第55話 脱出

 ――礼次郎……。



 ゆりは歩いて行く脚が重く感じた。



 ――それはおふじさんのこと? でもおふじさんはすでにいないんじゃないの……?

 


 ゆりは頼康の側まで来ると、足を止めた。


「これでいいのです」


 頼康が満足して笑みを見せると、


「後ろの方へ行ってください」


 と促した。


 ゆりは振り返った。

 先程まで一緒にいた礼次郎が大手門の前で心配そうにこちらを見ている。



 ――礼次郎、あなたは……



 ゆりの両の瞳に礼次郎が小さく映った。



 ――出会ったのはわずか数日前……婚儀も源三郎殿とあなたの父君が決めたこと……



(この数日間はとても恋とは言えるようなものじゃない。小さく芽生え始めたこの気持ちも今なら痛みもなく摘み取れるはず……)



 頼康が刀を抜いた。


「よし、これで気兼ねなくやれるわ。さあ、礼次郎観念しろ」


 背後の者たち百数人も一斉に構えた。


「やるしかないな」


 礼次郎は覚悟を決めて抜刀した。

 百人余りの敵を前にしているが、その顔は闘志に燃えている。


「順五郎、壮之介! 行くぞ!」

「おう!」


 と二人が応えてそれぞれ槍と錫杖を構えた。


 見つめるゆりの眼に、礼次郎がもうすぐにいなくなってしまう人に見えた。



 ――だけど、もうすぐあなたがこの世界からいなくなってしまうなら……私の世界は……



 彼女は、込み上げて来る気持ちを抑えることができなかった。


「あっ?」


 頼康が驚いた。


 ゆりが礼次郎の方に駆け出して行ったのだ。


「ゆり、何を!?」


 礼次郎も驚いた。


 ゆりはあっという間に礼次郎のところまで走って来ると、礼次郎の前に立って懐から何かを取り出した。

 小さめの焙烙玉であった。

 ゆりは頼康らの方を向き、


「どうしても礼次郎を捕らえると言うのならいいわ、これをそっちに投げつけるわよ!」


 大声で言い放った。


「くっ……」


 頼康は歯噛みした。


「小さいけど爆発力は保証済みよ!」


 と言うゆりに、


「何で戻って来たんだ、向こうに行けって」


 礼次郎が困り切った顔で言うと、


「あなたが誰を想おうと構わないわ。でも、私はただこんな卑怯なことが許せなくて……こんな風にあなたの命を奪おうとするのが許せないの」

「おい……」


 礼次郎は一瞬絶句したが、呆れたように苦笑した。


 頼康は苦渋の顔でためらっていたが、背後に武器を持って構えている者たちをちらっと横目で見ると、


「仕方ない。ゆり様が巻き添えになるのは心苦しいところではあるが……殿の命令だ、やるしかない。者ども、かかれ!」


 と刀を振りおろして命を下した。


「おおぅ!」


 と、呼応した百数名の真田家の侍、草の者たち。

 ダッと駆け出して礼次郎らを襲おうとしたその時、


 凄まじい爆発音が連続して鳴った。

 

 と同時に真田家の者たちを包んだ黒い煙。


「うわっ!?」

「何だこれは!?」

「煙幕だ!!煙玉か!!」


 それは何者かが放った煙の爆弾であった。

 彼らは黒い煙の中で周囲が見えなくなった。

 爆発音は連続して鳴り続けた。

 そしてあっと言う間に大量の煙幕が彼ら全員を包んでしまった。


「こんなに沢山の煙玉……一体誰だ!」

「やばい、目にしみるぞ!」


 彼らは大量の煙の中で視界を失い、動くことができなくなった。

 爆発音は更に鳴り続け、今度は彼らの中から悲鳴が上がった。


「今度は炸裂弾だ!」

「気をつけろ!」


 どうすることもできない彼らの間で悲鳴と怒号が飛び交った。

 しかし尚も煙玉は爆発音を響かせ続けていた。


「これはどういうことだ?」


 礼次郎らは何が起きたのかわけがわからず、戸惑っていた。


「しかし、今が絶好の機会なのでは?」


 と、壮之介が言う。


「おお、そうだな」


 礼次郎らが動こうとすると、その目の前へ何者かが頭上より飛び降りて来た。


「あ!?」


 驚いた礼次郎らへ、黒装束に黒い布で顔半分を隠したその者が、


「しっ、お静かに!」


 と小声で言った。



 鳴り続けた爆発音が止み、しばらく時間が経つと、蒸発するかの如く黒い煙幕が宙に消失して来た。

 目のしみもすでに収まり、真田家の面々は視界を取り戻した。


「くそっ、一体誰が……」

「奴らはどこだ?」


 彼らは残り漂う黒い煙を手で振り払う。


「あっ!?」


 矢沢頼康が驚きの声を上げた。


「いない、奴らがいないぞ!」


 十間ほど先の大手門の前、礼次郎らの姿が消えていた。


「ど、どこへ行ったっ!?」


 頼康らは周りを見回した。

 その時、後方で声が上がった。


「あっちだ! 城戸礼次郎らが二の丸の方へ逃げたぞ! どうやら殿を襲う気だ!」


 その声に皆一斉に振り返った。


「ちっ、やられたか! あの煙幕、どうやら他にも仲間がいたようだな」


 頼康は顔を赤くして悔しがりながらも、


「二の丸だ! 礼次郎らを追え!」


 と振り返って命令を下した。


 真田家の面々は答えて、全員がそれぞれ得物を片手に二の丸目指して駆け出して行った。



 そして大手門前に誰もいなくなった頃。


 大手門隣の白塗りの壁がぱらっと剥がれ落ちた。

 それは壁に似せて染めた白い布であった。

 そしてその布が落ちたところから礼次郎、ゆり、順五郎、壮之介が姿を現した。


「ふーっ、行ったか」


 順五郎が深く息を吐いた。

 礼次郎、ゆり、壮之介もほっと安堵の表情。


 そこへ、塀の上より先程の黒装束の者が再びすっと飛び降りて来た。


 ゆりはその者に向かって、


「ありがとう、喜多、また助かったわ」


 と笑顔で言った。


 その黒装束の正体は喜多であった。

 喜多は顔半分を隠していた黒い布を取ると、


「いえ、礼ならあの男に言ってください」


 と、少し離れたところにある屋敷の屋根を指差した。

 そこにも同じように黒装束の忍びの者がいた。

 その男は屋根の上より飛び降りると、飛ぶような速さでこちらへ走って来た。


「煙幕、その後の二の丸への誘導など、全てこの千蔵の手配です」


 その男は千蔵であった。


「ああ、千蔵も喜多と一緒に動いてたの」


 ゆりが言った。


「元々一緒に動いていたわけではないのですが、途中で会い、礼次郎様らを助けるので協力してくれと言われて……」

「そうだったの」


 ゆりは千蔵を見た。

 千蔵は顔を隠していた黒い布を外すと、


「うまく行って良かった」


 礼次郎は、


「千蔵殿と言うのか。助かったぞ。礼を言う」


 と礼を述べたが、千蔵は表情を変えずに、


「いえ、私も源三郎様の指図で動いたまで」


 と言うと、大手門の前まで行った。

 そして懐から鍵を取り出すと、かんぬきの鍵を開けて外した。


「外に」


 言葉短く言うと、千蔵は大手門の大きな扉を引いた。

 金属の擦れる重い音がして門が開き、外の景色が広がった。


「やった、これで出られるぜ」


 順五郎が手を叩いた。


「まだ安心はできませぬ、いつ気付いて追いかけてくるかわかりません」


 喜多が言った。


「その通り。源三郎様がお待ちですので拙者の後について来てください」


 と千蔵が言うや、走り出した。

 礼次郎らは千蔵の後を追って走った。

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