第94話 剣士の本能

 薄暗い部屋の中、布団に横たわる重傷人、それは仁井田統十郎であった。

 側に丁稚であろう少年と少女が額や身体の汗を拭っていた。


 ゆりは統十郎に近づき、恐る恐る、時折獣のような呻き声を上げる彼の身体に巻かれた布や包帯を剥がして行った。そしてその下に現れた惨状に思わず息を呑んだ。


「これは酷い、よく生きていられるわね」


 血こそ止まっているものの、あちこちが滅多切りにされたかのような刀傷だらけで、特に背中には長く深い傷があった。そして驚くべきは脇腹の傷口。針と糸でもって傷口を縫ってあった。


「これは……もしかして噂に聞いた南蛮流の縫合術ってやつ? 凄いわ、誰がこれをやったの?」


 ゆりが女将に尋ねると、


「わかりません。ここに運び込まれて来た時にはすでに大方の処置はしてありました」

「誰が連れて来たの?」

「何か不思議な感じのご老人です。突然その方を担いでやって来たんです。そして沢山の銭を私によこして、この男の面倒を宜しく頼む、と言ってまたすぐにどこかに行ってしまったんです」

「ご老人? その人がやったのかしら? でも縫合術は見事だけど、他の傷口の基本的な処置はまるで素人ね。膿みかけてるところまであるわ」


 ゆりは灯りを手元に寄せ、統十郎の身体の状態をよく調べた。見る見るうちにゆりの顔色が変わる。


「これは急がないと……今はこの人の驚異的な生命力で何とかもってるけど、このままだと確実に死んでしまうわ」

「えっ?」

「早く手当てをしないと」


 ゆりはそう言うと、旅籠の少年少女に手拭いやお湯を持って来させ、自身で調合したあらゆる切り傷に効く仙癒膏などを使ってできる限りの手当てをした。

 そして全ての処置を終えると、


「しばらくすると呻き声も少し静かになって一眠りするはずです。後は大体二、三日、ちょっと様子を見てみましょう」



 海は穏やかに注ぐ陽を受けて、波がキラキラと輝いていた。

 それはまるで海に星が浮いているかのようであった。

 白砂の続く浜辺。

 波打ち際、艶やかな黒髪を靡かせる細身の女性が、こちらに背を向けて立っていた。


 ――千代!


 統十郎はその背に声をかけた。

 その女性、千代は振り返った。

 溶けてしまいそうな透明感のある﨟たけた美女。


 ――千代、どこへ行く!?


 統十郎は千代に駆け寄ろうとするが、砂に足を取られて動けない。


 千代は言った。


 ――星の海に帰るのです。


 ――帰る? どうしてだ?


 千代は慈しむような笑顔を見せて


 ――統十郎様は大望ある身……病の私がいては邪魔になります。


 統十郎は悲痛に顔を歪ませ、


 ――そんなことはない!俺にはお前が必要だ!だからこっちへ戻って来い!


 千代は再び優しく微笑むと、


 ――いいえ、あの星の海が呼んでおります故……統十郎様、新九郎を頼みます。


 寄せる波の向こうへと歩いて行った。


 ――千代! 待て! 行くな!



「千代!」


 統十郎は、自らの叫び声で目を覚ました。


「うっ」


 目を開けたそこに、覗き込むゆりの顔があった。

 ちょうど、ゆりが統十郎の傷に仙癒膏を塗り直そうと、手を伸ばしたところであった。


「貴様っ!」


 統十郎は反射的にその手を掴んだ。


「痛っ!」


 ゆりがその掴む力の痛みに小さな悲鳴を上げた。

 だが、統十郎もまた身体の傷の痛みに苦痛の呻きを漏らし、すぐにその手を落とした。


「何するのよ!」


 ゆりが怒るのと同時に、


「無礼者!」


 背後に控えていた喜多が統十郎の腕を押さえた。

 ゆりの隣にいた女将も慌てて、


「あんた、この娘さんは死にかけてたあんたを助けたんだよ、何するの!?」

「何?」


 統十郎はそこで初めて、自分の今の状況を理解した。

 急いで身を起こそうとしたが、全身の傷の痛みで起き上がれなかった。

 彼は寝たまま部屋を見回した後、


「ここはどこだ?」

「笠懸村の旅籠だよ」


 女将が答えた。


「まだ傷は癒えていません、あまり動かないで」


 と言うゆりの顔を、統十郎はじろじろと見て言った。


「小娘、本当にお前が俺の傷を治したのか? 何者だ?」


 すると女将が呆れた様子で、


「あんた、そんなに無礼な男だったのかい。この娘さんがいなかったらあんたは死んでたんだよ」

「む……そうか、それはすまん」


 統十郎は己の非礼を自覚し、素直に謝った。


「いえ、それより、具合はどうですか?」

「傷は痛むが、体調は悪くない」

「え? それはすごいわ。回復がとても速い。ちょっと薬を塗り直すからそのままでいてください」


 ゆりが上半身の着物を脱がし、布や包帯を解いて仙癒膏の処置をし始めた。

 旅籠の女将が横から聞いた。


「あんた、戦?」

「そうだ」


 統十郎が短く答える。


「最近だと牛追平で美濃島衆と幻狼衆の戦があったけど、それに行ってたのかい?」


「まあ、そんなところだ」


 美濃島衆――


 その名前を聞いて、ゆりは手を止めた。

 美濃島衆は元武田家傘下である。数回しか会ったことはないが、前当主美濃島元秀、そして娘の美濃島咲とは顔見知りである。

 特に、妖艶な美貌を持つ美濃島咲は、ゆりの心に色々な意味で深い印象を残していた。

 だが、その美濃島咲が礼次郎と共闘していたとは夢にも思わない。


 一方の統十郎。


 ――牛追平……


 彼は、その地名に、あの時のことを思い出していた。


 多数の美濃島軍の屍が転がる中、たった一人立ち上がって直刀撃燕兼光を構えた統十郎に、玄介は言った。


 ――私は次期風魔小太郎にして、風魔幻狼衆頭領、風魔玄介。あの日何故城戸の館にいたかと言うと、天哮丸を探していたからだ。


 ――そして、天哮丸は私がいただいたよ。はっはっはっ……


 そしてその後、統十郎は玄介と彼が指揮する幻狼衆幹部連と刃を交えた。


 だが、如何に剛勇の彼とは言え、たった一人であった上に背中に深い傷を負っていた身では思うように動けず、奮戦虚しく追い詰められて行った。

 そして途中で逃走を図るも、幻狼衆の執拗な追撃にその身体は次第に耐えられなくなって行き、再び脇腹に深い傷を負って崖から脚を踏み外して転げ落ちたところで記憶が途切れた。


 そして先程、その記憶が再開した。


 ――風魔玄介……。


 統十郎は唇を噛んだ。


 ――あのにやついた顔、必ず斬ってくれる。そして天哮丸をこの手に。


 ――奴らを倒すには兵がいる。予定通り、越後の新発田重家のところに行って兵を借りよう。だが……


 先程見ていた夢が気になった。


 ――あの夢、もしや千代の身に何かあったのではあるまいな?


 彼の心が激しくかき乱された。


 ――千代は病の身、一度帰るか……。


 そう、考えを巡らせていた時、自身の身体に仙癒膏を塗っているゆりに気が付き、


「小娘、お前医者なのか?」

「え?いや、医者ってほどじゃないけど……」


 ゆりが返答に困ると、背後の喜多が、


「こう見えてもゆり様はあの曲直瀬道三殿に医術を習い、その知識は並の医者を遥かに超えている」


 言葉を加えた。統十郎はじろじろとゆりの顔を見て何やらじっと考え込んだ後、


「頼みがある。安芸灘まで来てくれないか?」

「はあ?」


 突然の言葉に、ゆりは素っ頓狂な声を上げた。


「妻が病なのだ。色々医者に見せたり薬を飲ませたりしたが良くならん。お前の腕を見込んで是非見てもらいたい。銭なら沢山出す」

「いや、でも安芸灘って遠すぎるわ」


 ゆりは当然、困惑の顔となる。


「銭はいくらでも出す。頼む」


 武骨な統十郎の顔が哀願するような表情となった。


「でも……ごめんなさい、私は行かないといけない場所があるので」

「そうか、それならば無理はできんな。すまなかった」


 統十郎が落胆した。


 ――残念ではあるが仕方ない。しかし千代が心配だ。やはり一度帰るとしよう。


 やがて、ゆりが仙癒膏を塗り終えた。


「あとはこの白風湯を飲んで、仙癒膏を塗って寝ていればもう大丈夫だと思うわ」

「すまん、いたみいる」


 統十郎が再び礼を言うと、背後にいた喜多が、


「ゆり様、それならばあとはここの方々に任せて、我々は先を急ぎませんか?」

「そうね……。女将さん、これらの薬を少し置いて行くので、あとお願いします。今私がやった通りにすればいいので」


 ゆりが薬を女将に渡した。それへ統十郎は、


「小娘。此度のこと、誠に感謝する。俺は安芸灘の海にある平土島と言う島に住んでいる。機会があれば訪ねて来てくれ。是非礼がしたい」

「そんな、気にしないで」


 ゆりが微笑むと、喜多はせわしげに、


「では急ぎましょう。もう三日もここにおります。城戸礼次郎様はすでに越後に着いておるやもしれません」


 ――城戸礼次郎?


 統十郎の瞳の色ががらりと変わった。


「おい、今城戸礼次郎と言ったか?」


 ゆりと喜多をじろりと見やる。


「え? ええ。それが何か?」


 ゆりが振り返る。


「それはあの上州城戸家の嫡男、城戸礼次郎のことか?」

「そうですけど」

「ふ……はっはっはっ、そうか」


 統十郎が笑って半身を起こした。

 ゆりはその様を見て驚愕する。


 ――え? まだとても起き上がれるような状態じゃないはずだけど……。


「今、越後と言ったな? 奴は越後に向かっているのか?」

「はい、上杉家へ向かっているはずですけど」

「上杉家? そうか、それはますますいい!」


 統十郎は愉快げに高笑いを上げた。


 統十郎が元々兵を借りるべく訪ねようとしていた新発田重家。

 彼は元上杉家家臣で、数年前に上杉家に叛乱を起こして以来、ずっと越後で上杉家と抗争を繰り広げていた。


 ――その新発田家に俺が、そして上杉家に城戸礼次郎。


「やはり俺と奴は余程何か因縁めいたものがあるらしいな。行くしかあるまい、越後に」


 不敵に笑う統十郎、その全身から急激に凄まじい剣気が立ち上った。


 それを感じ取った喜多、


 ――何と言う剣気、まるでここにいるだけで肌が刺されるかのような……


 一瞬で背筋に冷たい汗が流れたが、


「ゆり様、私の後ろに」


 と、ゆりを自身の後ろにやった。


 統十郎はそれを見て笑い、


「心配するな、俺が斬るのはお前らじゃない。その城戸礼次郎だ」

「え? 礼次郎を? 何で? 彼を知っているの?」


 ゆりが困惑して問う。


「ああ。あの城戸の戦で一度剣を交えている。そしてあれ以来、この血に記憶が呼び戻っている」

「血?」


 ゆりにはわけがわからない。

 だが、まるで気にせず統十郎は双眸を光らせ、


「すでに天哮丸を持たぬ奴を追う必要は無いが、奴は俺の一族の宿敵と言ってもいい男だ。だがそれ以上に、俺はただ一人の剣士として、天下に少ない真円流の使い手城戸礼次郎と再び斬り合いたい」


 ――面白いぞ……我が一族の宿敵と言っていい城戸礼次郎。そして奴に真円流を教えたのはあいつだろう、葛西清雲斎だ。


「そしてこの血にかけて奴を斬る」


 その傷だらけの肉体から発せられる剣気に、ゆり達は圧倒されて動けなかった。

 だが、ゆりは我慢できずに言葉を発した。


「斬る? 礼次郎を? どうして?」


 統十郎はゆりをじろりと睨むと、


「今言った通りだ。奴は俺の一族の宿敵だが、それ以上に、俺は純粋に剣士として奴と斬り合いたい、それだけだ」

「宿敵って、礼次郎がどうしてあなたの?」

「…………」


 統十郎はふっと笑ったのみで答えようとしなかった。


「剣士として斬り合いたい……それだけの理由で礼次郎と戦うの?」

「純粋な剣士はただ強い剣士と斬り合いたいと思うのが本能。城戸礼次郎も真円流の剣士として誇りを持っているならば、俺の言葉に異は唱えぬであろう」

「…………」


 ゆりの脳裏に、あの晩の上田城での礼次郎の太刀捌きが鮮やかに蘇った。


 彼女は急に色を変えて笑気の無い顔となり、


「あなたに礼次郎が斬れるの?」


 統十郎を真っ直ぐに見据えて言った。統十郎はじろりとゆりを見て、


「俺にできないとでも? 奴には不思議な強さがある。だが、俺ならば奴に勝てるだろう。必ずあの首を落として見せる」


 傲岸不遜な笑みを見せた。

 ゆりはしばし無言になり、唇を噛むと、


「私は馬鹿ね。あなたなんか助けなければ良かった」

「何だと?」

「あなたが彼の命を狙っていると知っていたなら助けなかったのに」

「どういうことだ」

「でも、礼次郎はあなたなんかには斬られません。きっとあなたに勝ちます」


 ゆりは統十郎の獰猛な剣気を物ともせず、はっきりと言い切った。


「小娘、貴様……城戸礼次郎と何の関係がある?」


 統十郎は不審げにゆりの顔を見る。


「…………」


 ゆりは俯き、しばし言葉を探すかのように黙った。

 だがやがて迷いを断ち切るかのような顔になり口を開くと、


「私は礼次郎の妻です」

「何……?」

「だからわかっています。彼はあなたには負けません」


 そう言った彼女の瞳に強い光が宿っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る