第57話 涙

「この千蔵を連れて行くがいい」


 信幸は、千蔵を指差した。


「千蔵殿を?」


 思ってもいなかった意外な言葉に、礼次郎は安心したような、そうでないような気持ちで千蔵を見た。

 千蔵本人もこのことは聞いていなかったようで流石に驚き、


「源三郎様、それは一体……?」

「いいではないか、お前はまだ若い。しかし信州より外の世界はまだ知らないであろう? 自身の修行のつもりで礼次郎殿をお守りし、行動を共にして見聞を広めて来い」


 突然のことに、普段無口で無表情気味な千蔵が唖然として信幸を見る。

 しかし、外の世界――、 この言葉に千蔵は魅かれたらしい。

 無表情な瞳が少し輝きを見せた。


「しかし、城戸様の邪魔になるのでは?」


 千蔵が聞くと、信幸が礼次郎に向かって、


「どうであろう? この千蔵は無口で少々変わり者であるが、命令には忠実だ。そしてこの若さで忍びの技は真田忍軍でも一、二を争う腕前。きっと礼次郎殿の役に立つと思うが」

「はあ……」


 礼次郎はまじまじと千蔵の顔を見た。


 物静かな佇まいであるが、その鍛えられた身体には確かに信幸が言うような忍びの絶技の匂いがする。

 そして無口で無表情であるが、その少し細い目の奥には真っ直ぐで嘘の無い心の火が感じられた。


「そうですね、もし千蔵殿がいいと言うのであれば是非」


 礼次郎が言うと、信幸は喜んだ様子で、


「よし決まりだ。千蔵、今日から礼次郎殿をわしだと思い仕えよ。いつか礼次郎殿が志を遂げる日が来たら、またこの上田に戻って大きく成長したお前の姿を見せてくれ」

「承知仕りました」


 千蔵は言うと、今度は礼次郎の前に膝まづき、


「笹川千蔵と申します。主君の命は絶対です、何なりとお申し付けください」


 礼次郎は少し微笑んで、


「おいおい、そんなに固くならなくてもいいよ。よろしくな」



 ――なーんだ……。



 見ていたゆりはすこしがっかりして片頬を膨らませた。

 しかし、すぐに表情を緩めた。



 ――まあいいけどね……婚儀も私たちで決めたわけじゃないし。私たちも出会ってわずか数日間、所詮恋なんてものじゃなかったのよね……。


 ゆりは少し寂しげに微笑んだ。


 礼次郎らは荷物を背負って小屋の外に出た。

 夜の天空は変わらずよく晴れており、月は礼次郎を応援するかの如く優しい光を放っている。

 千蔵を加えた礼次郎ら四人は馬に飛び乗った。


「では行きます」


 礼次郎は信幸らに向かって言った。


「名残惜しいな」


 信幸はしみじみと言った。そして、


「近くに来ることがあればまた必ずこの上田に寄ってくれよ」

「はい、必ず」


 と礼次郎は笑った。

 そして礼次郎はゆりに向かって、


「ゆり殿」


 と声をかけた。


 ――殿……?


 "殿"と言う余計な言葉が戻ったことに、ゆりは少し寂しさを感じたが、


「何?」


 精一杯の笑顔を作って応えた。


「今回の事、本当に申し訳ない」

「………」

「色々と助けてもらったのに、色々と傷つけてしまった」


 ゆりは少し切なげに礼次郎の顔を見た後、ふっと笑って、


「ううん、気にしないで。私なんか大した役に立ってないし。それに礼次郎に……」


 ――出会えて嬉しかったよ。


 言おうとしたがためらった。


「何?」

「えっと……その……お蕎麦……礼次郎に蕎麦切り食べさせてあげれて良かった。一緒に食べられて嬉しかったよ」


 何とか取り繕った。

 礼次郎は笑って、


「そうだね、ありがとう。美味しかった」

「また、上田に来たら一緒に食べよう」


 ゆりは精一杯の明るい笑顔を見せた。


「必ず」

「元気でね、頑張って!」

「ああ、ありがとう!」


 礼次郎とゆりはお互いに微笑み合った。

 そして、礼次郎は馬上から、


「ではもう行きます。これ以上話していると離れがたくなりますから」

「うむ、達者でな」


 信幸もまた笑顔で言った。

 ゆりは一瞬無言で礼次郎を見つめた後、


「頑張って」


 と笑った。

 喜多も微笑んでいた。


 三人の微笑みを背に、礼次郎らは馬を返し、その場から走り去って行った。


 目指すは上州、城戸の地。


 そして千曲川沿いに残った信幸、ゆり、喜多。


 さっと一陣の風が吹き抜けた。


「行ってしまったな」


 信幸がぽつりと言った。


 ゆりは、礼次郎が去った方向を見つめたまま無言でいた。

 信幸は一つ小さく溜息をついた。


「城戸礼次郎……四年前とは比べ物にならないぐらいに立派で素晴らしい若者になっていたな」

「………」

「ではゆり様、帰りましょうか」


 そう信幸は言うと、小屋の裏手から馬を引いて来た。

 信幸はひらりと馬に乗る。

 喜多もまた馬に乗った。

 しかしゆりは立ちすくんだままであった。


「ゆり様?」


 信幸が怪訝そうに言うと、


「あ……」


 とゆりは我に返り、


「ごめん、ぼーっとしてた」


 と、馬に乗った。


「じゃあ行きましょうか」


 信幸が言うと、ゆりが、


「源三郎殿」

「うん? 何でしょうか?」


 信幸が振り返る。


「次の縁談の話お願いね!」


 ゆりが笑って言った。


「え?」


 喜多が驚いた。

 当然信幸も驚き、


「ええ? 何を?」

「縁談よ! 私早くお嫁に行きたいの!」

「しかし……今回はダメになったとは言え、礼次郎殿は時期が来たら必ずまた考えると言ってましたぞ」


 信幸が狼狽しながら言うと、ゆりは笑って、


「その時期っていつよ? いつになるかわからないでしょ? 待てないわ! それに……彼はもう二度とここへは来ない気がする。だからさっさと次の話を進めたいの。そして私がお嫁に行って、礼次郎がそれを知った時に後悔させてやりたいの!」

「そんな……それでは礼次郎殿は……」

「いいでしょ? お願い!」

「え? う、うーん……」


 信幸は戸惑うしかなかった。


「約束よ!」


 ゆりが強い口調で言った。


「は、はあ」

「じゃあ帰りましょう!」


 ゆりが馬に鞭打った。

 馬はいななき、ゆりを乗せて軽快に上田の夜空の下を走り始めた。


「あ、お待ちを!」


 喜多が慌てて後を追う。

 信幸もまた慌てて続いた。



 ――そう、出会ってわずか数日間。所詮恋なんてものじゃなかったのよ。



 ゆりは自分に言い聞かせるかのように心の中で反芻した。

 夜の天空浮かぶ月は相も変わらず穏やかな光を放ち続けている。

 しかしその北方の空には白い雲が浮かんでいた。



 ――恋なんてものじゃなかったのよ……



 しかし、ゆりは両の目から何か熱い物が流れ落ちたのを感じた。


「あ……あれ……?」


 ゆりは左手でそれを拭った。


 涙だった。

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