第58話 あなたを追って
翌日の朝、信幸は天守に登った。
天守には昌幸がいて、眼下をじっと見下ろしていた。
昌幸は信幸が来たのを感じ取ると、
「今回はお前にやられたわ」
と言って笑い、
「千蔵を使ったか」
振り返ることなく言った。
「わしが直接助けることはまずいと仰せなので」
昌幸の背後、信幸はにやりと笑う。
「ふっ、そうか。お前も成長したのう」
「負けをお認めになりますか」
「何を生意気な」
「ははは」
「しかしまあ、これでよいのかも知れぬ。いくらわしとて礼次郎のような将来楽しみな若者を家康に引き渡すは忍びない。だからあの時、礼次郎を助けようと飛び出したお前を引き止めなかったのだ。千蔵も動かすなと左近に言っておいたしな」
今度は昌幸がにやりと笑った。
「え!?」
信幸が眉毛を上げて驚き、
「それは……ま、まさか父上は……わしが礼次郎殿を必ず助けると計算して?」
「はっはっはっ……まあ、よいではないか、よいではないか……」
そう高く笑うと、昌幸は振り返って信幸の左肩をぽんっと叩き、天守から階段を下りて行った。
信幸は唖然としてその姿を見送り、立ち尽くすしかなかった。
表裏比興の者――
信幸は、豊臣秀吉の腹心、石田三成がこう昌幸を評したと言う言葉を思い出した。
――一体何が本当で何が嘘なのか……我が父ながら誠恐ろしいお方よ……。
信幸の複雑そうな苦笑いであった。
ゆりは上田城城下町の大通りを歩いていた。
喜多は伴っていない。喜多は昨夜の騒ぎの後片付けに借り出されていた。
ゆりはどことなく目に心がなく、ぼーっとした表情で歩いていた。
ふと、一軒の店がその心のない目に入った。
礼次郎と一緒に蕎麦切りを食べた蕎麦屋であった。
たまたま軒先に出ていた女将がゆりに気付いて声をかけた。
「ゆり様! どうしたのですか、ぼーっとして!」
ゆりはどこか遠くを泳いでいた意識を戻し、
「あ、ええ……おばさん、久しぶり」
と、答えたがその声にはいつもの元気がない。
「どうしたんですか? 元気がないようですね? 食べて行かれますか?」
女将が手を店内の方へ振る。
「え? うーん……そうね。じゃあちょっと」
大して腹も減っていなかったが、ゆりは流されるままに店内に入った。
ちょうど昼前、店内は腹を空かした客たちで賑わっていた。
ゆりは長い床几の空いているところに腰かけた。
胸元の観音菩薩像が揺れ、ゆりはそれを手で抑えた。
ほどなくして、女将が蕎麦切りの入った碗をゆりに渡したが、
「はい、どうぞ。ですがゆり様、すみません、今日はちょっと汁が濃いかもしれません」
と、顔をしかめた。
「いいよ。今日はちょうど濃いのが食べたい気分」
ゆりは女将に微笑んだ。
すると女将はニコニコして、
「まあ、相変わらず可愛らしい笑顔。ゆり様を娶れる男は本当に幸せですね」
「え?」
「とぼけないでください。聞きましたよ、婚儀が決まったって!」
女将は笑った。
「え?」
ちくっ、とゆりの胸が痛んだ。
「いや、それはね……」
「この前一緒にうちの蕎麦切り食べたあの殿方でしょう?なかなかのいい男ですよね、お似合いです」
「いや、おばさん、それはね……」
ゆりが誤解を訂正しようとしたが、
「おーい、女将!こっちに蕎麦がき二つ!」
「あいよー!」
別の客の注文を取りに行ってしまった。
ゆりは一つ軽く溜息をつくと、箸を持って蕎麦切りの束を汁の中からすくった。
きらきらと醤油味の汁を絡めるその束を口に運ぶ。
――美味しい。
続けて二口目を食べた。
――確かに美味しいけど……。
礼次郎と一緒に食べた時のことを思い出した。
――何か一味足りないみたい。
そして数口食べると、ゆりは碗と箸を置いてしまった。
碗からはまだ湯気が立っており、その中にはまだ蕎麦切りが残っている。
ゆりは長床几から立ち上がると、
「おばさん、ごめんなさい、何かもうお腹いっぱいになっちゃった。ごちそうさま」
と言って店を出た。
そして城下町を抜け、上田城に入った。
自室に戻ろうと二の丸まで来た時、少し遠くから騒がしい物音が聞こえた。
その物音がする方は、礼次郎らが宿泊し、また昌幸の策によって閉じ込められた後にゆりが壁を爆破したあの離れ。
気になったゆりはそこへ向かった。
すると、数人の男たちが何やら騒いでいる。
「困ったなぁ、やっぱり全部壊すしかねえだろ」
一人が言えば、
「いやー、これだけの屋敷だ、もったいねえよ。何とかこの壁だけ修復できねえか?」
と返す。
「うーん、難しいよ。結構大きい穴だからなぁ」
「そうか。全くゆり様には困ったもんだ。これで何度目だ?」
「さあなあ。しかも今回は殿が捕えろと命じた城戸なんとかってのを庇った上でだろ? その殿の命令を無視して屋敷の壁まで破壊して……いくら武田家の姫君だって言ってもやりすぎだ」
「ああ……でもな、その武田の姫ってのはどうも怪しいらしいぜ?」
「え? どういうことだ?」
「武田家の血はひいてないらしい」
「ええ? 本当かよ?」
そんな彼らの会話だが。
ゆりは彼らのすぐ近くで、少しうつむきがちにその会話を聞いていた。
彼らはすぐにゆりに気付いた。
「あ、おい!」
「あ……」
「あ、ゆり様……す、すみません!」
彼らは気まずそうに数歩後ろへ退いた。
「ど、どうなされましたか?」
一人の男が恐る恐る聞く。
ゆりは、一瞬無言の後、顔を上げて、
「いいの……壁、壊しちゃってごめんなさい。もうしないから」
男たちは、
「え? ええ……」
「あの、中に入ってもいい?」
「ああ……どうぞ」
男たちは作り笑いで言った。
「ありがとう」
ゆりもまた作り笑いで答えた。
――また……私の居場所なくしちゃったかな。
ゆりは目を少し潤ませながら表の入り口から中に入った。
――結局私の世界はいつもこう。生まれた時から……。
小さく溜息を一つついた。
中に入ったゆりは部屋の中を見回した。
布団がぐしゃぐしゃで、畳は一枚剥がれている。
壁には沢山の殴ったような蹴ったような跡があった。
礼次郎が脱出する前の焦慮と混乱が見て取れる乱雑ぶりであった。
しかし、信幸が礼次郎らの荷物をまとめて持って出たので物はほとんど無い。
ところが、
「あれ?」
ゆりは、机の上のある物に気がついた。
「これ……」
ゆりはそれを手に取った。
螺鈿細工のついた朱の漆塗りの櫛。
ふじの櫛であった。
礼次郎が鉄扉の罠にかかる直前まで苦悩しながら見ていた櫛である。
机の上にたった一つ残されていた。
――あの時、お蕎麦屋で見ていた櫛……何でこれだけ?
――ああそうか、女物だもんね。この櫛じゃ源三郎殿は礼次郎の物だって思わないよね……だから荷物に入れなかったんだ……。
ゆりはふじの櫛を手に取った。
そしてじっと見つめた。
精巧な螺鈿細工は物静かに何か語りかけてくるようであった。
ゆりは、櫛を通して会ったことのないふじの人となりを想像してみた。
だが、その想像はいまいちぼやけてはっきりしなかった。
――ま、当たり前よね。
ゆりは自分でも呆れたようで、少し苦笑いして櫛を机の上にそっと置いた。
だが、すぐに何か思うことがあり再び櫛を手に取った。
――礼次郎にとっては大事な櫛よね?
ゆりは櫛をひっくり返して表裏を見た。
――届けてあげた方がいいよね?
そう思った時だった。
ゆりの心の奥底に、ずっと押さえ込もうとしていた何かが湧き上がって来るように感じた。
――私の居場所……。
わけもわからず、ゆりの心臓が高鳴った。
居ても立ってもいられなかった。
もう、ゆりは屋敷を飛び出していた。
「喜多、喜多。いる?」
ゆりは大声で叫んだ。
その手には櫛が握られていた。
どこからともなく、忍び装束の喜多が走って来た。
「ここに……如何いたしましたか?」
そう聞いた喜多は、ゆりの顔を見て少々驚いた。
どことなく暗かったゆりの表情が、昨日までとは打って変わって輝いていたからだ。
息遣いまでも弾んでいるようだった。
「行くよ」
ゆりは嬉しそうに行った。
「またですか? 今度はどこへ?」
「上州、城戸よ。礼次郎に櫛を返すのよ!」
「え、城戸?」
戸惑う喜多を尻目に、顔を輝かせたゆりは駆け出して行った。
その方向遠くに見える山の峰々、雲間の間に太陽が出ていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます