第95話 春日山城

 天正二年(1574年)九月――


 上州城戸家の館内、庭に面した縁側で、二人の男児と女児が雙六盤を挟んで向かい合っていた。

 二人とも幼い瞳を真剣に見開き、盤上を睨んでいる。


 女児がサイコロを振った。


 男児は食い入るようにサイコロの転がる先を見つめる。


 出た目を見て、女児が歓喜の声を上げた。


「やったぁ! また私の勝ち!」


 男児はがっくりとうなだれて、


「またふじの勝ちかぁ」


 頬を膨らませた。


「私は殿にだって勝ったことあるんだから! 礼次じゃ勝てないわよ」


 女児は得意気に笑った。

 まだ後年のしとやかさは出ていないが、どこかませた雰囲気の当時五歳の大鳥藤であった。

 そして男児は、同じく五歳の城戸礼次郎。ふじに比べるとまだまだ稚気が残っている。


「もう一回だ!」


 礼次郎が悔しそうに叫んだ。


「ええ~、また? これでもう五回目よ?」


 ふじが面倒臭そうに両手を後ろについた。


「いいじゃん、次こそオレが勝つかもしれないだろ? ふじ、もう一回! ね?」

「もう疲れたよ~」

「あと一回だけだから」

「ええ~」


 ふじが尚も渋っていると、


「じゃあこうしよう、この前もやったように、負けた方は勝った方の言うことを何でも聞く。どう?」


 礼次郎の提案に、ふじは楽しそうな顔になり、


「それならいいよ、やろう!」

「よーし、この前は裸でカエルの真似させられたからな。オレが勝ったら鼻から梅干し食べさせてやるぞ!」


 礼次郎は意気込んで雙六盤に臨んだが、


 しばしの後――


「ほーら、私の勝ち!」


 楽しげにけたけたと笑うふじと、盤上に突っ伏してうなだれる礼次郎の姿があった。


「何してもらおうかな~」


 意地悪そうに、にやにや笑うふじ。


「何? 裸で蛇の真似? 裸で鼻から梅干し?」


 礼次郎がしょんぼりとする。


「うーん、そうねえ、お尻を木刀で叩くのはもうやったし、うーん……」


 ふじは礼次郎の顔を見てあれこれ考えるが、


「うーんと、うーん……」


 なかなかいい案が浮かばないようであったが、突然顔を赤らめて礼次郎から視線を逸らすと、


「あの……大きくなったら……大きくなっても……ずっと一緒にいて」


 もじもじして言った。


 礼次郎は不思議そうに、


「は? 何それ? そんなのでいいの?」

「うん……ずーっと私の隣にいてね」

「そんなの当たり前だろ? 変なの。でもそれでいいならいいや、得した」


 礼次郎がけらけら笑うと、


「じゃあ約束よ? 指切りげんまん!」


 ふじが右手の小指を差し出した。


「うん」


 礼次郎は笑いながら、ふじの小指へ自分の小指を絡ませた。


 ――約束よ? 礼次……ずっと一緒にいてね……



「礼次……様……礼次様!」


 身体を揺り動かされて、礼次郎は夢路より戻った。


 篠田夫妻の屋敷を出発して数日後、礼次郎らはすでに越後に入っていた。

 上杉家の居城、春日山城まではあと三里ほど、と言うところまで来た時、ちょうど明媚な清流の沢を見つけたので、水を汲むついでに休憩を取ったのだが、


「ああ、眠りこんじまったか」


 礼次郎は寝ぼけ眼を擦った。


「風邪を引いてしまいますぞ」

「すまん」

「楽しげな寝顔でしたが、何か良い夢でも?」

「夢……まあそんなところだ」

 礼次郎は寂しそうに微笑み、大きく背伸びをして立ち上がった。


 ――今思い返してみると、あの時のずっと一緒にいてねってふじの言葉は……


 礼次郎は清流に目をやった。

 木々の隙間を割って注ぎ込む白い光を反射し、清冽な水の流れはきらきらと輝いていた。


 ――しかしあんなこともあったな、すっかり忘れていたが、何故今になって夢に?


 その時、


「おう、若が目を覚ましたか! 春日山城はこの先の道を左だってよ!」


 道を尋ねに行っていた順五郎と千蔵が戻って来た。


「よし、では参りましょう」

「ああ」


 礼次郎は水の流れから目を上げ、足元の草を踏んで歩き始めた。


(あれからまだ一月程だ、無理も無いか。だがいつか、ふじを夢に見ることもなくなってしまうんだろうか……)


 ――そして、いつまで夢で会えるのか……



 そして未の刻(14時)過ぎ、礼次郎らは上杉家の居城、春日山城に辿り着いた。


「おおー、こりゃすげえ!」


 城下町の喧騒の中、順五郎が春日山城を見上げて感嘆の声を上げた。


 天然の要害と言える春日山の地形を活かし、多数の曲輪くるわを巧みに配置した連郭式山城。

 山全体が要塞となっている、難攻不落と謳われる北国一の堅城である。


「流石は上杉家の居城、見事な物ですな」


 壮之介も感心する。


 礼次郎もまた驚嘆の面持ちで見上げていたが、ふと真剣な顔となると、


「これを見て何か感じないか?」


 春日山城を見上げたまま言った。


「何か?」


 順五郎がその意をつかめずにいると、千蔵が言った。


「よく似ていますな」

「似ている?……ああ、なるほど」


 壮之介も気が付いた。


「そうだ。七天山にそっくりじゃねえか」


 礼次郎が頷いた。


「ああ、そうか。言われてみれば確かに」


 順五郎が手を叩くと、


「この山全体の感じ、曲輪くるわの配し方、そっくりだ。七天山の方が規模は小さいけどな」

「では、この城をよく研究すれば七天山攻略の方法が見えて来ますな」


 と、壮之介。


「そう言うことだ。ただ、七天山は周りを川に囲まれている分、より性質が悪いとも言えるが……まあ、とにかく行こう」


 礼次郎らは上杉景勝に会うべく、城へ向かって歩き出した。



 しかし、彼らは城に入ることができなかった。


「駄目だ、当家は今も新発田勢との戦の最中である。怪しい者は誰一人入れられぬ」


 城の入り口の番所で、現れた上杉景勝の側近、小山長康と言う男に門前払いを食らった。


「何故でございますか?このように上田の真田信幸殿の紹介状もございます。一度上杉右少将(景勝)様にお目通りを」


 礼次郎は信幸の書状を見せたが、小山長康はその書状を見もせずにじろりと礼次郎を一瞥し、


「真田安房守(昌幸)ならいざ知らず、その小倅の書状如きで我が殿が会うとでも思うか?」

「ではせめてこの書状だけでも上杉殿にお渡しいただけませんか?」


 礼次郎は食い下がるが、


「駄目だ、それが本物かどうかもわからん。そもそも上州源氏城戸家など聞いたことも無いわ。帰れ!」


 横柄に言い捨てると、門の奥へと去って行ってしまった。


 礼次郎は呆然と立ち尽くすしかなかった。



 春日山城の城下町、一軒の宿屋を兼ねている茶店――


 広い小上がりの座敷にはいくつもの卓が置かれ、茶を飲みつつ団子を食べる客や、昼間から酒を飲んだりしている客で賑わっている。


 礼次郎らはその中の一卓に座っていた。

 卓上には酒がある。


「まあ、仕方ねえよ。次の手を考えようぜ」


 順五郎が杯を飲み干して言った。


 礼次郎は憮然とした顔で腕を組んだまま、


「しかしここまで来ておいて帰るってのも……」

「会ってくれねえ、手紙すら渡してもらえねえんじゃどうしようもねえよ。お、酒が無くなったな」


 順五郎が徳利を振った。

 壮之介も溜息をついて、


「確かに、いくら面識があると言っても、真田安房守殿の息子殿の紹介では少々力不足でしたな。それに城戸家の存在自体を知らないと言うのは盲点でした。上杉殿ほどの人が、聞いたことの無い小さな家の人間に会うわけが無い」


 上州の山間の小さな一領主である城戸家は、源氏の名門と言っても上州以外ではその存在をほとんど知られていなかった。


「しかし、あの無礼な小山とか言う男、どうせなら一発ぶん殴っておくんだったぜ。今からでも殴りに行くか」


 順五郎は腹立たしげに言った。


「よせ。まあ、とりあえず腹も減った。何かつまみつつこれからの事を話し合おうではないか。酒と、何かつまみを持って来よう」


 壮之介が立ち上がり、店の奥へ向かった。


 礼次郎は腕を組んだまま黙然と何か考え込んでいたが、ふと、順五郎の後ろの卓が目に付いた。


 そこには、壁にもたれながら何やらいちゃつく一組の男女があった。

 女は遊女と見える露出の多い格好で、男が酒を飲みながらその身体をまさぐったり、卑猥なことを言ったりしてふざけあっていた。

 一見すると、夜ともなればどこにでもいそうな男女の痴態であるが、



 ――まだ日も明るいのによくやるなぁ。



 礼次郎は苦笑した。


 そしてすぐに視線を戻そうとしたが、男の異様な風体に目を止められた。


 男は、薄汚れた青い着流しで、波打った癖毛のザンバラ髪に、無精髭を生やしていた。



 ――何だ、この男は。



 礼次郎がじろじろと見回していると、不意にその男がこちらを向き、思わず目が合った。

 礼次郎は慌てて目を逸らしたが、男は礼次郎を見ると、ふふっと微笑んだ。



 やがて、壮之介が酒と食べ物を持って戻って来た。


「徳利だと我々ではすぐに無くなってしまうからな。土瓶に入れてもらったわ」


 壮之介は笑って言うと、土瓶と食べ物を卓上に置いた。

 豆腐、香の物、味噌、そして塩焼きの魚が並んだ。


「おお、流石は越後だ、どこにでもある物だけど一味違うぜ。酒も美味いしよ」


 先に一口つまんだ順五郎が喜んだ。

 四人はその美味に舌鼓を打ちつつ、しばし他愛も無い雑談に興じた。



 すると、


「どうだい?越後の酒は美味いだろ?」


 と言ってふらっとやって来た男がいた。


 それは、あの壁際の卓で遊女と戯れていた癖毛のザンバラ髪の男であった。


「一献、俺の酒を受けてくれねえか?」


 男は無遠慮に礼次郎らの卓に座った。

 結構酔っているようであるが、その目はまだ正気を保っている。


 すると遊女が追いかけて来て男の腕を引っ張り、


「あん、龍様、何しているのよ~」


 艶めかしい声で男を連れ戻そうとしたが、


「悪いな、ちょっとあっちで待っててくれねえか?」


 と言って、男は遊女の頬に口づけをした。

 遊女は嬉しそうに嬌声を上げると、大人しく元の卓に戻った。


 礼次郎は少し不快に感じ、


「申し訳ないが、私たちはこれから大事な話をするので、貴殿とは一緒には飲めません」


 はねつけるように言うと、


「大事な話ってのは天哮丸の事かい?」


 男は笑って言った。


「何っ?」


 礼次郎は顔色を変えた。


「何でわかった?」


 順五郎ら三人も驚いて騒然となった。


 それを見て男は、


「おおっと、まさか当たりかよ。ってことはあんたはやっぱり城戸礼次郎か?」


 自身でも驚きながら言った。


「その通りですが、何故わかったのですか? 貴殿は一体?」


 礼次郎が戸惑うと、


「なぁに……さっきからちょこちょこ耳に入るあんたらの会話に上州訛りがあるからさ。それに礼次郎さん、あんたの顔つきや佇まいはそこらの普通の侍のもんじゃねえ。一目見りゃどこかの由緒正しい家の者だってわかる。血ってのはそういうもんだ。いくら着物が泥や汗に汚れていようと、先祖代々その身に受け継いで来た血筋の"空気"と言うのは隠せねえ」


 男は笑みを浮かべながら言った。


 しかし順五郎が驚き、


「でもそれだけで何で城戸礼次郎だとわかるんだ? それに城戸家を知ってるのか? どうも越後の人間で城戸家を知っているのは少なそうなのに」


 男は笑い、


「俺だって最近まで城戸家の存在なんて知らなかったよ。だが、俺はついこの前まで奥羽の辺りから関東にかけて放浪しててねえ、先日上州に行った時に偶然城戸家と天哮丸の伝説を知ったんだ。しかし、少し前に徳川軍に壊滅させられたこと、嫡男の礼次郎は生き延びたらしいってことも聞いた。それで、さっきあんたを見て、その上州訛り、佇まい、そして歳の頃と背格好、もしかして城戸礼次郎か?と、ピンと来たわけだ。まあ、当たる確率は半々だと思ってたがね」


 そして自分が持って来た徳利を礼次郎に向けると、


「はっはっはっ……と言うわけで、申し遅れたが俺は龍之丞たつのじょうって言うんだ。折角城戸家の嫡男殿に出会えたんだ、これも何かの縁。一献酌み交わしてくれよ、な?」


 龍之丞は馴れ馴れしく礼次郎の肩を触った。


 礼次郎は龍之丞の顔を見つめた。


 波打つ癖毛のザンバラ髪、無精髭、薄汚れた着物。

 そしてどこか軽薄な口調で、昼間から酒を飲んで遊女と戯れるなど、一見するとだらしない浮ついた男に見える。

 礼次郎はこの手の人間があまり好きではない。


 だが、その双眸は秋の空の如く澄んでいる。そしてどこか人を惹き付ける光がある。


「いただきましょう」


 礼次郎は杯を差し出した。


「おっ、受けてくれるかい! いいね~」


 龍之丞は徳利を傾け、その杯へ酒を注いだ。

 礼次郎はぐいっと飲み干した。


「おお、いいねえ、その若さで結構いける口だねえ。気に入った、どんどん飲もうぜ」


 再び龍之丞が徳利を差し出した時だった。


「礼次郎!」


 礼次郎の背後より、どこかで聞き覚えのある女の声がした。


「うん……?」


 礼次郎が振り返った。


「やっぱりいた! 礼次郎だ!」


 茶店の入り口、嬉しそうに顔を輝かせている美少女がいた。


「あ……ゆり?」


 礼次郎は仰天せんばかりに驚いた。


 櫛を渡すべく礼次郎を追って来た、武田ゆりであった。

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