第107話 女三人恋の歌
菊の問いに、ゆりはびっくりして顔が固まったが、一瞬の間の後、少し思案の顔となると、頬を微かに赤らめて無言で頷いた。
「気付いたら礼次郎殿の事を考えているんじゃない?」
菊が更に、ゆりの顔を覗き込むように問う。
ゆりは、その視線を逸らすように少し俯いた。
しかしすぐに耳まで真っ赤にして、小さく首を縦に振った。
その様子を見た菊は言った。
「それが恋ですよ」
ゆりは顔を上げ、菊の顔を見た。
菊は穏やかに微笑んでいた。
ゆりは再び視線を下にすると、落ち着かなそうに両手指を弄んだ。
――そっか、恋かぁ。
照れたように微笑んだ。
恥ずかしような、嬉しいような、何となく甘酸っぱくてほんのり温かい、そんな想い。
しかし、まだ彼女の内に溶けきらぬ疑問があるのか、菊に聞いた。
「ねえ叔母様。叔母様は恋をしたの? 御屋形様に」
菊はニコッと笑って、
「私? したわよ。今もしてるわ」
さらりと言う。
「でも、叔母様も、私の父上(武田勝頼)に決められた結婚じゃない? しかも上杉家と言ったら武田家の仇敵。嫌じゃなかったの?」
「そうねえ。甲州から嫁いだら何を言われるかわかったものじゃない、って、不安だった。でも実際嫁いでみたら全然そんな事はなくて、皆気遣ってくれて優しくしてくれて安心したわ。だけどね、問題が一つあったの、あの殿よ。殿はあの通りいつも眉間に皺を寄せて全然喋らない。肝心の夫婦生活が本当に居心地が悪くて、これは大変な結婚になったわ、って、少し兄を恨んだものだわ」
菊の言葉に、ゆりはくすっと笑った。
瑤子も微笑んだ。
菊は言葉を続ける。
「でも、嫁いだからには仕方ないでしょう。受け入れるしかないと、自分に言い聞かせた。だけど、やっぱりいつも一緒にいる殿のあの辛気臭さだけは何とかしないと自分が参ってしまうと思ったわ。そこで、殿を笑わせようとしたの」
「笑わせる?」
「そう。面白い話をしたり、人や動物の真似をしたり。でもあの人は全く笑わないのよ。それが悔しくて、山城殿やご近習の方に殿の事を聞いたり、面白い話を聞いて回ったりした。そうやって毎日毎日殿を笑わせようとしていたある夜、ついに殿が笑ったの。私の話で。大口開けてね」
「へえ、あの御屋形様が?」
「そう。大笑いよ。あの時は嬉しかったなぁ。とても嬉しかった。でも、その嬉しさは笑わせる事に成功したからじゃないってすぐに気付いたわ」
「じゃあ何?」
「好きな人の笑顔を見られたからよ」
菊が嬉しそうに言う。
「…………」
「殿は何を面白がるか、どうやったら笑ってくれるか、毎日毎日殿の事を考えているうちに、自然と殿を好きになってたのよ」
「へえ」
ゆりは微笑んだ。
「今でもね。あの人のどこがいいんだろう? って思う時があるの。やっぱり変わらずに無口でむっつりしてるし、何考えてるのかわからない時があるし、趣味と言えば武芸と刀剣集め。時間があれば刀を振るか見つめるか。私の事なんて見つめてくれないくせに……。でもね、殿が私を見てくれる時はとても優しい目つきで、私も気付いたらそんな殿の事を考えてるのよ」
ゆりは、何か感じ入ったようであった。
頻りに小さく頷いた。
すると、横から瑤子が、
「そうね、恋ってそう言うものよね。理屈じゃないのよ」
と溜息をついて伏し目がちに言った。
その様子に何かを感じ取った菊は、楽しそうに、
「瑤子様も何か恋のお話しが?」
「ふふっ、そうね。また今度ね」
瑤子は口元を手で隠し、優雅に笑った。
実は彼女は、生まれは五摂家の一つ、二条家の二条晴良の末娘である。
最上級の貴族の出身であるからか、その仕草のたおやかさ、発せられる声の抑揚の美しさなど、菊とゆりに思わず見惚れさせるものがあった。
「いいではありませんか。お話しくださいませ」
「ううん、やめておくわ。まだ終わってないから」
「今も伊川様に恋をしていると言う事ですね」
「違うのよ。この恋には大事な大事な忘れ物があるの。私はそれをまだ探している途中だから。見つけられた時は、ようやく話せるかな」
瑤子の顔に少し暗い色が走った。
「忘れ物?」
菊、ゆり、共に意味がわからない。
「そう。この後もね、その忘れ物を探しに行こうと思って」
瑤子は切なそうに微笑んだ。
菊は、今一つわけがわからなかったが、
「見つかるとようございますね」
「ええ」
ゆりは、今の菊と瑤子の話を聞いて、何だか急に自分が大人の女になった気持ちとなった。
憧れていた甘い恋の世界に入った感覚に、その胸の高鳴りが収まらなかった。
しかし、ふと、あの上田城の夜に礼次郎が言った言葉を思い出した。
――実はオレにはずっと想っている人がいる――
――できればいつかその女を娶りたいと思っている。だから君とは夫婦にはなれないんだ――
ゆりの顔が曇った。
――あれ、お藤さんの事よね? 今もまだ忘れられてないのかな。
ゆりは、頻りに髪を触ったり、両手指を弄びながら、難しい顔で考え込んだ。
そのうち、無意識に懐に入れてある小型の焙烙玉(爆弾)を取り出し、それを転がし始めた。
それを見た菊はぎょっとして驚き、
「ちょ、ちょっとゆり、それ焙烙玉でしょ! 何しているのよ、危ない!」
「え? あ、ああ。ごめんなさい!」
ゆりは慌てて焙烙玉をしまった。
「どうしたの? 何か考え込んで」
「いや、あの、あの人にはずっと好きだった幼馴染がいて……でも徳川軍に殺されちゃったんだけど……彼の話からすると、まだ忘れられていないのかなぁ、って」
「ああ、前に言ってた話ね」
「うん。お藤さんがまだ礼次郎の心の中にいるなら、私は邪魔なだけだし……でも私は……それに、そんな礼次郎も何だか心配で……ああ~、難しい!」
ゆりは頭を抱え込んだ。
菊はそんな姪の初々しさに微笑ましい気持ちとなり、笑って、
「礼次郎殿に会って来たらどうかしら?」
「え? 今は戦の最中ですよ」
「それも心配でしょう? 今朝、戦が少し長引くとの知らせが来ました。戦が長引きそうな時は、いつも陣中見舞いと称してお菓子や果物などを届けさせるのよ。たまに、私も甲冑を着て変装し、私自身が隊を率いて行く事もあるわ。今回、あなたが私の代わりに行って来て、ついでに礼次郎殿の顔でも見て来なさいよ」
「邪魔になりませんか」
「お菓子や果物を届けるだけよ。むしろ士気は上がるし、いい事よ。ね? 行ってらっしゃい。護衛兵沢山つけるから」
菊はまるで自分の事の如く、嬉しそうに笑った。
新発田軍が北東の槙根砦付近に陣を敷き、それに対する上杉軍も要害山麓に布陣してから三日が経った。
新発田軍を動かさす事によって内通者を暴こうとする宇佐美龍之丞は、あえて自分達側からは仕掛けず、新発田軍が動くのを待った。
だがこの三日間、新発田軍は守りの態勢を取り、未だ動く様子は無い。
そして龍之丞が掴んだ情報の通り、その間に、背後で新発田を支援する蘆名の兵約八百人が新発田軍に合流した。
しかしそれだけではなく、新発田軍の陣には他にも新発田領各所より続々と兵が集まり始め、その総勢は二千五百人に膨れ上がろうとしていた。
直江兼続は、要害山の東島城の物見櫓に登り、阿賀野川対岸の新発田の陣を見つめていた。
そこへ、龍之丞も登って来た。
兼続は、龍之丞の頬が少し赤いのを見ると、
「おい龍、新発田が動いていないとは言え、陣中だぞ。昼の酒は控えろ」
眉をしかめて言った。
「ああ、すまねえな。退屈でさ」
龍之丞は頭を掻いて笑うと、
「で、どうだ、旦那?」
「まだ動きそうにないな」
「そうか」
「しかし、新発田自身にもまだあれだけの兵力を残していたとは少々誤算であったな」
兼続が目を凝らしながら言った。
「お前の言う通り、新発田が動くのを待っているが、これでは最初から新発田を攻撃した方が良かったのではないか?」
「ああ、そうかもなぁ」
龍之丞は笑った。
「笑ってる場合か」
「はは、すまねえ」
そこへ、伝令の兵が駆け付け、階下より声を張り上げた。
「直江様!」
兼続は櫓の上より見下ろして、
「何だ?」
「新発田軍に、出羽の最上の兵が合流するかもしれぬと軒猿より報告が!」
「何だと」
兼続が顔色を変えた。
龍之丞もほろ酔いの顔から笑みが消えた。
「誠か?」
「確実ではありませぬが、そういう噂を掴んだと」
「そうか、わかった。大儀であった」
「はっ」
伝令の兵が下がると、兼続は龍之丞を見て、
「最上までが支援するとなるとこれは容易ではないぞ」
「ああ。だけど噂だろ、本当かどうかはわからないぜ」
「しかし、本当であった場合の対応策は用意しておかねばならん」
「今、ここにいる兵だけでは足りねえな」
「うむ。だが、かと言って付近の城には後詰めを送れるだけの余裕は無い。余裕があるのは木場城だが、あそこは戦略上の要地故、そこから兵を出すのは躊躇われるな」
「…………」
「しかし、あれ以上新発田軍が増えるとなればそうも言ってられんか。木場城の山吉景長殿に兵を率いて来てもらおう」
兼続がそう言った時、龍之丞の瞳が鋭く光った。
「旦那、それが新発田の狙いでは」
「何? あっ、なるほど」
兼続もはっと気がついた。
「新潟津を俺達に奪われて、新発田は一時の勢いを失ったんだ。結局のところ、新発田が一番欲しいのは新潟津の木場城だ。新発田はその総勢を増やし、東島城を攻撃するように見せかけて、俺達に木場城から後詰めを出させ、木場城が手薄になるように仕向けているんだ。そして木場城の後詰めがこちらに来る頃を見計らい、自分達は一気に転進、木場城を攻撃するつもりだろう」
「うむ、なるほどな。思えば新津城、東島城を突然あれだけの兵で攻撃してくるのも不思議であったが、最初から我らの意識をこっちに集中させ、木場城を手薄にさせる事が目的であったか」
「恐らくは……全ては木場城を奪取する為の布石だ」
「危ういところであった。木場城から後詰めを出す事は止めねばならん」
兼続が再び考え込んだが、
「いや、旦那。乗ってみようぜ、その新発田の策によ」
龍之丞が楽しげににやりと笑った。
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