Umbrella
ヒロカワ
Umbrella
私はなんてついてないんだろうーー……。自分にがっかりしたのは何度目だろう。覚えていない。今日は寝坊して毎朝見る筈の天気予報を見逃した。それが原因で、今とても困っている。最寄り駅まで着いて、電車に乗ったのは良かった。問題はその後だ。電車の窓に雨粒が落ちてきたのは。しかもそれがどんどん強くなっていった。電車を降りた頃には、豪雨に変わっていた。これでは完璧に遅刻である。仕方なく、会社に電話を入れようとスマホのロックを解除したところで声を掛けられた。
「喜田さん?」
振り返る。よく知る人物がそこにはいた。篠宮吉行ーー同じ会社の上司だ。背は高くスラッとしていて、縁のない眼鏡が彼によく似合っている。篠宮は不思議そうに私を見て傘を持っていない事を理解したのか一緒に入っていくか、と勧めて来た。会社はもう目前、しかも男性と肩を並べて同じ傘に入るなんて、そんな場面を誰かに見られたら噂になるに決まっている。私は即座にお断りをした。できる限り丁寧な形で。
しかし、彼は傘だけを私に手渡し自分は走って行ってしまった。残された私は有難いのと、どうしようという思いとで複雑な気分だった。
*****
「篠宮さん」
お昼休憩になり私は篠宮に話しかける。コンビニ弁当を食べていた篠宮がこちらをちらりと見た。
「傘、ありがとうございます」
そう言って傘を差しだす。篠宮は吃驚した顔をして私に問いかけてくる。
「帰り、どうするの?」
「へ?」
「傘。雨降ってたらどうするの?」
雨は一向に止む気配はなく、むしろ強さを増している。私は答えに詰まり、しばらくの沈黙が続いた。
しかし、その沈黙を破ったのは篠宮の方だった。
「じゃあこうしない? 帰りは途中まで一緒に帰る」
「え、あ、はい……」
何も考えずに答えてしまった。この時の私はなんて馬鹿なんだろう。隣のコンビニでビニール傘を買うとか、そんな発想思いつきもしなかったのだから。とにかく篠宮と何を話せばいいのだろう、その事ばかりが頭の中をぐるぐると渦巻いていた。
*****
静かな時間が過ぎていく。けれどそれは気まずさなんてなく、むしろ心地良い時間だった。篠宮と隣り合わせで歩く。少し肩がぶつかってどちらからともなく小さく謝る。ふと見ると、篠宮の反対側の肩がびしょぬれな事に気付く。
「篠宮さん、濡れてますよ」
「俺は別にいいよ。女の子は濡れないようにしなきゃ」
その気遣いが嬉しくて私は急激に恥ずかしくなる。やはり、何を話せばいいのか解らず私は俯いた。
「もしかして、嫌だったかな?」
「え?」
「ほら、こんなおっさんと相合傘なんて…」
「いえそんな事…!」
むしろ、男性と相合傘自体が初めてなのだ。緊張するに決まっている。私は緊張をごまかすために篠宮に話しかけた。
「篠宮さんも家こちらの方なんですね、私知りませんでした」
「そうだね。ほら、会社の独身寮」
あぁ、私はその言葉に納得した。
「あ、私こっちなんです。今日はありがとうございました」
「構わないよ。喜田さん、もし良かったらなんだけど……」
篠宮さんが眼鏡の縁を摘まみ位置を調整する。小さく彼が呟く。その言葉がなんだか恥ずかしいし嬉しいしで、私は困ってしまった。
―この後、空いてるかな、もし良かったら……―
そんな誘いさえも顔を赤らめて言うこの人にどうやら私は恋してしまった。
彼の右肩はまだ濡れている。二人で一つの傘を使っているのだから…。
Umbrella ヒロカワ @hirokawa730
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