「え、そうですか? 直江様にも同じような事を言われました。そんなつもりはないのですが」
「何だろうなぁ。元々のせっかちもあるんだろうが、何かに駆られてると言うか……ああ、そうか。あんた、色々な物を全て一人で抱え込み過ぎてるからか」
「抱え込む?」
「そうだよ。城戸家の再興、徳川家康への仇討、天哮丸の奪還と守護、それにあんた個人の事……どれも十七歳の若いのが抱え込むには重すぎるぜ」
「そうでしょうか?」
「ああ。そうでしょうか? なんて言ってる時点で心配だね。あんた頑張りすぎてるよ。張りつめた糸が切れやすいように、頑張りすぎるとぶっ倒れちまって二度と立ち上がれなくなるぜ。もっと力抜いて行きなよ」
「しかし、どれも私がやるべき事で、私にしかできぬ事」
礼次郎が憂いの顔となる。
龍之丞は溜息をついて、
「まあそれもそうだな。でも俺が言った事をよく考えてな」
「はい」
「たまには、俺みたいに少しは放蕩してみたらどうだ?」
「放蕩?」
「ああ、酒と女遊びだよ」
龍之丞はにやっと笑った。
しかし礼次郎は少し引きつった顔で苦笑いして、
「いえ。とてもそんな気には……」
「なれないか」
「ええ……こうしている間にも天哮丸は風魔玄介の手にある。一刻も早く幻狼衆と風魔玄介を討って、天哮丸を取り戻さないと。そう思うと気が急いてばかりで」
礼次郎は、夜空を睨んだ。
「ふふ、真面目だねぇ。まあ、さっきも言ったように頑張りすぎないようにな。手を抜くってのも大切だからよ」
龍之丞は呆れたように微笑し、竹筒を傾けて酒を一口飲んだ。
しかし、ふと何かを思い出した顔になり、
「天哮丸か……。それを握った者は天下を得るか自身の破滅か。旦那に聞いたんだけど、その風魔玄介の手にあった時は、錆びや刃こぼれでボロボロ、しかもどの刀工に見せても手入れはできないと匙を投げられたって聞いたけど本当か?」
「はい。確かにボロボロでした。そして、天哮丸を持っていた玄介も特に変わった様子は無く、奴自身でも天下を得る力を持った気はしない、と言っていました。恐らく、天哮丸はその姿を元に戻さねば天下を得る程の力と言うのを発揮できないのでしょう。ですが、私にも玄介にも、まだ天哮丸を元の姿に戻す方法がわからないのです。これから探ろうと思っています」
「ふーん」
龍之丞は急に、策を練っている時のような顔つきとなると、
「礼次郎殿、河内源氏の聖地、と言われている場所があるのを知ってるか」
「河内源氏の聖地? 聞いた事ありませんね」
「そうか。これは俺がこの前まであちこちを放浪していた時に噂で聞いた話なんだがな。あんた達河内源氏の聖地と呼ばれている場所があり、その名を"
「武想郷……」
「その武想郷、天下にその存在をほとんど知られていないのだが、一つの伝説がある。かの
「その宝刀とはもしや……」
礼次郎ははっととして思わず言葉が漏れ出た。
しかし龍之丞は言葉を続ける。
「そして、この伝説には続きがある。その宝刀の力によってその後の数々の戦に勝利し、後に神格化される程武名を上げた義家だが、ある時、何を思ったかその宝刀を再び武想郷に返したらしい。その時、義家は、"この剣は使い過ぎれば世を乱し、いずれは我が身をも滅ぼすであろう"と言ったとか」
それを聞いた礼次郎は唇を震わせた。
「間違いない、それは天哮丸の事だ」
「だよな? この噂を聞いた時は天哮丸の事を知らなかったから特に気にも留めなかったんだが、今あんたと話してて急に思い出して話が繋がったんだ」
龍之丞が嬉しそうに顔を輝かせた。
「その伝説が真実だとしたら、武想郷と言うのはきっと天哮丸が生み出された場所に違いない」
礼次郎は唾を飲み込んだ。
「なるほどな」
「その武想郷に行けば天哮丸を元の姿に戻せるはずだ。宇佐美殿、その武想郷がどこにあるのかは聞きませんでしたか?」
「いや。噂で聞いただけだから詳しくは知らない。ただ、人里離れた深い山の中にあるとは聞いた」
「深い山中……河内源氏の聖地か……聖地と聞けば思いつくのは鎌倉の辺りだけど」
礼次郎は顎に手をやって自問すると、隣の龍之丞は横目でそれを見て、
「普通に考えればそうだろうな。鎌倉は八幡太郎義家の父、源頼義以来のゆかりの地だ。だが、あの辺りの人の往来を考えれば、そういう場所があればとっくに有名になっているはずだろう」
「確かに」
「伝説では八幡太郎義家が戦で苦戦している時にその武想郷に立ち寄ったと言う。であれば、その戦場の近くじゃねえかな? そして義家が苦戦した戦いと言えば、奥州で起こった前九年、後三年の戦が思い浮かぶ」
「と言う事は武想郷は奥州の辺りに?」
「って事になるかねえ。俺がその伝説の噂を聞いたのも奥州に行った時だからな」
「奥州か……」
礼次郎は拳を握りしめた。
その瞳が爛々と輝き始めた。
だが、すぐに眉を曇らせると、
「風魔玄介もきっとそれを知るはずだ。そして武想郷へ向かうだろう」
「だろうねえ。元風魔の忍びならその情報も簡単に掴むはず」
龍之丞は竹筒を口に運んだ。
「…………」
礼次郎はしばし何か考え込むと、龍之丞を振り返り、
「宇佐美殿、貴重な情報ありがとうございます」
と言うやぱっと立ち上がり、自分の幕舎へ戻るべく間を置かずに駆け出した。
「お、おい、どこへ……」
龍之丞は呆気に取られたが、その声は届かず、すでに礼次郎の背はどんどん遠くなって行った。
「呆れた性急さだな」
龍之丞は苦笑して礼次郎が走り去って行った闇を見つめた。
「まあ、それも彼の天命かね……」
その翌々朝、春日山城内の客間の一室――
障子を通して午前の淡い陽光が部屋に満ちている。
「ゆり、相変わらず歌は下手ねえ」
菊の呆れたような声が響いた。
「そんなに駄目でしょうか?」
ゆりは難しい顔をして自分の短冊を睨んだ。
「鉄砲やら薬などの書物ばかり読んでないで、たまには源氏物語でも読んでみなさい」
菊がたしなめるように言うと、
「わかりました」
ゆりはしょんぼりと溜息をつく。
そんな消沈するゆりを、同席する一人の三十代後半と見える貴婦人が微笑んで見つめた。
上杉景勝の正室、菊と、武田百合、それとその貴婦人の三人は、その部屋で歌会のような事をして遊んでいた。
その貴婦人は、豊臣秀吉の近臣で、旧足利将軍家に連なる名族伊川家の当主経秀の正室、瑤子と言う。
菊が景勝と共に上洛した時、縁があって意気投合、仲を深めた。
瑤子は今回、夫の伊川経秀が秀吉の使いで越中に来たついでに、脚を伸ばして春日山城まで遊びに来たのであった。
「ほほほ……ゆり殿、今までの恋で感じた事を素直に詠めばいいのですよ」
瑤子はしとやかに笑う。
歌のお題は、"恋"であった。
「そうは言っても私は恋なんてした事ないし……」
ゆりが言うと、菊は目を見開いて、
「あら、今礼次郎殿に恋しているんじゃないの?」
と言うと、瑤子は声を弾ませて、
「そうなの? いいじゃない」
と言ったのだが、当のゆり本人は意外にも複雑そうな顔をして、
「ずっとそう思ってたんだけど、よくわからなくて……これが恋なのかな? 礼次郎の事は気になるんだけど、元々は源三郎殿と礼次郎の父君が決めた許婚だし、そもそも知り合ってまだ日が浅くて礼次郎の事もよく知らないし……それで恋と言えるのかなって」
小難しい顔で考え込みながら言った。
菊と瑤子は共に口をぽかんと開けた。
「ど、どういう事かしら?」
瑤子が戸惑いながら聞くと、
「いや、だから、元々は他人に決められた縁でしょ? しかもまだお互いによく知らないし、それで恋って言えるのかなぁって」
ゆりは小首を傾げながら言う。
そんなゆりを見て、菊は呆れたような顔をして、
「あなた、そんな事を気にしてたの?」
「うん」
「あなたは頭がいいのにそう言うところは馬鹿ね。それとも医術や火薬の書物の読み過ぎで何でも理屈で考えるようになってるのかしら? 女の恋は理屈じゃないのよ。他人に決められようがよく知らなかろうが気付いたら落ちているもの、それが恋です」
「気付いたら?」
「そうよ。ゆり、あなた、正直に答えなさい。今、礼次郎殿に会いたい?」
菊の真正面からの質問。
ゆりはびっくりして表情が固まった。
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