第54話 武田の血

 矢沢は笑みを浮かべながら、


「まさかここまで逃げられるとは思わなかったわ。よくやったなと褒めてやりたいところではあるが、我らの手の者どもも多数が犠牲となった。もうここまでだ、大人しく観念しろ」


 礼次郎は舌打ちした。


「後ろは閉じられた門と高い塀、そしてこうして我らに囲まれてはもう逃げ場は無いぞ。どうだ? 投降せぬか? 投降すれば徳川家に送るのでもう少し生き延びることができよう。その先は知らんがな。投降せぬと言うのであればこの場で命を落とすことになる」


「悪いがどっちもお断りだ」

「そう言うと思ったわ」

「わかりやすいだろ? じゃあ話が決まったならさっさと始めようぜ」


 そう言って礼次郎は刀の柄に右手をかけた。


「そんなに死に急ぎたいか」

「そうだな。だがただじゃ死なねえ。オレが死んだ後でも今後城戸礼次郎の名を聞いたら震えが止まらなくなるようにしてやる」

「威勢のいいことだ。いいだろう。だがちょっと待て、その前にまずゆり様をこちらに渡せ」


 頼康が左手でこちらに渡せと言う仕草をした。

 礼次郎もゆりに気付き、


「そうだな。ゆり、ここまでありがとう。流石にもう危ない。向こうへ行っててくれ」


 傍らのゆりに言ったが、


「嫌よ!」


 ゆりは首を横に振ると、


「矢沢殿、何でこのようなことをするの? 礼次郎は私たちを頼って来たのよ? それなのに命を奪おうとするなんて人のやることじゃないわ!」


 と怒気を含んだ声で叫んだ。

 頼康はそれを聞くと、


「人が人らしくなくなるのがこの戦国の世なのです。それにゆり様、普通の者が頼って来たのなら当然匿いますが、城戸礼次郎は違います。我らが和議を進める徳川家がその身を狙っている男なのです。ゆり様と夫婦になると言うのなら何としてでも匿いますが、そうならないと言うのであれば、城戸礼次郎が我ら真田家にいては邪魔なのです。さあ、ゆり様、危のうございます、早くこちらへ」


 頼康の言葉に、一瞬ゆりは複雑そうな表情を見せたが、声を荒げて、


「真田家はたった一人の人間のせいで和議を進めることすらできないの?」

「何と?」


「相手の狙う人間を匿いつつも和議を進めるぐらいの器量を見せなさいよ! 頼って来た一人の男の命すら守れずに家中の者や何十万と言う民を守れるのですか! それでも信玄公の側近く仕えた真田ですか!」


 ゆりの一喝に頼康は言葉を失った。


 そして頼康の背後で、真田家の侍、草の者らの面々がざわつき始めた。

 真田家の旧主は武田家である、武田の名を出されると弱い。

 しかもゆりは武田信玄の孫娘に当たる、そのゆりにこう言われて少なからず動揺した。


「そうだよな、そもそも城戸礼次郎には罪はないもんな」

「あのゆり様も庇ってるし」


 だが、そのうちの一人が突然こう言った。


「何、気にすることはねえ。ゆり様が傷つく事なんて恐れずにやってしまえばいい。ゆり様は立場的には確かに武田勝頼公の姫君であるが、元々は氏素性の知れぬ女子、武田家の血は引いてはおらんのだからな」


 驚愕の言葉であった。



 ――何?



 その言葉が耳に入った礼次郎は驚きの目を剥いた。順五郎と壮之介も唖然とした。


 そして当然、矢沢頼康の背後、真田家の者達も驚いた。


「何っ!?」

「お前何言ってるんだ?どういうことだ!?」

「俺は元々甲斐武田家にいたんだ。武田家滅亡の時に噂で聞いたんだよ」

「本当かよ……」



 ――氏素性の知れぬ? 武田家の血は引いてない? どういうことだ?



 礼次郎はちらっとゆりを見た。

 しかしゆりは表情一つ変えずに真っ直ぐに前を見ていた。

 さっと風が吹いた。

 ゆりの胸元の観音菩薩の木像がかすかに揺れた。


 矢沢頼康の背後で真田家の者達の騒ぎ声が大きくなり始めた。

 頼康はその様子に少し苛立ち、


「静まれいっ!!」


 と、大喝した。

 すると騒がしくなった背後の者達は水を打ったように静かになった。

 頼康は再び礼次郎らの方を向くと、


「ゆり様、今の我が真田家が置かれた状況はとても複雑なのです。信玄公がご存命であった頃とは比べられません。城戸礼次郎を匿っておけるような情勢ではござらんのです。さあ、どうかこちらへお出でくだされ」


 しかしゆりは首を振らない。


「嫌よ! さあこの門を開けて! 礼次郎をここから出して!」

「これは殿のご命令なのですぞ」

「じゃあ殿に会わせてよ!」

「どうしてもこちらに来る気はありませんか」

「当たり前だわ」

「ならばやむを得ませんな……殿はこうも言われました。もし城戸礼次郎を捕らえる際にどうしてもゆり様が邪魔になるようであればゆり様が犠牲になっても構わないと」


「……!」


 ゆりは言葉を失った。


「何だと……」


 礼次郎の顔色が変わる。



 ――やはり武田の血を引いてないってのは本当なのか? だからゆりが犠牲になるのに後ろめたさも無いって事か? それにしても酷い……



 礼次郎は再びゆりの横顔を見た。

 変わらず前を見据えたままであるが、少なからず動揺があるようであった。

 顔色が先程までとは違っていた。


 礼次郎は意を決して口を開いた。


「ゆり」

「何?」


 ゆりが礼次郎の方を向いた。


「もうこれ以上オレたちにつきあうことはない。ここまでよく案内してくれた、ありがとう。もういいから向こうに行ってくれ。君に巻き添えを食わせたくはない」

「礼次郎まで何言ってるの? こんな酷い事許せないの。私も戦うわ」

「頼むから向こうに」

「嫌よ」

「………」


 礼次郎はゆりの目を見つめた。

 真剣な眼差しである。

 先程は多少は動揺したようであるが、今の目には一点の曇りも無い。

 戦うと言う言葉は本物であった。


 礼次郎は一瞬瞼を閉じ、何か考え込んだ後に再び口を開いた。


「ゆり」

「なに?」


 礼次郎はゆりの目をまっすぐ見つめて、


「聞いてくれ。実はオレにはずっと想っている人がいる」

「え……」

「できればいつかその女を娶りたいと思っている。だから君とは夫婦にはなれないんだ」


 礼次郎は少し苦しそうな表情であった。


「………」

「だから……そんなオレの為に君を巻き添えにして傷つけるわけにはいかないんだ……さあ、お願いだから向こうに行ってくれ」

「………」


 ゆりの目がそっと潤んだように見えた。


「さあ早く」


 礼次郎の訴えるような苦しげな眼差しであった。


 ゆりは目線を外して下を向いた。

 そして再び顔を上げると、少し寂しそうに礼次郎の目を見つめ、


「私は……」


 何か言葉を出そうとしたが、それ以上出てこなかった。

 礼次郎は両手をそっとゆりの両肩に置いた。


「行ってくれ」


 優しい口調で言った。


「………」


 ゆりは潤んだ瞳で礼次郎の目を見つめ、またおもむろに視線を外した。

 そしてそこから離れ、ゆっくりと矢沢頼康の方へ歩いて行った。

 礼次郎は遠くなって行くその背を見つめた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る